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前回も今回も、ディルとヴァリンにとって胸糞悪い記憶しか残らなかった。ディルとしてはそれを承知の上で来ているとしても、強制連行だったヴァリンは苦虫を嚙み潰したような顔を続けている。
朝日昇る前に城を出る。そうと決まればヴァリンの行動は早かった。
ヴァリンは無言で前回持って出られなかった服を纏め、必要になるだろう細々した荷物を鞄に詰め込んだ。そうして出来上がった手荷物は、ぱんぱんに膨らんだ鞄が三つ。それはまるで。
「まるで夜逃げだな」
「うるさい」
風体に率直な感想を漏らすと、ヴァリンは自覚があるらしく否定しなかった。それを聞いて噴き出してしまったのはミシェサー。ひとまず寝台に荷物を放り投げたヴァリンは、既に疲労が頂点に達していたのかその隣に勢いをつけて転がった。夜逃げの次は子供返りか、とディルが呆れるも大きな子供はそのまま動かなくなった。
比喩でなく秒で寝息を立て始めるヴァリンを見ながら、ミシェサーは苦笑を浮かべたまま。
「……ディル様も、少しお眠りになられては如何ですかー? 私も失礼ながら、少し仮眠を取らせていただきたいです。このまま酒場に行くのは、体力も気力も無理でしょうし」
「仮眠なら此処を使うかえ」
「いいえ、ソファはディル様がどうぞ。仮眠程度なら毛布も必要ありませんから」
ディルはソファを指したが、丁重に断られた。ミシェサーは王妃達が来るまでと同じように、部屋の隅で横になって膝を抱えるようにして丸まる。
『風』の者はいつでもどこでも眠れるように訓練されている。騎士は基本的に仮眠の場所を選ぶことはしないが、休息に入るのは他の隊よりも早い。国内外問わずろくな寝場所もない所で任務を遂行しているから、それを強みにしているのだ。
ミシェサーから断られては、ディルだって引き下がるしかない。性別は女性だとしても立場は城仕え。彼女とて侮られては悔しいだろう。
深く寝るつもりも無いので、ディルは座ったまま目を閉じる。浅い眠りに引き込まれるのは早かった。
眠るのは嫌いではないが、それを癒しや安らぎと思ったことは殆ど無い。
体も精神も疲れ果ててしまっているのに、見た夢次第では疲労感が抜けずに残ったまま。
ディルが見る夢は決まっている。居なくなった妻が、傍に居た頃の記憶。もしくは、妻と経験した事のないような何かをしている夢だ。
起きた時の絶望は、今でも耐えがたい苦痛。
目が覚めても隣に妻が居ないことを思い知るその一瞬は、自分の半身を無理矢理引きちぎられるような苦しみを齎す。
『ディル』
名を呼ぶ声は記憶から薄くなってきているのに、夢の中での彼女の声は鮮明だ。
また、妻の夢。
妻を恋しく思えど、何度も夢にしか現れてくれない声を恨んだことは一度ではない。
そうやって何度も自分を呼ぶ妻を、ディルは六年以上前の過去と夢でしか知らない。
『ディル』
姿が見えない。
情景はいつしか、妻を失った戦場に様変わりしていた。
ファルミア。その町の名すら呪わしく思いながらも、妻と見た景色を忘れられない。
荒廃したその町で一人きりで、妻の声だけが耳に届く。
『約束、守ってよ』
妻とした約束――そんなもの、あっただろうか。
夢と分かっていながらも、声を聴き続けるためには眠り続けなければならない。
思い出せば、夢が醒めてしまう気がした。その予感だけは何故かあって、思い出さないように妻の声に集中する。
責めるような声色だが、どこか照れが混じっているように聞こえる。自分より年上だということを感じさせない、恥じらった可愛らしい声だった。
『一緒に、――ずっと、――。二人で――』
所々、何かに掻き消されるかのように聞き取りづらくなる。断片的に聞こえた声に、目を伏せて聞き入った。
『ずっと、――二人で――。――約束』
ずっと二人で一緒に、と。
何度も、妻の声を言葉を記憶の中で反芻する。これだけ夢を夢と理解していることは珍しいが、それが叶うのだから擦り切れかけた妻の声を、夢から醒めても思い出せると確信できるようになるまで無言のまま目を閉じていた。
その瞼が開いて、灰色の瞳が辺りを認識できるようになって。
「黙れ」
ディルのたった一言で、夢の中の声も止む。
現実の彼女とて、最愛の夫がこう言ったなら驚愕に口を噤むだろう。何を言われたか分からない顔をして、理解したならしゅんと肩を窄めて。
「妻であろうとなかろうと、姿を見せず顔を晒さぬ者は夢魔でしかない。約束約束と繰り返すのなら、汝が先に約束を守るべきだった。今更其の様な言葉で我を乱して、何がしたいのだ?」
彼女の独断で叶わなくなった、二人揃っての永遠。
木漏れ日の中、彼女の膝を借りて眠り込むこと。
帰宅と同時に彼女が抱き着いて来て、おかえりと言ってくれること。
同じ寝台で眠りにつき、目を開いても彼女が居ること。
ディルが願ったのは、そんなささやかな幸せだ。
そしてそれらは、彼女が壊した。
「約束は守ろう。然して、此の約束は貴様に急かされるべきではないであろう。我が眠りの安息さえ貴様に阻まれてばかりだ――我が妻は阿呆だが、我が妻以外が妻の真似をすると不愉快極まりない。去れ、我が記憶を継ぎ接ぎして生まれたモノよ」
これだから、夢を見るのは好きじゃない。
ディルの口から今にも嘆息が零れ出そうになった時、それは現れた。
ディルの白銀を暗色に染めたかのような鈍い銀色の髪、それと茶色を混ぜ込んだような瞳の色。
着ている服は最後に見た騎士隊長の衣装だ。髪をひとつに結い上げ、風に揺らめく髪が頬にも掛かる。
――妻だ。記憶の中そのままの。浮かべている微笑すら、ディルが覚えているものと寸分違わない。
「……阿呆だなんて、ひどくない……? アタシそこまで言われるほどの事したかなぁ……?」
その唇が開かれると、ディルを責めるような口調で語りかけて来る。隊長の責務で必要以上に気を張るせいで粗雑と言われる声でなく、ディルの前では惜しげもなく披露される妻としての甘えた声だ。
阿呆でなくて何だと言うのだ。ディルを独りにしたのは間違いなく妻なのに。
喉が詰まったような感覚だ。夢が見せる姿だから当たり前だが、それを面と向かって妻でないとは言い切れなかった。夢に憑りつく魔の類でも、顔を見せろと言って出て来たそれに、彼女にずっと言ってやりたかった憎まれ口を叩く。
「阿呆であろ。己の行動を顧みぬ者を其れ以外に何と言えばいい?」
「なっ……! 悪いけどねぇ、その言葉そっくりお返しするよ!? ディルだってアタシがどれだけ心配しても泣いても喚いても独断専行でっ!! 少しはアタシの話を聞いてよ、聞いたらちゃんと聞き届けてよ無視しないでよ勝手に色んなこと決めないでよっ!!」
「喚くな。其の言葉も汝へ返そう。汝との離別は、我でなく汝が責められるべきだと思わぬか?」
「は!!?」
「……は?」
極当然の事を口にしただけだ。憤慨した彼女は、目の前で今まで殆ど見せた事のない怒色に歪んでいた。
こんな顔も、夢の中でなく傍に居る間に見たかった。何かしらぎゃあぎゃあ喚き散らしている妻の相手を馬鹿正直にすると面倒なので、言葉になっていない怒声を聞き流す。捲し立てるのにも疲れたのか、肩で息を整える妻はその間無言だった。やがて、呼吸が整ってきた頃合いに妻が唇を引き結んだ。
「……ね、ディル。疲れたよね。疲れたでしょ。もう良いんだよ、帰っておいで。貴方の帰る場所はいつだって、アタシがいる酒場だよ」
「……何を言っている? 最早、其処に汝は居らぬであろ」
「あ、え……? う、ん。……いや。で、でも違うんだよ。アタシは今、ちょっと出てるだけっていうか……すぐ帰るつもりだよ、本当だよ。ずっとアタシは、貴方を待ってるんだよ」
冷たい声で返したディルだが、的を得ない妻の言葉では話が嚙み合わない。妻があれやこれやと言い淀んでいるうちに、景色が再び変わる。
次に眼前に現れたのは、見覚えのある街中の風景だった。小さな橋を挟んで向かい合っている妻は、髪を下ろして肌を隠す普段着になっていた。
何処かで見た景色だ、と周囲を見渡した時に気付く。オリビエを川の下に落として生を隠蔽しようとした六番街と七番街の境だ。
「ディル、一緒に行こうよ。貴方の帰り、アタシはずっと待ってる。ずっと、ずっと。……何があっても」
手を伸ばして来るのに、妻の足は橋を越えようとしない。笑っているような、悲しんでいるような、簡単に揺らいでしまいそうな表情で曖昧に微笑む妻の表情は記憶の中にあるものと同じだ。
「ねぇ、お願い。帰って来て」
妻の声が震えている。
震える声で紡ぐ、『帰りを待っている』の意味が分からない。
帰って来なかったのはどちらだというのか。ディルに懇願するような声色は、まるで責められているようだった。本当は置いていったのは妻の方だというのに。
夢の中で現れた妻だ。だから、夢と分かっている以上捨て置くのも自由、の筈だ。
「………」
けれど夢とはいえ、妻に涙ぐまれるのは居心地が悪い。
記憶と寸分違わぬ、ディルが愛した妻だ。美しく阿呆な、たったひとりだ。
妻の誘いに承諾した場合、何が起きるか分からない。まさか夢如きで命を取られる訳ではないと思っても、幸せに終わるかも知れない夢から醒めた後の絶望は身を以て知っている。
「我は――行けぬ」
「ディル」
「行けぬ。未だ、果たして居らぬ」
――汝を、奪還するという目的を。
ディルが拒否した瞬間、目の前で夢の中の橋が落ちた。音こそ無かったが、下の川に水飛沫を立てて落ちる橋の残骸が目の前を水滴で煙らせる。
光る水滴の向こうにある妻の表情は、残念そうに笑っているだけだ。
夢魔がどういう腹積もりかは知らないが、この発言がディルの気を害するだけであればこの妻は憎まれ口でも叩いてくるかも知れないな、と、夢の終焉を感じ取った時。
「ディル」
妻の声は震えていたものの、憎まれ口とは程遠い想いを告げる。
「愛してるよ、ディル。ごめんね、アタシが残れば良かったんだ。ごめんね、愛してる。待ってる。お願いだから、絶対に、アタシの所に帰って来て」
川の水飛沫は落ち着く気配が無かった。それどころか、川全体の水が二人の間を裂くかの如く跳ね上がる。
滝の裏表で分かたれたような二人は、暫くの間見つめ合ったがもう声は届かない。
「――何を、言っている」
二度目の同じ言葉の声が震えている気がした。ただ、それだけだ。
「帰って来ていないのは、汝の方であろ」
立場が逆だ、と、ディルの呆れは口端を歪ませようとした。
激しい水飛沫の中、濡れずに冷たく感じない体がありありとこれが夢だと伝えて来る。
あれは、妻の筈がない。だから、笑うのも無意味だ。
ディルは結局、無言のままで水向こうで歪んだ妻の輪郭を目で追っていた。
夢の中の川の水の動きが落ち着いてくると同時に、ディルの意識は夢から浮上する。
長く夢を見ていた気がした。けれど、まだ太陽は昇っていない。開き切っていない瞼を一度強く閉じ、再び開くと瞳が乾燥しているような感覚が襲ってきた。出したくもない欠伸は歯を食いしばることで霧散させ、部屋の中を見渡してみる。
ヴァリンもミシェサーも、まだ眠っているようだった。規則的に胸元が上下に動いているから、心地いい眠りの真っ最中といったところか。
「……」
日が無いだけで、空は明るくなってきている。山向こうの空は赤らんで、いつ太陽が顔を覗かせてもおかしくない。
ソファから立ち上がったディルは、少し体を捻りながら寝起きの体を動かす。そして近寄ったのはヴァリンの寝台だ。
「起きろ、出立の時間であろ」
「起きてる」
返答も、寝る直前と同じで短かった。のろのろ体を起こすヴァリンも、肩や腰を捻りつつ上体を上げる。
ミシェサーも声と物音で起きたらしい。ふわぁ、と控えめな欠伸をする姿を見ながら、寝ていてくれたら置いていく口実が出来たのに、と思うももう遅い。
「時間、ですかねぇ?」
ミシェサーも窓の外を見た。日の出に急かされている状態だが、三人は問題なくそのまま動ける。
ヴァリンの荷物はひとつミシェサーが持った。「お前自分で俺の身の回りの世話言い出したんだから荷物くらい持て」との言葉に反論の余地が無かったらしい。
城を出る準備は出来た。任務次第では、またすぐに戻ることになるだろうが。
「準備はいいかえ、ヴァリン」
「ああ」
「忘れ物があったらゲオスに持ってきて貰いましょうねー」
最後まで扉に手を掛けていたのはヴァリンだった。
「じゃあ」
その声は感慨深く。
「行って来る」
誰に言ったかも不明な挨拶を最後に、扉が閉まった。




