あの頃の話 1
一度だけ、ディルは酒を飲んだことがある。
経緯は事故だが、場所は忘れもしない。今の棲み処となっている酒場『J'A DORE』だ。
当時の隊長副隊長や一部の騎士で、慰労を兼ねた飲みの席に参加した時の話だ。
その頃には未来に妻となる女は隊長で、だからこそ会場として酒場を都合できたのだが。
人数は少ないのに、馬鹿みたいに煩かったのを覚えている。
でも、一番煩かったのは。
「ばーか、んな昔の話を蒸し返すんじゃねぇよ。お前さんの記憶は何年前で止まってんだこの鳥の巣頭」
「そうは言ってもですね。貴女いつも飲み過ぎて抱えて帰られてたじゃないですか。明日も朝早くから会議があるんですよ、『花』だけ不在で会議は出来ません」
「たいちょーが休むならあたしも休む―。あとはお願いしまーす」
「ソルビット、貴女まで!!」
騎士団長にして『鳥』隊長のカリオンに絡んでいるのは『花』隊長と副隊長。今の飲酒量と明日の会議について説教が繰り広げられているが、女性陣には何処吹く風。
自分の限界くらいもう分かっているよ、と繰り返す顔が赤い。ひとつに纏めて結い上げた鈍い銀色の髪が、管を巻くごとにゆらゆらと揺れている。
副隊長であるソルビットは、さして飲んでいない筈なのに振る舞いは酔っ払いのそれだ。
「たのしー酒の席で仕事の話なんてしないでくださるー? 誇り高きアルセン騎士団の団長は空気も読めないんですかぁー? アタシにモノ申したきゃアタシより飲んでから言ってくれねぇー?」
「……貴女、私より弱いじゃないですか」
「出たー!! 団長様の上から目線ー!! ちょっと聞いたソルビット? この鳥の巣頭、自分のが酒強いっていう嫌味かねぇー?」
「うーんたいちょ、言葉は分かるけど話が通じなくなってきたっす。ほらほらツマミ食べて」
酔っている振りが得意なソルビットは、自隊の隊長が粗相をしないように、且つ絡み酒の相手から巧妙に逃げる振る舞いを心得ていた。これも、自他国問わず要人に取り入って来た時の癖だが、それは飲み会の席で遺憾なく有意義に発揮される。
その三人を遠巻きにしながら、今回の席に呼ばれた面々は思い思いに酒を酌み交わし話に花を咲かせている。そして騒いでいる輪から一番遠い、カウンター席で酒と料理を提供しているのが『花』隊長の育ての親にして酒場店主の男であるエイスだ。
彼はダークエルフという素性を隠さず、アルセン城下でのんびりと生きている。裏の顔がある話は、ここでは置いておく。
「辛気臭い顔してんな。お前、酒盛り来るの初めてだったか?」
場にそぐわない紅茶を飲んでいるディルに声を掛けてきたのは、『風』隊長のエンダだった。相変わらず気障ったらしく髪を流し、着ている服も深緑を基調にした燕尾服だ。こんな気軽な酒場で酒を飲むような格好ではない。大方、この酒場の後は何処かの女と約束を取り付けているのだろう。
『月』に所属している者はディルも含め、殆どが隊服である神父服で参加した。仕事終わりに酒場に来た者が多かったからだ。
「……初めてだ。騒がしい場所は好まぬ」
「だろうな。んでも、お前来て嬉しがってる奴もいるんだからよ。そのツラ止めとけ」
「嬉しがる……?」
「ん」
エンダが顎で示したのは『花』隊長だった。
「あいつ、いっつもお前が来ない事気にしてたんだよ。親睦会も兼ねてるってのに、お前の付き合いが悪いから」
「ふん。今更酒を囲んでの交流など必要あるまい。あの者とて、親睦会どころか酒に飲まれているではないか」
「日頃の鬱憤も溜まってるみたいだからなぁ。だからたまにはあいつに酒飲ませて、好き勝手させてやらんとな。目に見えて鬱憤溜めてんのに、部下達の前だと冗談めかした愚痴しか言えねえからな。それでなくとも、俺らみたいに他に遊びも知らん女だ」
「其れ程でないと、ネリッタの後釜は務まらぬのであろ。ネリッタは、あれでいて良く出来た隊長であった」
「まーなぁ……。ネリッタ様にお世話になったって奴、うちにも多いんだぜ。あの懐の深さをあいつにも要求するのは……難しくはないが、大変だろうなぁ……」
隊長二人は、先代の『花』隊長の姿を思い浮かべていた。
その姿だけを見れば『花』などといった符号が似合わぬ男であった。符号から想像されるような可憐さも優雅さも持っていなかったが、隊長という立場がよく似合う、偉丈夫――ともまた違う不思議な男。
戦場で死んだその男の立場を継いだのが、カリオンに絡みながら胡乱な目付きで甘藍の油炒めを食べ続けている現『花』隊長。エルフの血が流れる、半端に長い耳をした鈍い銀色の髪の女だ。
「隊長の耳を、『花』の事で汚すのは止めていただきますかな。――『風』隊長」
二人の会話に割って入ったのが、『月』副隊長のフュンフ。
フュンフは先程から度数の強い酒を手当たり次第に空にしている。しかしその顔は赤くなったりしておらず、エンダはそれに苦笑いを浮かべた。
この卓に運ばれてきた酒器の数は八を超え、酒瓶の数は四を数える。それなのに、それら殆どが空になっていた。
「酒など、喉を焼くような感覚が無ければ水と同じでしょう。この程度で前後不覚になる方がおかしいのです。そもそも自分の飲める量が分かっていると言いながら他人へ迷惑を掛けるなど、隊長職を与る者として心構えが足りないと言わざるを得ませんな」
「お前、自分の感覚が絶対に正しいって思ってないか。酒これだけ飲んで平然としてるお前の方がおかしいんだよ、こんな高い酒かぱかぱ空けやがって」
その酒は隊長であるディルに自隊の者からの献上を受けたからなのだが。
今まで一度も酒を口にした事が無いディルは、人を簡単に狂わせる酒を嫌っている。だからそれを『処分』するのはフュンフの役回りとなっていた。
フュンフもフュンフで、今まで酒による失敗は無いからそれを当然の事だと思っている。自分の崇拝する存在から、それが嫌っているものを遠ざけるのは自分の仕事だ、と。
それは酒だけでは無く、『花』隊長も対象に入っていた。
「『風』隊長。私共相手に御高説を垂れ流すよりも、他の面々の所へ行った方が良いのではないですか。『風』の者達も手持ち無沙汰にしていますよ」
「あーはいはい。ったく、フュンフも程々にしとけよ。お前俺より年上なんだから、飲み過ぎてガタが来るのもお前のが早いぞ」
「年の話は関係ありますまい」
エンダはそのまま『花』隊長に絡まれているカリオンを助けに行った。「逃げるつもりかカリオンー!」と声が聞こえるが、それさえいなしてエンダは『花』の二人と言葉を交わす。
諜報部隊出身のエンダは、酔っ払い相手の話も得意だ。不機嫌だった酔いどれ隊長の顔も、すぐに笑顔に変わった。
その『花』隊長の笑顔を、ディルは遠くから見つめるだけだ。
「……隊長?」
「……いや」
彼女が隊長に就任してから、言葉を交わす回数が激減した。
何をしなくとも向こうから話しかけてくれたのに、今ではディルを見るだけで身を竦ませ逃げていく。それを皆は、何かを知っているような諦めた顔で苦笑いして見るだけ。
ディルには理由が分からない。元からディルの事を良く思っていない者や、ディルの話を聞いて恐れているものなら良くある話。彼女に何かしたか心当たりを考えても、何も思い至るものが無い。
任務の話の時だけ、彼女は割り切って会話をしてくれる。けれど視線が合うことは殆どといっていい程無くて、たまに視線が合った時には鈍いディルでも分かるくらいにあからさまに瞳を逸らされる。
自分に向けられる笑顔なんて、無くなった。
「フュンフ。軽く摘まめる物を頼んで来い」
「はっ」
自分以外の前では屈託なく笑う姿を見ていられず、フュンフに食べる物を要求すると彼は通常通りに立ち上がる。歩く姿も、大量に酒を飲んだ後とは思えない。
酒を嫌う身としてはそれに羨ましさを感じる事も無いが、興味が無いとは言えなかった。
『花』隊長が少し飲んで気を大きくし、鬱憤を軽減させる力があり、普段は言えない事も酒の力を借りれば言えるようになると言う。ディルには今の所酒の力を借りたくなる事態に陥ってはいないが、もし飲んだら自分がどんな状態になるのかは気になる所で。
しかし目の前の酒はすべて、フュンフが何か言う前に空にしてしまっている。気を回すフュンフの存在も、時には少し厄介だ。
「んでもさー、たいちょーだって酒以外の趣味を見つけた方が良いと思うっすけどねぇ?」
一人になったディルの耳に、ソルビットの話が聞こえてくる。
この場に女性は二人しかいない。騎士隊に所属している数が少なく、その上で重役は大体が既婚だ。家庭を大事にしている者は元から参加していないか、早めに帰っている。高い声は聞きたくなくても耳に届くし、その話し声の先が『花』隊長であれば自然と耳は澄まされた。
もう、二人の側にエンダは居なかった。
「趣味って言ってもな……、今の所隊長職が趣味っていうか……。隊員の誕生日覚えるの楽しいけど」
「んなの趣味って言えますか。手芸いいっすよ。一人で出来るし成果物あるし何より針は武器になる」
「実用性重視かよ」
「服作るのも楽しいっすよ。あたしの今日の下着、手作りだけど見る? うふん」
――瞬間、酒場内の空気が静まり返った。
「ソル………!!」
それまで、酒を飲んでも顔色を変えなかったフュンフが顔を真っ赤にしてソルビットを睨みつけている。
大股で怒りに任せて近寄り、挑発的な笑みを浮かべた彼女に寄って行った。
「ソル、此処にいるのは騎士団の者共だ!! 任務中でもあるまいし、秩序を乱すような発言は控えぬか!!」
「あっれぇ、どうしたの兄貴。まさか、兄貴ともあろう者があのくらいの酒で酔っちゃったのぉ? ヨシヨシしてあげましょうか? あー可愛い可愛い」
「ソ・ル!!」
唇に指を這わせつつ、逆の手で兄と呼んだ男の頭を撫でる『花』副隊長ソルビット。
酒場に居る者達の表情がどこかぎこちなく、酒のせいだけでない顔の赤らみを抱えている者も居た。
ソルビットは、国を傾けられる美貌を持つ女。足に際どい切れ込みが入った長い下衣からちらちらと美脚が見え、上衣には露出が無いのに大きな膨らみが服の下から存在を主張している。
「フュンフ、ソルビットのコレはいつもの事だろ? そんな目くじら立てるなよ」
「『花』隊長。貴女がそう甘やかすから副隊長が自由なのです。少しは部下の誕生日を覚える以外の管理をしては如何ですかな」
「いーじゃん誰に迷惑かけるでもなし。それに今日は無礼講だろ? ソルビットに手を出せるような勇気ある奴も居そうに無ぇしな!!」
酒で気が大きくなっている『花』隊長はからから笑って、大したことないと言ってみせた。
女性の魅力を引き出している格好のソルビットとは違い、彼女は少年が着るものと変わらない上衣と下衣だ。色も生成りと黒。胸は慎ましやかに存在を示し、同時に腰も細い。これで騎士団の四隊長の一人だと言って、初めて見る者はどのくらい信じるだろうか。
「ま、うちの大事な副隊長に手を出すってんなら、まずアタシに話を通して貰わねぇとならんがねぇ?」
笑顔の『花』隊長は、目が笑ってない笑顔を浮かべたまま酒場を見回した。それだけで、三人のやり取りを見ていた騎士達は一斉に目を逸らした。
何かあれば鉄拳制裁を喰らわせる事で有名な隊長だ。その拳の餌食になった人数は、公にされているだけで二十を超える。
粗野で乱暴で、けれど気さくで無自覚の人心掌握に長けている女だ。ディルも、嫌いという訳では無い。
だから、急に余所余所しくなった理由を知りたいとは思っている。
彼女の視線は時折、まだ三人の方を見ている者に止まっては、逸らされたのを見てまた移動する。
そうして次に彼女が見るのはディル、の筈だった。
「……? ……!」
ディルと目が合った瞬間。彼女は一瞬体を震わせた。かと思えば、勢いよく目を逸らす。
近くに居るソルビットもフュンフもその様子を見て呆れている。彼女の半端に長い耳が、先程より赤みを増していた。
彼女のこの行動の理由と。
自分の胸に襲う不快感の理由と。
そのどちらもを、ディルはまだこの時は知らなかった。