193
ダーリャを無理矢理アルカネットに押し付けた後のディルは、それまでなるべく表に出さないようにしていた疲労感が頂点に達していた。
無理をすれば、まだ体は動く。けれど他人よりも頑丈だという自負があった筈の精神が疲れ果てていた。持ってきた紅茶で食事を無理矢理喉奥に押し込んで、今にも閉じそうな瞳を必死で開いてソファに横になる。
戦場での疲労とは違っていた。精神の高揚なんて一切無くて、徒労感と屈辱が半々で精神を苛んでいる。
これを、耐えると決めた。妻の為に。本当は自分の為に。妻にまた傍に居てもらうために。
同時に思う。いつまで、どこまで、耐えれば戻って来る。
自分が持つ、他人よりも鈍感な精神が擦り切れる前に、妻が戻って来るという確証は無い。
通常であれば一切感じない弱気になっているのを疲労のせいにして、ディルは瞳を閉じた。
久し振りにダーリャの顔を見たせいだろうか。
切断されて義足になっている方の断端が、疼くように痛む。
「……それで」
ディルが目を覚ましたのは夕暮れだった。
女性陣は揃って厨房に入っているらしい。ミシェサーの甲高い声と、何かを叱り飛ばすようなミュゼの声が客席まで響いて来ている。
アルカネットは帰宅直後に自警団詰め所に向かったという話だ。酒場に部屋を持つ男性陣は誰も下りて来ていない。
……しかし、男はディル以外に一人、客席で優雅に紅茶を飲んでいた。
「この酒場の女性はお二人とも元気で、よく気が付く方々ですな。私が手持ち無沙汰な事に気付くと、すぐに紅茶を淹れてくださいました」
「出て行け、と言った筈だが?」
「アルカネットさんに今晩の宿をまだ決めていないと言いましたら、酒場には空き部屋があるから、と」
ディルの妻の墓参りに行くと言って出て行った筈のダーリャが戻って来ている。
アルカネットがそのまま街の中にこの爺を放逐すると思っていたが、何を思ってか連れて帰っていたのだ。怒鳴り散らしたくても、肝心のアルカネットは酒場に居ない。
「貴様の部屋を用意する人手は無い」
「まー、そう固い事言うなよマスター」
吊り上がったディルの眉は、呑気なミュゼの声が背後から聞こえても元に戻らない。
「神は困りし者を見捨てるなど心を痛めてしまいます。自ら救いの手を差し伸べてこそ、神はその者をお救いになる」
「似非神職が何を言う。神など存在して堪るものか」
「神の言葉を説いて飯食ってた過去がある奴こそ何を言う。折角だし、私もマスターの育ての親って人から色々と話を聞きたいんだけどなぁ?」
「話の通じるお嬢さんで助かりますよ。お美しいだけでなく神の言葉にも理解が深いご様子だ、」
「ありがとうございますうふふ」
ご機嫌なミュゼはダーリャと同じ卓の席に座り、老人の茶飲み話に付き合うつもりのようだった。茶請けの菓子が乗った皿を軽く手前に出されて、喜んでそれに手を伸ばす。
勝手にしろ、と諦めてディルはいつもの指定席に座る。視界に入れるのも嫌だったので目を閉じるが、話し声は嫌でも耳に入って来る。
「失礼ですがお嬢さん、以前お会いした事はありますかな?」
「会った事? ……いやぁ、多分ないと思いますけど」
「そうですか。いえ、貴女が昔の知人に似ているもので。彼女もお綺麗で、何処となく貴女に似ている気がしますよ」
「……あー」
ダーリャが誰の事を言わんとしているのかは分かった。彼女を知る人物は、いつもこうだ。
ディルの妻と似ていると言われているミュゼが、ディルの側に居ることで嫌でも思い出すのだろう。関連付けて覚えるほど、彼女のディルへの愛は深かった。
「あんまり、私じゃない誰かと似てるって頻繁に言われると良い気はしませんね」
「……これは失礼を。お許しいただけますか」
「んー? ふふ、嫌ですねぇ、そんなに怒ってませんよ。でもそうですね、折角そう仰ってくれるなら」
ミュゼの唇が笑みに歪んだ。
嫌な予感を察して、ディルが片目だけでその表情を見る。必要以上に時間を掛けて勿体振る言い方は妻に似ていない。ディルにもだ。誰に似ているかと考えれば、どうしてもディルにはミュゼの未来の育ての親であるアクエリアの顔しか思い浮かばなかった。
「おじいちゃん、って呼んでもいいですか?」
「……は?」
「は?」
ダーリャとディルが同じ一文字しか口に出来なかった。
あまりに突拍子もない提案に、二人ともが愕然とする。
「いやー、私ダーリャ様みたいな優しい祖父が欲しかったんです。両親ともに私が小さい頃に死んで、育ての親はもう本当にびっくりするほど酷い男で。でも私にダーリャ様みたいな優しい人が家族に居たら、きっと今より幸せだったんだろうなって思って。ね、マスター」
ディルに向かって片目を閉じるミュゼ。
高祖父の父親代理だから『おじいちゃん』と呼んでしまうつもりのようだ。ディルに祖父呼びを嫌がられた代替案といった所か。
ミュゼの過去や思惑を大体聞かされたディルでも、それは無理があるのではないかと思う頃。
「……おじいちゃん、ですか……」
ダーリャが感慨深げに口にした。その瞳は細められたが、内心入り混じる感情は複雑だろう。
「……私を、そう呼ぶ血縁は居ないので……不思議な感覚ですな。孫どころか、血の繋がった子さえ居ない。ディルはあの調子ですし」
「貴様に育てられたと思った事は無いと言った筈だが? 既に耄碌したか、老骨め」
好き放題言われて黙っているのは、ディルに目を向けなかった時間の隔たりを感じているから。その間にディルを襲った冷たく残酷な現実が、今でも彼を苛んでいると思っている。
実際それは半分正解で、半分外れ。
残酷な現実の中で、妻の生という希望を見出したからこそ、この老紳士に使っている時間は無いのだ。計画にダーリャの存在は無い。今更部外者が首を突っ込みたがるのは御免被りたい筈だ。
「マスター、その言い方は酷いよ。マスターだっていつか年取った時にクソジジイ呼ばわりされたくないだろ? まあ私から見たら充分クソジジイだけど」
「………」
「おー怖い怖い。止めてよねそんな顔、余所様に見せらんなくなってんじゃん」
自分には強く出ないのをいいことに、ミュゼがディルをからかう構図は最近顕著になっている。
でもダーリャはその姿を見るのは初めてだ。好き勝手言われて剣に訴えないディルは、ダーリャの知らない彼の姿。
成程、と何か得心がいった表情を浮かべるダーリャ。しかしそれは誤解で。
「……いや、妻に先立たれたと聞いて心配ではありましたが……。この様子では、そんなもの不要でしたな」
「え?」
「気にするなミョゾティス、老いぼれの戯言だ」
「しかし、お嬢さん……ええと、ミョゾティスさん。私の事は折角なので『義父』と呼んでくださって構わぬのですよ?」
「……あー」
いつもの調子で振舞っていたのが悪手だったと、ミュゼはその時気付いた。
親し気にしている男女がいれば関係を穿ってみる類の者は確かにいるが、まさかダーリャがその手合いとは。誤解されたままなのは嫌なので、今も義父と呼ばれたそうに表情を緩めている老骨に現実を突きつけてやることにする。
「本人目の前にして言いにくいんですが、マスターみたいなのはちょっとそういうの私無理なんで」
「は」
「それに私恋人居るし。それでなくとも……こう……マスターは……本当に……無理だなぁ」
何が無理かともし聞かれたら、遠いながらも血が繋がっているなどと詳細を語る訳にいかないので『何もかもが』と答えるしかないのだが。
その点の心配はいらなかったようで、ダーリャは髭のある口許をぱくぱくさせて絶句していた。ディルの顔はいいだけに、ここまで取りつく島もなく無理と突っぱねられるのが本人以上に堪えているようだ。
その当の本人は、特に気にしている様子もないし逆にダーリャを小馬鹿にするような顔をしているのだが。
「気は済んだか。貴様があらゆるものを放置して捨てたこの国を物見遊山する気分など捨て、夜が明けたら城下を早めに出て行くがいい」
「マスター……。本当、なんでそんな言い方しか出来ないかなぁ。おじいちゃんはここまで手紙届けてくれたのにさ」
「いいのですよ。私も、用が済み次第出て行こうとは考えていました。……ですが、そうもいかない事情がありましてね」
ダーリャの表情は暗い。
「私が城下に入った時、近いうちに城門を暫く封鎖すると言われていてですね。門番の騎士から、暫く泊まれる場所を探しておいた方がいいと助言をいただいたのです」
「封鎖……って?」
「私がいた頃は珍しい事でしたが確かにありましてね。この城下に、何かしら異変がある時には門を完全に閉じ切って、緊急事態以外での出入りを禁じるのです。その間物流も滞りますが……なに、数日の我慢でしょう」
ダーリャはそれだけ言って紅茶を口にした。落ち着いている老紳士とは対照的に、ミュゼの表情は曇り始める。
ディルなどは唇を引き結んで暫く無言を貫き、思考の後にミュゼに命令を投げる。
「ミョゾティス。今すぐ部屋に居る者共を引きずり下ろしてこい」
「はいよ」
「優先順位は保存の利く食料品調達が一番目、二番目に薪の調達。時間があれば城門と七番街の情報収集。急げ」
二人の背筋には嫌な予感が駆け巡って、脳内の警鐘を鳴らし続けている。
何かが起こる。あの時起こった地震だって、偶然じゃないかも知れない。
異変を感じたジャスミンとミシェサーが、同時に厨房から顔を出した。
「あれー? どうしたんですー?」
「ミシェサー、汝はフュンフを呼べ。『月』の任など後回しにして此方へ来いと」
「はーい。行ってきまーす」
「フュンフ?」
ダーリャの、名を呼ぶ独り言に返事する者は誰も居ない。
突然の指示にも関わらず、ミシェサーはそれまで纏っていた前掛けを脱ぎ捨てジャスミンに手渡し、そのまま酒場を出て行った。
ジャスミンは目を丸くし、手の中の前掛けと扉を交互に見る。理由も聞かず動くなど、ジャスミンの行動には無い。
「……夕飯作りの途中だったんです、けど」
「ジャスミン、汝も出て貰う事になる。馴染みの店で構わぬ、今棚に並んでいる食料品を買い漁れ。個々に食の好みが有るだろうが、その辺りは一任する。買い占めず、幾らかは店にも残せ」
「え……? な、何でです? 今の所備蓄もそれなりにありますし、食べ物に困ってないですけど」
「此れから困る可能性がある」
ジャスミンには、『食料を買う』ことに困った事はあれど『食料』自体に困った事は無い。小食な上に野草の知識もあるだけに、食べられるものは何でも食べる精神も身についていた。
けれど、『食べられるものが何もない』自体に陥った事が無いくらいには恵まれている。
その危機に瀕する世界が、ディルに見えた気がした。
「あの手紙の返事が何方だったにせよ――最早、国外逃亡は叶わなくなったか」
城門の封鎖がいつ解除されるか、今の状態では何も分からない。
今出来るのは、必要なものは何でもかんでもかき集める事だけだ。