190
城を出て十番街から酒場までの道を辿る。三人連れ合っての帰路は無言だったが、八番街から七番街に差し掛かった時に漸くヴァリンが口を開いた。
「ディル。そういや、お前寝言言ってたぞ」
「寝言?」
「嫁の名前呼んでた」
「えっ。私も聞きたかったですー」
「嫁が出て来るなんてさぞ幸せな夢だったんだろうな。どんな夢だったんだ?」
この中の誰よりも先に仮眠に入っていたというのに、人の寝言を聞ける時間には起きていたヴァリン。ずっと寝台に寝転がっていたのだから早く体を起こせと言いたいところだが。
確かに仮眠時に妻の夢を見ていた。起きてしまえばあれだけ忘れないようにしていた筈の声は随分遠いもののようになってしまい、少しでも長く覚えていられるように胸に仕舞い込む。
「……忘れてしまった」
「忘れたぁ?」
「夢だからな。起きれば忘れよう。何ら不思議では無い」
本当は、半分くらいは覚えている。妻の怒声は覚える気は無かったが、移り変わる情景の先に見た妻の表情は辛うじて記憶に留まってくれていた。
これも、時間が経つごとに忘れてしまうのだろう。時と共に消え去るそれは、ディルが生きていくうえで何の障害にもなり得ない。
「……橋の」
「橋?」
「……橋が、落ちて……川の向こうに、そう……七番街との境か……。妻が、いた」
「川向こう?」
それでも口に出して聞かせる事で記憶を共有しようとしているのは、一方的だとしても今でも妻と交流できていると信じたいからか。
傍にいなくても、愛していると。愛せていると、自分で自分を信じたいから。
今でも夢に見る程想っていることを、自分に付随する情報として確かなものにしたい。何度でも。
「不思議な夢だ。何故か妻に詰られる夢であった。我に向かって帰って来いと。帰って来ぬのはあの者であろうに」
「まぁ、夢だからな。整合性が無いのも分かる話だ。ったく、あの馬鹿女はお前の夢の中でも馬鹿なんだな」
「我が妻を愚弄する気かえ?」
「そんな女を嫁にしたお前も馬鹿なんだよ言わせるな」
ミシェサーは二人の後ろを付いて歩きながら、交わされる言葉は五十歩百歩だと今にも口から出てきそうで参っている。彼女にとって男の大部分は下半身で物事を考え女にモノを言わせる存在だ。扱いやすい男は好きだが簡単に掌で転がってくれない人物は苦手。目の前の二人は、そういった意味合いでは間違いなく苦手の部類だ。
性愛でなく心で他人と繋がった事のないミシェサーは、二人の在り様が奇妙なものにしか思えない。憧れていた人よりも遥かに倫理観が壊れた彼女にとって、誰かに特別なものを感じるなど地位や損得勘定以外には有り得ないのに。
この在り様を不思議に思うのは男相手だからだ。女なら棒相手に軽々と意識を持っていかれる様に軽蔑ばかり抱く。だから、この二人は性欲の赴くままに行動するミシェサーにとって逆に相性の良い相手だった。性欲で揺り動かされる相手では無いから。
「夢で良かったじゃないか。俺、夢でもソルに詰られたら泣いてしまう。夢じゃなかったら死んでしまう」
「生きろ」
「生きるさ」
二人の会話には、ミシェサーが理解しきれていない感情がある。
それが何かを積極的に知りたいとは思わないが、見ていて面白そうな未知のものである気がしている。
きっと二人にとって理想的な関わり方でないのは確実だが。
「……生きるって、難しいな。どう生きたら良かったんだろ、俺」
ヴァリンの呟きが最後になって、三人は無言のまま足を進め続ける。
ディルの夢に出て来た橋も、向こうに妻は居なかったし壊れる事も無かった。妻を消した水飛沫も上がらなかったし、普段通りの街の姿があるだけだ。
酒場に到着した三人は、そこを塒にしている面々から帰還を待たれていた。
一階に交代で到着を待っていたジャスミンにより帰還が全員に伝わると、一先ずは労いの為に休息の為を言い渡される。
ヴァリンは食事、ディルは風呂へ。ミシェサーは興味津々とばかりに、酒場の面々にちょっかいをかけていた。
「……」
ディルが風呂から出ると、一階には奇妙な光景が広がっていた。
用意された食事を摂っているヴァリンさえもしかめっ面だ。
ミシェサーが、酒場の面々が一階の自分達の指定席に腰掛けている箇所をぐるぐると回っていた。初対面の者に物怖じせずに話しかけながら。
子供であればその姿は微笑ましかったかもしれない。名前や出身、年齢や普段何の仕事をしているのか。それらを聞いては掘り下げて、話が途切れたり飽きたら次の相手へ。
面々は新聞記者だったオリビエからもそこまでの仕打ちを受けていないのに、途切れる事のないミシェサーの質問攻めは遠慮が無かった。好奇心が次に自分に向かわないよう祈るだけ。
「へーえ。ジャスミンさんはー、お薬作ってらっしゃるんですねー? 年齢? あ、私より上だ! あはは! 寝てもいい男性ってどういう人です? この酒場で言うと? あ? そういうの無い? なーんだ。ええと、じゃあ次はぁー」
「ミシェサー、もう止めろ。皆困ってるだろ」
「えー。私こうしてお話聞くのは初めてですからぁ! セズミオやゲオスは酒場の中まで入れてたのに、私だけ外からしか見れなくて仲間外れだったんですよ!」
「お前入れたら来客片っ端から手ぇ出しそうだったからな!」
「セズミオ? ゲオス? お二人のお仲間ですか」
アクエリアがミシェサーの口に上がった名前に反応した。その名を持つ者はアクエリアも『仕事』の時に度々手伝いをして貰っている。
ヴァリンが王子騎士の立場を有効活用して子飼いにしている部下の名前だ。時々人使いの荒さに酒場で飲みながら泣いている。
「あの二人を御存知なんですねーアクエリアさん!! やだぁ、共通の知人がいるって運命かも。どうですか今から一時間くらい一緒に席外しませ――」
下心満載の視線で媚びを売るように体をくねらせ、決まり切った誘いの文言を並べるミシェサー。
しかしその誘いは、アクエリアの隣に座っていたミュゼの形相を見て停止する。一つ結びの金髪が逆立ちそうな雰囲気で、今にもミシェサーの首を狩る為に席を離れそうだった。
「……えーっと。じゃあ次は……あっ?」
「………」
「ディル様!! 戻って来られたならお声掛けてくださいよ!!」
殺されたくが無い為にミシェサーが周囲を見渡していると、漸くディルが視界に入った。登場を知らせる甲高い声に、酒場に居る全員の視線がそちらを向く。
城の中で見たミシェサーの真面目な顔は今は無い。その頭の中は空洞かと思われても仕方ない程の実の無い話を聞きたいとも思わず、無言でディルも自分の指定席に向かった。
「ミシェサー、ディルも戻って来たんだから全員に自己紹介でもしたらどうだ」
「えーっ。皆さんには名前と所属はお伝えしたんだからいいじゃないですかー」
「副隊長命令だ」
「……はーい」
命令と言われれば従わない選択肢はない。ミシェサーは面倒そうに顔にかかる髪を払い、服の乱れを確認し始めた。着の身着のままで出て来たから、首から下は全て黒一色。
気だるげな気配はまだ漂っていた。全員が、その軽い口から自己紹介とは何を言うのかと思っていた、次の瞬間。
規律正しい騎士の姿そのままに、全員に向けて頭を垂れるようにしてミシェサーが片膝を付いた。
その姿にアルカネットとジャスミンが目を瞠る。一番酷い質問攻めにあっていたのがこの二人だ。先程までしつこく色々と聞いてきた女と同一人物とは思えなかった。
「『j'a dore』の皆様、お目にかかれて光栄に存じます。所属隊はエンダ・リーフィオットが隊長を勤める『風』、第三中隊長の立場を預かっているミシェサー・ミシャミックと申します。アールヴァリン殿下には普段より多大なるご配慮をいただき、今回身の回りのお世話を申し出て任に就くこととなりました。どうぞお見知り置きを」
目に痛い桃色髪が、頭を深く差し出すたびに柔らかく揺れる。
今だけは絵本に出て来る騎士像そのままの姿だ。間延びしていた語尾も成りを潜める。癖は強いが、ヴァリンが連れて来た人物であるのなら酒場に迷惑になる者ではないのかも知れない。そう全員が思ったが。
「好きなものは甘いお菓子と苦い珈琲、あと殿方と交わす一夜の情熱。肌に傷が残らないならどんな要求でも構いませんしなんなら後ろの」
「止めろ」
「ちぇー」
顔を上げて個人的嗜好を口にし出したのを見て、全員が改めてミシェサーに色情狂と判断を下した。これまで個々にされた質問の中にもいかがわしいものが入っていたので無理からぬこと。ヴァリンがそれ以上の発言をさせないことで、全員の耳と脳が守られた。
なんでこんな女連れて来たんだよ、とアルカネットの恨めし気な視線がヴァリンに投げられる。既にこの色情狂から一夜の相手候補として標的にされているのだ。
ディルは既にミシェサーの奇行を知っているので、気にも留めずにヴァリンに話を向けた。
「……ヴァリン、皆に城内の報告は済んだかえ?」
「まだだよ。お前が戻ってくるまで待ってた」
「其方を済ませていればその間、ミシェサーも奇行を抑えていたのではないのかえ」
「抑える訳ないだろこいつがよ」
話が終われば先程の奇行が後回しになるだけだが、ディルは真面目なミシェサーの姿も見ているので首を捻るだけ。ミシェサーとの付き合いが長いのはヴァリンな訳で、だからこそどういった時にどういった振る舞いをするかも知っていて好きにさせていた。
「……では、そろそろ腑抜けた空気を入れ替えねばならぬであろうな」
ミシェサーは椅子に座らない。床に腰を落としたまま、ディルの方を向いた。
その姿をヴァリン以外の誰もが奇妙に思えど、誰も座れとは言わなかった。
「我とヴァリンが城内で見て来たもの、起こった出来事、其れら全てを口頭で伝える。聞き洩らすな」
話は始まる。国王の崩御。途中遭遇した暁の話。王妃や王家に偽の忠誠を誓った話。
誰も話が終わるまで口を挟んだりはしなかった。
ディルもヴァリンも、見て聞いた話を一通り済ませてそれで終わる。
ただ、末姫アールリトの父親についての話は、二人とも口にしなかった。