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「――外まで、声が聞こえていましたよ?」
扉の向こうから現れた老紳士は、笑顔を浮かべたまま許可なく中に入り込む。
秋の日差しに被っている帽子は焦げ茶、上下揃いの黒いゆったりとした服を着ているが肩幅が広い事は服の上からでも分かる。帽子を脱ぎ去った後に出て来る金の髪は王子姿のヴァリンと同じように後ろに撫でつけられていて、口周りに髪と同じ色の髭を蓄えている。
笑顔を浮かべている。それは、アルカネットやアクエリアが応対した時と同じように見えるが、どこか凄みが感じられてアルカネットが僅か息を飲んだ。
「……ああ、懐かしい。ここに来るのは何年振りかも分かりませんな。……ディル、貴方は変わっていませんね。話は終わっていませんぞ。席に座って待っていなさい」
「………嘘だろぉ。やっぱりお前かよダーリャ」
「……? はて、どなたですかな。私の名前を御存知とは」
ダーリャと呼ばれた男はヴァリンを見て小首を傾げている。
もう手遅れだと察したディルはそれまで手にしていた皿をカウンターに置いて、面倒臭いと瞳を閉じる。
「……ディルさん、ヴァリンさん、誰なんですこの方は」
「ばっ、馬鹿! お前っ!!」
「ヴァリン……? もしや、アールヴァリン殿下でいらっしゃいますか!? 随分と大人になりましたな、何故此方に!?」
名前を呼ばれて真っ青になるヴァリンだが、時既に遅し。ヴァリンはその場に崩れ落ちそうになるが、腕を掴んでいるアクエリアがそれを許してくれない。
結局この男は誰だ、という疑問ばかりがアルカネットとアクエリアの頭の中で膨らみ続けるが、その疑問に答えを出したのはディルだった。
「……奴は、ダーリャ。フュンフより二代前の、騎士隊『月』の隊長だ」
「へ」
「同時、孤児だった我を引き取った、名ばかりの後見人である」
名ばかりの後見人、という冷たい呼称と向けられた瞳にダーリャが苦笑を浮かべる。
「今更何用だ、我に全てを押し付けた者よ。……後に待ち構える労苦を思えば、副隊長就任の件から断っていた」
「……。やはり、色々貴方に背負わせてはいけませんでしたね。私が命を賭けてでも、全て自分で解決すべきでした」
「もう遅い。貴様が買った恨みを我も背負う羽目になった。面倒ばかり残して国を出て行った貴様に、我が話す事は無い」
「……その言い草は無いのではないですか?」
老紳士の笑顔はディルの言葉に消えていく。
「ディル。貴方は今でもその態度が変わらないらしい。この酒場の皆さんに、迷惑を掛けていないでしょうね?」
「ふん、子供扱いするな」
「子供みたいなものでしょう」
今まで自由に振舞ってきたディルが、先程から苦々しい表情を浮かべている。
まるで、目の前にいるダーリャが弱点であるかのように。
ディルにとっての弱点は彼の妻だけであるように思っていたアルカネットとアクエリアが、その光景を不気味なものを見るかのように見ていた。
「図体ばかり大きくなっても昔のままですな。いやはや、私は子育てにはそれなりの自信がありましたが、貴方を見ているとそれが驕りだと思わずにいられない」
「貴様に育てられた記憶は無いが? 忙しさを言い訳に、貴様はいつも何処とも知れぬ場所に行っていたではないか」
「……それは、私も……引き取った者としての責任を感じております。ですが、ディル。今回此方へ来た理由は、貴方と言い争いたかったからではない」
ダーリャは、尚も不機嫌を隠さないディルに向かってふたつの封書を出す。
赤と青の二色の文様で縁取られた封蝋で閉じられた封筒。もうひとつは深い緑色一色の封筒。それらは私書のようで、宛名も差出人も書いていない。
「貴方に渡せばいい、と。とある二人から預かっています」
「とある二人……?」
「……俺が出した奴の返事、か」
ディルの代わりにそれらをヴァリンが受け取った。自分宛と分かれば誰に断りを入れる事もなく封を破っていく。
中に入っている便箋は一枚。読み終わると次を開け、中を見る。
後に出るのは、ヴァリンの溜息だけだった。
「……誰からだ? 何と出して、何と返って来た?」
「あー……、うん。その、な。……前、言ってたろ。国外に……ってんなら手を回す、って。……それで、その先の心当たりに、国を挟まずにあくまで個人として聞いてみたんだ。もう、俺は王子としての地位も使う気になれなかったしな」
逃亡、という言葉を使わなかったのダーリャという部外者がいるからだ。馬鹿正直に聞かれては面倒臭い。
ヴァリンの手の中で、二枚の便箋が音を立てて丸め込まれる。それだけで、状況が悪い返事が来たのだと理解出来た。
「パルフェリア、拒否。シェーンメイク、条件次第で許可」
「条件?」
「まぁ、うん。……これは、俺の一存じゃ決められないってか……いや、俺の一存に託されても、多分、素直に頷けないっていうか……」
書いてある条件とやらも何もかも、ヴァリンの手の中で文字通り握りつぶされては読めもしない。
幾ら個人として手紙を出したとしても、中に書かれているのは政治を知った者達により書かれた文章だ。ディルが読んでも、直ぐにそうと納得『出来ない』、或いは『してはいけない』内容が書かれていることくらい察せられた。
「俺のしたことで、他の奴に責任被らせたくないんだよな。……そこの老人がしたみたいに」
「……手厳しい。あの方々との間でどういったやり取りを交わされていたかは存じませんが、流石はガレイス陛下の嫡男でいらっしゃる次期国王ですな」
「はぁ?」
次期国王――ではないことは、この場に居る全員が知っている。今更その話を蒸し返されて、ヴァリンの表情が不愉快で歪む。
次期国王という立場がどれだけヴァリンに苦痛を齎したか、ダーリャだって知っていた筈だ。この老人はかつて国王の懐刀として様々な命令を聞いていた。ヴァリンにとってのミシェサーのように。
「手紙を持って来た事には感謝してやってもいい。……用事は済んだはずだ、出て行ってもらおうか」
「まあまあ、そう急かさないでください。長旅の疲労は老骨に沁みましてな、もう少し城下に滞在するつもりなのですよ。それに、彼女に御挨拶をと思いましてな」
「彼女?」
「………」
ダーリャが押し黙った。かと思いきや、口許に笑みを浮かべる。そして、脱いだまま手にしていた帽子をそのまま弄び始めた。
「ディル。貴方は、騎士の座を剥奪と成った後に、『彼女』の本来就くべきであったギルド長の座に就任したと聞いています。彼女が、戦死した事も」
ダーリャの言う『彼女』がディルの妻を指していることに、全員が気付く。同時に、この国の中で面倒な役職があることを知っている事も。
何処まで、何を知っているのかアクエリアとアルカネットは掴み損ねている。けれど、ディルとヴァリンの表情は変わらない。
「………」
「貴方が就任したとなれば、きっと彼女も不本意と思っていたでしょうな。彼女は、私から見ても貴方を深く想っていましたから」
「ふん。我が妻の何を知っている」
「つ」
ぱさり。
ダーリャの帽子が落ちた。
「………。妻?」
「……ダーリャ、知らなかったのか?」
「妻、って。まさか、そんな。ディル?」
「あの者は、我の妻だ。一年と少しで、傍から居なくなった不届き者だがな」
後見人というこの男さえ、ディルが誰かの伴侶となる世界を想像していなかった顔だ。
ふらふらとダーリャが近場の椅子を目指した。腰掛けて頭を抱え、何かを考えているように唸っている。
「……ギルド長の地位を継いだのは、空いた席に就かされただけとばかり。確かに、ギルドの仕事は貴方に合っていたでしょう。命令と聞けば必要以上に手を汚した貴方であれば適任だった。ですが、そこに彼女との関係が関与していたとは思いませんでした……」
「十年もの間、連絡ひとつ寄越さずに放浪していた男の発言とは思えぬな」
「貴方だってあれだけ想われていながら、一切興味ない素振りを続けていたでしょう」
二人のやり取りから察するに、後見人も被後見人も、そういった恋愛事に疎いと分かる。
疎くなければ、こんな不毛なやり取りもしていない。
「……そうですか。妻……。貴方は、彼女の想いに応えたのですか、ディル」
「………」
「それなのに、彼女は、貴方を置いて……」
この酒場で。
妻に選んだ女さえディルを独りにして。
十年の時を越えてディルの今を知って、その事実にダーリャさえも悲しんでいるようだった。
「勝手な妄想を繰り広げている所を邪魔するが、貴様が悲痛な顔をしているだけでは妻は戻って来ぬのだ」
「……そう、ですよね。いやはや、申し訳ない。……ディル、彼女の墓前へ、案内をしていただけませんか? 貴方を愛した彼女に、御礼のひとつでも言わないと私の気が済まないのですよ」
「ふん」
勝手に来て、勝手に用事を言いつけて、ディルの中でダーリャの勝手だという人間像がまた更新された。
かといってダーリャも頑固なのは知っているので、案内のひとつでもしないと帰ろうとしないだろう。溜息ひとつ溢したディルは、その面倒な仕事を――放棄した。
「アルカネット、汝が行け」
「はぁ!? 俺!?」
「汝が閂を開かねば、その男も入って来なかったであろう。所詮片道幾らの短い時間だ、我は先に休息を要求する」
「あー、俺も風呂入って寝ておきたい。んじゃアリィちゃん、後宜しく」
ディルとヴァリンが用事を押し付け、二人はすぐに自室へと戻っていく。ディルの食事は皿を掌に掬われて、一緒に部屋へ。
「……マジかよ……、おいアクエリア。俺詰め所に行かなきゃいけないからお前が、っておい!!」
「貴方自警団員でしょ。困っている人を助けるのも仕事の内の筈ですし、俺は今の所無関係です。それじゃ、気を付けて行って来てくださいね」
アクエリアもそそくさと階段に向かって逃げ出した。残されたアルカネットは、笑顔のダーリャを託されて愕然としている。
「それでは、すみませんが……えっと、アルカネットさん? よろしくお願いいたします」
物腰は柔らかく丁寧なこの老紳士だが、低い声には有無を言わさぬ圧を感じさせている。
貧乏籤を引かされたアルカネットは肩を落として、渋々と言った具合にダーリャを六番街へと案内するのであった。
ディルが目を覚ました時には、アルカネットの意趣返しとしてダーリャも酒場に戻ってくるのだか、それはまた数時間後の話。




