あの頃の話 4
「なんて話するんじゃあソルビット!!」
口周りを乱雑に袖で拭いた『花』隊長は、吊り上がった瞳で自分の副隊長に向けて声を荒げた。
あまりに純真な反応を見て、ソルビットは手を叩いて喜んでいる。
「何、って、男女関係に付き物の大事な話っすよぉ? 結婚ってなったらもっと大事。たいちょー、その年で赤ちゃんが何処から来るかなんて知らない訳じゃないっすよねぇ? 葉物野菜の畑で生産される訳じゃないっすよぉ? 今度性教育の本でも持って来ましょうか」
「ばっか!! そんなん要らんわ!! ばか! ばっか!!」
過剰反応を見せる『花』隊長が気になったようで、演奏が終わって楽器の調整に入った王子騎士はちらちらと視線を向けている。その顔が赤いのは、話が嫌でも聞こえていたからだろう。
「……フュンフ、あの席の話は……」
「聞いてはいけません」
「でも、ソルが」
「聞いてはいけません」
フュンフは弦の張りを何度も確かめながら、光のない瞳で楽器を眺めている。腹違いの妹の煽りと、その煽りを受けて暴走している他隊の隊長の相手に疲れている顔だった。
「………」
ディルだって、少し動揺していた。
『花』隊長の恋愛観など今まで聞いたことが無い。酒の力を借りて、ここまで口を滑らせる彼女を見るのも初めてだ。純真が過ぎて潔癖な様子を見る事さえ。
ディル自身の動揺が何処から来るのかもまだディルには分からないけれど、耳は勝手に彼女の声に今まで以上に集中する。
「か、からだ、とか。そんなの、やっぱり、その、内面が、いちばんだいじで」
「でもクッソ下手だったら萎えますからねぇー。そういうのあるから簡単に余所の男に転んだりするんっすよ。エンダ様が良い例じゃないっすか、話の既婚者、絶対旦那が下手すぎてエンダ様にひーひー言わされたから恋しくなって此処まで来たんでしょうよ」
「お前果てしなく下世話だな?」
「今更っしょ」
ふふん、と勝ち誇ったように鼻を鳴らすソルビット。流れ弾を喰らったエンダは呆れ顔だ。
カリオンも涼しい笑顔で酒を飲んでいて、ベルベグは早めに帰宅しなかったことを後悔している顔をしている。
言葉に詰まった『花』隊長は、引き結んでいた唇を解いて、真っ赤な顔でソルビットに噛みつくような視線を向ける。
「……下手でもいいもん」
「はー? でも現実ってそうは上手くいかなくてですね」
「いいんだもん。……アタシが結婚したいって思う程好きな人なら、……アタシが気持ちよくしてあげるだけだから」
「…………………」
静まり返った酒場の中で、フュンフが楽器をごとりとカウンターに置く音がした。頭を抱えて手近な椅子を支え代わりにしている。
静かな中で、ディル以外の男達が視線を交わし合う。空気の分際で体に圧し掛かる程に重すぎる無音を、ディルは普段以上の不愛想で顔を逸らして耐えていた。
「……忘れろ!! 全員今すぐアタシが言った事忘れろ!! 無理なら死んでくれ!!」
「………いや、たいちょ、……忘れろって言ったって、……」
「……」
「………」
「これじゃ、騎士団隊長副隊長全滅っすよ」
ディルが視線を逸らしている間に、その場にいた殆どの面子がディルを見ていた。
純情で潔癖な『花』隊長の想い人はディルなのだと、この場に残っている全員が知っているから。
そっかー気持ちよくしてあげるのかーへー、と、ソルビットが煽るように復唱する。
「……熱烈ぅ」
「うわああああああああああ!!」
「近所迷惑だよ」
やんわりと諫めるカリオンだが、肝心の『花』隊長は卓に突っ伏して羞恥に泣き崩れていた。
自分で掘った墓穴は、身悶えするほど居心地がいいらしい。
こうなった『花』隊長を慰められるはずの育ての親である店主のエイスは、カウンターの奥にある酒の棚に身を支えさせて体を笑いに震わせていた。養い子の自爆に背中が痙攣している。
「まー、そうするためには早く結婚しなきゃですねたいちょ」
「うるさいっ!」
「一歩進まないと何にもならないよ? ここはひとつ、勇気を出して」
「カリオンそれ以上言うとぶっ殺すぞ!!」
「いやぁ……若いとは羨ましいことですね。ですが若さは有限ですし、隊長の仰る通り是非」
「おっちゃんまで何言うか!!」
「あー、エイス様。すみませんが酒もう一本お願いできますか。今日はいい酒が飲める」
四人が好き勝手言う中、ディルの頭の中もその好き勝手に侵されていた。
今日はいつも以上の悪乗りが許されている中で、ディルも『花』隊長の恋愛観に脳が揺さぶられていた。
凛と、騎士達の先頭に立つ女傑。時々阿呆で、考えるより先に手が出る女。
彼女だって生きているのだから任務以外にも色々な事を考えている。それらが他人であるディルの知らない事であるのが普通なのだ。
けれど、性的事情を含めた恋愛観などディルは考えた事もない。その差が、嫌に考えにこびりついた。
「………」
焦りが喉に張り付いた。
彼女の口走る未来を少しだけ考えてみたら、その隣に立つ男の想像図に羨望さえ抱いてしまった。
もうディルに笑いかけもしない彼女から、一身に献身を受ける男の姿は想像の中でも曖昧で、それでなくとも知らない事を考えるディルはすぐさま脳内の図を振り払った。
でも『花』隊長が言っていた『気持ちよく』の言葉には妙な熱を感じてしまって喉が渇いた気がする。頭を冷やそうにも水を被る訳にはいかない。
「……」
視線の端に、エイスが持って来ていた飲み物が映った。
もうこれでいい。渇きが収まるなら何か知らないこれでも飲める気がする。
フュンフも飲んだそうだし毒ではあるまい――手に掛けたそれを、焦りのままに一息に煽った。
「……っ、? ……!?」
それがいけなかった。
飲み干した途端、視界が左右に揺れた。と思いきや斜めに滑るような感覚に、ディルが手の中の器を取り落とす。乾いていた筈の喉が、焼けるような熱さを感じていた。
「……ディル?」
異変に一番に気付いたのはカリオンだった。『花』隊長の自爆に少しでも違う様子を見せていないか窺うだけのそれだったが、目の前で椅子から滑り落ちる彼を見てしまう。
「ディル!?」
その声に嫌でも全員が気付いてそちらを向いた。床に蹲り、嘔気を抑えきれない丸まった背中。
一番に駆け寄ったのは顔面蒼白のフュンフだが、二番目に駆け寄ったのは。
「ディル、ちょっと!? ディル、どうしたの!? ディル! ディルっ!!」
『花』隊長だった。
「兄さん、何で!? 何出したの、コレ!?」
「え……それ、フュンフ君にも同じものを出したよ!? オル――知り合いの子から貰った穀物酒だったから」
「は……?」
フュンフがディルの背を擦りながら目を丸くする。
「……あれは、酒だったのですか?」
「は?」
「え?」
「てっきり何かの果汁かと。甘くて飲みやすかったので、酒だとは思いませんでした」
酒豪はこれだから! と、『花』隊長が歯噛みする。しかし、ディルが取り落とした酒器を手に匂いを嗅ぐが一切の酒の臭気を感じない。あまりに弱い酒だったのだ。
ディルはまだ呻いている。今まで骨が折れても表情を殆ど変えなかった男が、酒の一杯で悶絶している様子にカリオンが戦慄した。自分と御前試合で殺し合いまでしかけた好敵手である男が、ここまで酒に弱いなんて。
次第にディルの痙攣が強くなる。ぐ、と声が漏れて、フュンフの焦りまでもが比例するように強くなった。
『花』隊長は。
「ちょっと、悪いねっ!!」
ディルの矜持を尊重して、手近な卓を引き倒した。それをディルの姿への目隠しの代わりにする。フュンフと『花』隊長以外の視線から逃れた直後、ディルが胃の中のものを床にぶちまけた。『花』隊長は嫌な顔ひとつせず、丸まっている背中を擦っていた。
嘔吐が落ち着いた頃に彼女が掃除道具を寄せてある隅に視線を寄越すと、エイスがそれを幾つか持って来てくれた。受け取ってまたディルの元へ戻る。
「フュンフ、兄さんから水貰ってきて。飲ませないと体の中の酒も薄まんねぇ」
「あ……ああ。慣れてるな」
「アタシ、ここで育ったからね。慣れずにいられないっての」
雑巾、新聞紙。それらで手際よく掃除し始めた『花』隊長を心配そうに見守る他の面々。特に店主は自分が深く考えず渡した酒での一幕なので、眉が下がってしまっている。
ディルの顔は顔だけ赤く、息も荒い。呻き声は消えたが、顔以外の肌は真っ青だ。悪寒がしているようで小刻みに震えてもいる。
「水だ」
「ありがと。……フュンフ、ディルの服緩めてやって」
「……ああ」
そのくらいなら『花』隊長でも出来ただろう――言いかけたフュンフだが、彼女の意思を尊重してディルの服の留め具を少し外した。
彼女は、ディルを不可侵の存在にしている。
ずっと前から押し潰されそうになっている恋心を秘め続けるために。
フュンフが服を緩めている間に、彼女はディルに水を飲ませる。ゆっくり、少量ずつ口に傾けてやる。飲みそこねた水が唇の端から床に垂れ落ちた。
「兄さん、毛布もお願いできる? 寒いかも知れない。ごめん皆、椅子並べて。横にさせたい」
「此処にあるよ」
「はいっす」
「了解」
指示を全員が完璧に聞いて、急患の応急処置は終わる。ディルが両脇を担がれ運ばれて大人しく横になった後で、他の片付けを終わらせて『花』隊長が一息ついた。
「……まさか、彼がこんなに酒に弱いなんて思わなかった」
「アタシも、初めて知ったよ。フュンフは知ってたの?」
「……隊長は、酒を毛嫌いしているからな。飲んだ姿を私も見たことが無い」
「マジかぁー。んじゃ、誰も悪くないよ。まさか一杯でここまでなるなんて思わないじゃん。はい、この話終わり」
そう言って小さな音で手を叩く『花』隊長。騎士であれば酒に因る急病人の手当ては此の場に居る面子なら王子騎士以外は多少の経験があるが、その誰より手慣れていた。
店主のエイスも彼女以上に慣れているが、全て指示を出された後だったので見守るだけになっていた。
「医者呼ばなくていいのか?」
一番心配そうにしているのは王子騎士だった。終わりと言われた話を蒸し返してでも知りたいらしい。
その一言に全員が首を振る。呼んでもこの状態では医者がする事は殆ど無いからだ。幸い、胃の中の酒は出たようだし今以上の異変が無ければ酒が抜けるまで見守るだけでいい。
心配する面々を余所に、『花』隊長は空いている椅子に座った後もディルの側を離れない。
「飲む空気じゃなくなっちゃったね。また今度一席考えるから、今日は皆帰りなよ」
「たいちょーはどうするんっすか?」
「んー。まぁ、ここアタシの家でもあるし? ディルが戻れるくらいになったら一緒に戻るかな。フュンフも戻りな、万が一明日までにディルが戻れなかった時に備えて仕事できる体制整えといて」
「その程度、言われなくとも」
フュンフは皮肉げに笑いながらも、エイスに頭を下げて先に退室していった。
他の面々は自分達が飲食した皿を一か所に集めて片付けした後、二人を残して出て行く。
エイスはその皿を厨房に引いていく途中に、『花』隊長に笑いかけた。
「……君が良いなら、同じ部屋に寝具を用意するけど?」
「はっ!? ば、なに、どぁっ!? 馬鹿、何言ってんの!?」
「この酒場には私がいるんだし、君も戻って良いんだけどねぇー?」
くすくす笑いながら厨房に入る店主。『花』隊長の顔は真っ赤だ。
真っ赤な顔のまま、気付けば眠りに落ちているディルの顔を眺める。
「……大義名分がないと、一緒に居られないんだから……やめてよね」
禁欲的な聖職者に、不純な動機で近付く自分が恥ずかしくて、避けていた。
『花』隊長の愛情は、ディルにだけ向けられている。ずっと前から、彼女の仕事に理解があって、彼女より強く、いつも冷静な『月』隊長に。
今は心配だからと、一人にはしておけないからという名目があるから側に居られる。
その短い時間だけと決めて、彼女はディルの寝顔をずっと見守っていた。