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「毒殺!?」
一番に言葉で反応したのはジャスミンだ。ミシェサーの側に寄って、話を聞こうと椅子を勧める。
ミュゼも水を取ってくるために厨房へと入った。ダーリャも、それまでディルと問答していたのを中断した。アルカネットも顔は向けている。
「理由が不明だそうです。今、緊急事態として緘口令が敷かれているそうですが、フュンフ様のいらっしゃる孤児院に向かったら職員がそう言ってて。フュンフ様とはお会いできませんでした」
「あいつに会えない……って、相当じゃないか」
「城は、もっと酷いそうです。最初は食中りを疑ってたそうなんですけれど、酷い人は青白い顔で昏睡してるって……。症状が出た中で酷い人は皆、今日の食堂を利用した人達だって事で城では問題になっているとか」
「……食堂?」
「食堂を利用してなくても、症状が出ている人がいるらしくて……私も話を又聞きしただけなので何が何だか」
「………」
ジャスミンが口を噤んだ。ミュゼが水を持ってきたそれを一息に煽ったミシェサーは、漸く息が整い始めた。
「毒殺など……。だからですかな、門が封鎖されるという話は」
「……」
門封鎖の話は国王崩御のせいだろうが、それをダーリャに伝えてやるつもりはない。
フュンフと会えなくて城内の様子が分からなければ、ディルが取る最善の次の手が不明のままだ。
ジャスミンは、ディルの視界の横でふらつくように椅子に座った。ふぅ、と溜息を吐いた後、ミシェサーに再度問い直す。
「……青白い顔で、酷い人は昏倒? 嘔吐や腹痛は、勿論訴えてますよね」
「そうみたいですね。あと、手足に力が入らないとか……流行りの風邪を引いた時みたいに、関節が痛いとか」
「………」
ジャスミンの瞳が細まる。考え事をしている時の顔は、普段の内気で臆病な表情ではない。
内頬を噛むように口を動かしながら、逡巡の後にジャスミンが立ち上がった。
「……ミシェサーさん。私を、フュンフ様の所まで連れて行ってくださいませんか」
何か心当たりがある顔だった。
「私の思い違いであればいいんですけど。でも、そうでなかった場合、とても危険です。危険な可能性は、排除しておきたい」
それだけ言うと、準備の為にジャスミンは自分の部屋へ戻る。
残った面々は顔を見合わせた。
「……ミシェサー、お前は残ってろ」
部下の疲労度合いを慮れない上官ではない。ヴァリンはそう言うが、ミシェサーは不安げな顔を隠せない。
「ですけど、副隊長。十番街に向かうのは、副隊長だって嫌でしょう」
「嫌さ。嫌だけど、今そんな事言ってられないだろ」
「であれば、我が行こう」
名乗りを挙げたのはディルだった。
「……フュンフに用が有るのは、我だ。あれをジャスミンが治療するというのならば、我が行くのが筋というものであろ」
「お前……本当に良いのか?」
「何がだ。今のミシェサーには休息が必要であろ。アールヴァリン、汝は此処で汝の部下からの報告があるやも知れぬ、それを待て。成れば我が行くのは道理」
「待って」
次いで声を挙げたのはミュゼ。
その頃には、ジャスミンも背に荷をありったけ担いで下りて来た。階段が軋む音が、彼女一人の時よりも大きく聞こえる。
「私も行く。ジャスミンに付いててやりたいし、フュンフ様には私もお世話になった。病人いるんじゃ手は多い方が良いだろ、緊急時には私が」
「……ミュゼ、ありがとう。でも、いいの?」
「いいのいいの。私がやりたいようにさせて」
善意しか口にしていないミュゼだが、心の中はそうではない。
ディルと双子が、偶然にも顔を合わせた時の事を考えた。有り得ないとしても、もし二人が顔を合わせて互いに親子だと認識した時、ミュゼの存在がどうなるかが怖かった。
二心ある自分を、そうと気付かず感謝するジャスミンに向ける顔が無くて目を逸らす。
「……人手が多い方がいいならば、私も同行して宜しいですかな?」
逸らした視線の先で、ダーリャが手を挙げた。
これは場に居るほぼ全員が完全に予想外で、けれどディルはさして動揺もせずにその言葉を聞いていた。聞いていて、出す答えも直ぐ。
「成らぬ。大人しくしておらぬと言うのならば、此の酒場からも出て行って貰う」
「そう言わず。フュンフは私の部下の一人でもありました。そして、『月』の管轄の孤児院であるならば私の昔の職場です。顔を出さない理由などありましょうか?」
「病人の居る場所に観光客が訪れる、其れ自体が邪魔なのだ」
「ふむ……。では、こうしましょう」
「えっ?」
ダーリャは次の手を考えていた。ジャスミンの側に寄ると、背負っていた荷物を両手でひょいと担いでしまう。
急に背中が軽くなったジャスミンがよろめき、ミュゼが咄嗟に体を支える。
「お嬢さん、暫しこの荷物持ちを老骨を雇って頂けませんか。今ならお代は無料とさせていただきますよ」
「え……ええ? えっと……」
「ありがとうございます。……ええと、ジャスミンさん。宜しくお願いしますね」
笑顔を浮かべたダーリャは、返答を待たずして一方的に口だけの雇用関係を結んでいた。
ジャスミンとしては自分の二倍以上の歳の差があるだろうダーリャに異性としての恐怖感を感じる事も無く、近寄られても嫌悪感は覚えない。だが荷物にはなるべく触って欲しくないのでどう断ろうか考えていた所だった。強く言えない性格であるジャスミンを見定めて無理を通し、背に荷を背負うと誰からも文句を言われないうちに酒場の外に出る。
呆気に取られているのはジャスミン、それからディルだ。他の面々は、予想の範疇だった光景に生温い視線を送るしかない。
「……冒険者崩れには、ああやって詐欺まがいの行為で金むしり取ろうとする輩もいるんだよなぁ……」
「ダーリャがやるとは思わなかったがな。でもまぁあいつだって、目的さえ果たせれば犯罪行為はしないだろ」
「ああやって近付いて窃盗に及ぶ不届き者もいるんですよね。ダーリャさんがその類でないと信じたいところですが」
ミュゼとヴァリンとアクエリアは、国内外の冒険者事情も少しは知っている。その事情と照らし合わせて完全に一致する訳ではないが、有名な手管に引っかかったジャスミンを憐れみの瞳で見た。
荷物を失い途方に暮れるジャスミン。その体を先導するミュゼと共に、酒場を出て行った。
「……アルカネット、アクエリア。後を任せる。ヴァリンは待機を、ミシェサーには休息を」
「ああ」
「承知してますよ。……はぁ、こうやって俺達の時間は削られていくんですね……」
「仕方ないだろ、お前の女が決めたんだ」
男三人がそれぞれに心配や不満など、思う所がある顔をしているのに対し。
「はーい! ……どうか、そちらもお気をつけて」
ミシェサーは、男共とはまるで違う蠱惑的な笑みを浮かべていた。
悪寒がしたようで、アルカネットが肩を震わせる。鼓膜を揺らした声に熱っぽい何かが混じっているのが聞こえたのだ。
ヴァリンもアクエリアも、ディルや他の女性陣不在の酒場の状況を考えると乾いた笑いしか出ない。哀れだな、と思っても口にしない。ミシェサーの標的は既に決まっていて、酒が絡まない文字通りの乱痴気騒ぎを好む性格では禁欲など思考の外だろう。
ディルも一度標的にされかけたので、アルカネットが置かれている不憫な現状も分かる。しかし、もう自分でなんとか回避しろとしか思わない。
「では行って来る。……アルカネット」
「あ、ああ?」
最後に義弟の名を呼んだディルは。
「頑張れ」
心にもない檄を飛ばして、酒場を後にする。
酒場に残った面々は、彼の口から放たれた言葉が普段の彼の発言に似つかわしくないものだったことに暫く硬直している。
扉を閉めて、歩き出すディル。少し離れた所で三人が待っていた。
「ほう。では貴女達も、フュンフと知り合いなのですか」
十番街道中の四人――といってもダーリャと女性二人だが――は、道を進みながら互いの理解を深めていた。特にミュゼとジャスミンがフュンフと知己の仲だという話には驚いていた。
目的地に到着するまでの世間話。そのつもりで始めた会話だが、話が進む先で出た話題である共通の知人の話に食いついたようだった。
「色々ありまして。あの酒場に居るお陰で、知人が増えた気がします」
「ふむ……。貴女達から見て、フュンフはどのような人物に見えますかな?」
「どのような……?」
ジャスミンが問いかけると、ダーリャは己の髭を触る。どう言葉を選んだものか考えている。
彼の不愛想と高圧的な態度は、少し関わっただけでも分かるだろう。それでも知人に数えてくれている女性に対して、機嫌を損ねるような話はしたくない。
「彼は、己の信念に対してとても正直です。そして私以上に頭が固い。私は、ディルとフュンフのどちらを副隊長に据えるかで迷った事もある」
「……」
「副隊長に……? それで選ばれたのは、マスターなんですか?」
「……私が、選んだ訳では無いのです。その頃には既にフュンフは」
「止めろ。昔の話を蒸し返すな」
話は断ち切られる。ディルはダーリャを見もせずに言い捨てると、早足で誰より先に進み始めた。
話すなと言いながら自分がいなくなることで、それで残された者が話を止めると本当に思っているのか。
ディルの優しさなのかも知れない。彼にこの先、その話題を振らなければ今話す事は黙認するのだろう。
「……フュンフは、ディルを慕っていた」
ダーリャは、ディルに声が届かない程離れた頃合いを見て口を開く。
「命を救われたからと、自ら次期副隊長の座を辞退したのです。そうして、ディルを副隊長に据えた『月』で、フュンフはとてもよく働いた。あの二人なら、私が居なくとも隊として成り立つと思っていたのですが……彼に隊を任せた後、ディルが早々に隊長職を退任するとは」
「……」
「………」
「……どうしました?」
ミュゼもジャスミンも、フュンフの誤りによってディルが城を追放になった話を聞いている。
ディルの妻であった『彼女』とディルが夫婦であったという関係をダーリャが知らなかった以上、その話を聞かせるつもりはない。深入りさせてはいけないと、させるとしても伝えるのは自分達であってはいけないと、ジャスミンとミュゼの思考が一致する。
「いいえ。神は、いつも祈りを聞くばかりで、此方に何か伝えたり、助けてくださる事は無いのだなと思いまして」
無言の理由を誤魔化すために両手を胸の前で組んだミュゼは、仮初の姿だったシスターの頃の真似事をしてみせた。それはダーリャのお気に召したようで、微笑んだ老紳士はミュゼを見つめている。
「神に何かを強請るのは陳情です。それは、祈りとも信仰とも違う。そしてこの国はかつて、アルセン神以外からは見捨てられた国ですから」
「……でも、そのアルセン神だって何もお伝えしてくださらない」
「そうですね」
老紳士は、笑顔のままだ。
ただ、その笑顔に曇りが生じている。
「掲示していただけたなら、誰ひとりとして悔やむような生活を送ってなかったでしょうね」
それはダーリャにとっても悔恨の一言だ。
その理由までは知らない二人は、唇を噤んだまま道を進む。
やがて目的の場所が見えてきた頃、ディルの姿を確認した職員が驚愕の眼差しで門を開いていた。