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「……なんか、大変な事になったな」
報告を受けて苦い顔をしているのはアルカネット。
自分の国の頂点に立つ存在が崩御するからといって、アルカネットには何の感慨もない。けれど国内は新しい王が政務に慣れるまでは不安定になるだろうことは分かっている。本職である自警団員としての思考は国民の安全を考える余力がある。
「何というか、その……お疲れ様でした」
ジャスミンはどう声を掛けていいか分からずに、両手の指を合わせて下を向いている。
崩御で国がどう変わるのかは医療特化の頭で考えても分からないが、この場に居る全員が明るい顔をしていないから状況を何となく察する。
「……ちょっと、アクエリア」
「………」
ミュゼによる小声の窘めを物ともせずに頬杖をついて余所を向いているのはアクエリア。
既に王家やその周囲で起こる事に我関せずを決め込んでいるらしい。耳に届いてはいるだろうし、彼なりに思う所はあれどそれらと積極的に関わろうとはしていない。
ミュゼはそんな恋人の姿に呆れているが、彼自身の事情を知っている者ばかりなのでこの振る舞いに強く言うつもりはない。
ミシェサーはアクエリアの不敬の理由を知らず僅かに顔を顰めるものの、それだけだった。
「伝えた通り、此れで我等が国家の中枢に入り込む機会は増えた。城に呼び出されはしようが、其れには我とアールヴァリンが対応する。ミシェサーが今回新たに関係者として加入したのは主にアールヴァリンの雑用をさせる為であるが、必要に応じて各々も駆り出して構わぬ。その覚悟があっての出向を希望したのであろうからな」
「ええ、出来る事に幅は有りますが複雑な仕事以外であれば基本何でも。情交のお誘いでしたら男女どちらでも」
「黙れ」
相変わらず発言を許せば簡単に不埒な言葉を漏らす口を黙らせる。黙らせられた側は唇を窄めて突き出し、子供のような不満を露わにしていた。
一先ず重要事項を伝え終わった後、ディルが周囲を見渡した。
「……此方からは以上。次は、我等が不在にしていた間の酒場の話をして貰おうか」
特に何かしら大きな話があるとも思えなかったが、一応の確認の為に状況報告を請おうとした。
報告する者として、アルカネットとアクエリアの間で視線が交わされる。それで席を立ったのはアルカネットだ。
「じゃあ俺から話すぞ。実はお前達が出発したあと――」
アルカネットが立ち上がった瞬間に、ディルが何かの胸騒ぎを感じて眉を顰めた。
普段であれば聞き取れない程に低い音が鳴っている気がする。アルカネットがディルの表情の変化に気付く前に、その場にいた全員が異音に気付く。
「な、な、何!? やだ!!」
「……おー」
「ほう? 六年いますが初めてですね」
最初は酒場全体。建物がミシミシと音を立て、食器棚に入れ込んだ食器が僅かに揺れて音を立てる。
立っているアルカネットは不意に眩暈を感じた気がして机を掴んだが、それは眩暈などでは無かった。
「落ち着け!! 危ないと思ったら何かの下に隠れろ!」
床が揺れていた。
地震だ。
アルカネットが即座に緊急時における対策を叫ぶと、唯一ジャスミンだけが机の下に潜り込んだ。
ヴァリンの側に置いてあるカップの中の水が波紋を作っている。それを見てもヴァリンは動じない。報告会が始まったので食べかけのまま置いていた食事を再開するほどの余裕ぶりだ。
「……なんで、こんな」
アルセンで地震は珍しい。火山が殆ど無いのもあり、揺れを感じる事など今まで無かった。
地震は長くも大きくも無い。見える範囲では損害は無いが、ジャスミンが机の下で一人だけ避難している状況を恥じている。
「……じ、じ、地震って、私、初めてで。本で読んだことはあるんですけど、こんな、揺れるんですね。誰かが、揺らしてた訳じゃないんですよね?」
「こんな酒場揺らして誰かに得があるっていうのなら、そうかも知れませんが」
「それぞれ自室を見て来い。異常があれば都度報告する事」
「ミシェサー、お前は俺と来い。どさくさに紛れて問題起こされても叶わん」
「えぇー? 折角なら私も他の人と親睦深めたいですー」
ディルの命令は全員を立ち上がらせた。まだ腰が抜けたまま机の下で震えているジャスミンにはミュゼが手を貸す。
アルカネットは「外を見て来る」と、直ぐに外に出て行った。
最後まで残ったのは、ディルだけだ。ミシェサーも、ヴァリンの後を付いて行ってしまった。
「………」
ディルも全員が自室に向かったのを見て、自分の部屋に向かった。
一階に唯一ある個人の部屋だ。妻と共に一年だけ過ごし、後は自分だけが一人で時間を過ごした場所。
酷く揺れなかったので、部屋の被害は大したことないだろう――そう踏んでいたディルだったが。
「………ぁ」
扉を開き一番先に収納棚を確認して、珍しく小声が漏れた。
中の妻の荷物が少し崩れている。以前荷物入れの箱を出した時、再びしまい込んだ際に配置を少し変えたのが悪かったらしい。
箱に入れるまでもなかった、空の酒瓶が転がっている。何かの記念の時に飲んだらしいそれを立ててやる。銘柄もいつ飲んだかも分からない瓶だが、何故か妻はこの瓶だけは大事に取っていた。
その他にも、ディルには使用法が皆目見当つかないものもいくつかあった。それらを元のように配置し直し、今度はなるべく倒れないように調整した。これで、もしまた先程くらいの揺れがあっても大丈夫だろう。
他は特に被害が無い。目視での確認もそこそこに、部屋を出て酒場内に戻る。其処には外側確認に出ていたアルカネットが戻っていた。
「見て来た。特に崩れたり傾いたりはしてないな。だが、近所はちょっと危ういな。地震のせいで騒然としてる」
「滅多に起こらぬ故、仕方ないであろ。再度起こるとも思わぬが、暫くは注意せよ」
「俺、自分の部屋確認したら自警団とこ行って来る。帰りはいつになるか分からないから、最悪泊まって来る」
「………」
「……何だよ?」
「いや、此れ迄泊まりの報告など一度も無かったと思ってな」
「……いいだろ、別に」
指摘すればどこか気恥ずかしそうに、アルカネットは自室に向かおうとした。階段を上る途中で足を止めた彼は、何かを思い出したように振り返る。
「そうだ、ディル。地震で忘れてた。お前の居なかった間の酒場だが、お前指名で来客があったぞ」
「客?」
「名前聞いたけど名乗らなかったな。また来るって言ってたから、特に気にもしてなかったんだが」
それだけ言って階段を再び上るアルカネットを、ディルは呼び止めもしなかった。
今の時期に指名で来客など、心当たりが一つもないからだ。近所の者であればアルカネットが知らぬ筈も無いだろうし、客が名乗らなければ誰なのか分かる筈も無い。
ディルが再び席に戻ると、他の面々も次々に部屋の確認を終わらせて下りて来る。
「俺とミュゼの部屋、どっちも異常ありませんでした」
「俺の部屋もだ」
「私の部屋……乾燥棚の笊が幾つか落ちてて……ちょっと大変なことになってます……。どなたか、お手伝いをお願いしたくて……」
「あ、じゃあ私が手伝うよ」
「私もお手伝いしていいですかー?」
アルカネット以外から聞いた被害はさして大きくない。ジャスミンの部屋も、ミュゼとミシェサーが手伝いに名乗りを上げた事ですぐに対処できるだろう。女性三人はそのまま階段を上って行った。
やっと休憩できる、と指定席で落ち着きかけた姿を見て、アクエリアがそろそろ頃合いかと作り置きの食事を出す。ひとつの丸いパンに野菜と燻製肉を挟んだサンドイッチとも違う簡易な朝食だ。供するのは紅茶で、出される頃にはディルの瞼が限界に近付いて閉じられかけていた。
「……お疲れのようですね?」
「疲れもする」
「食べたら寝てくださいね。ああ、そうそう」
「何だ」
「貴方に御用事のあるという紳士が、貴方が居ない間にいらっしゃいましたよ」
「紳士……? ああ、アルカネットも言っていたな。名乗らずに再訪の旨だけ残して出て行ったとか」
「そうですね。そこそこ年齢を召されたヒューマンでしたよ。でもお年の割には体つきがしっかりしていて、立派な金の髪と髭を蓄えていらっしゃった」
金の髪と髭。
ふーん、と話を近くで聞き流すヴァリンとは対照的に、今まさに食事を口にしようとしていた寝ぼけ眼のディルは動きを止めた。
「……金の髪と髭? 冒険者の男かえ」
「冒険者? 職業までは聞いていませんよ。でも、そうですね。この酒場の名前を知っていらした。そうそう、この酒場に縁があったらしく俺の兄とあの子の名前まで知っていた」
「エイスと我が妻の……? ……他に何か話していなかったか」
眠気が吹き飛んだかのように目を大きく開いて珍しく話に食いつくディルの姿に、アクエリアが珍しさから気圧されつつある。
それまで聞き流していただけだった筈のヴァリンの視線さえ、アクエリアが齎す情報に右往左往し始めた。
「……なぁ、アクエリア。その男ってさ、六十代くらいか? 話し方、偉そうだったりしてないか?」
「ヴァリンさんまで、何です? ……そうですね、年齢はそのくらいで。偉そうっていうより……ああ、フュンフさんの嫌味や毒気を抜いた感じですか。――あ、噂をすれば」
その時だった。
酒場の扉から、入室を伺う打音が聞こえた。
閂が掛けられているそこは、外からでは開かない。
「そう、その人の身長はアルカネットさんと同じくらいで結構高かったですね、って、二人とも?」
アクエリアから特徴を聞いたディルとヴァリンは目を合わせた。どうも、二人とも考えている人物が同じらしい。頷きあうと同時、ヴァリンは背を向けて自室に足早に避難しようとする。ディルも食事を中断し席を立ち、皿ごと部屋に引っ込もうとしている。
アクエリアはヴァリンの腕を掴んで、その場に留まらせるので精一杯だ。
「離せアクエリア、俺が想像してる奴とお前が見た奴が同じなら俺はもう部屋から出んぞ。万が一また来ても俺を呼ぶな」
「我もだ。何をしに来たか知らぬが、此の期に及んで今更訪ねて来ようなど。我は留守にしていると言え」
「ちょっと待ってくださいよ、何なんですか二人とも! 理由教えてくださいよ」
「名前を聞き出さなかったのは汝等の失態である。次があれば名を聞く事だな。そして追い払え」
「追い払えだなんて……何か目的があって来た人を追い払えって言うんですか? 居留守するほどの人なんですか? 教えてくれないとどう対処していいか分かりませんよ!」
一階が喧々囂々としている最中に下りて来た、自室を確認しに行ったアルカネットは不思議そうな顔をしている。少し離れている間に何かしら揉めていた男三人は、外にどうやら来客がいるというのに出る気配は無い。
戸を叩く打音が聞こえる。仕方ない、とアルカネットがそちらへ向かった。
「お前ら何揉めてんだよ……。はいよ、今出る――」
「「アルカネット!! 開けるな!!」」
「え」
ディルとヴァリンの声が重なった。
既に手は閂を取り払っていて、時既に遅し。
内部に居た誰も振れていなかった扉は、来客により開け放たれた。