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「っ……そんな、ディル……」
ディルの忠誠の言葉を聞きながら、悲痛な声を出したのはアールリトだった。
口許に両手を当てて、瞳を大きく開いている。僅かに震えているのは、自分が聞いた言葉が信じられないからか。
「貴方は、その命をあの人の為だけに使うつもりなの? 貴方は、あんな目に遭っても、この国で死に急ぐつもりなの? そんなの、あの人が願う訳ないじゃない。望んでいる訳ないじゃない。それなのに、貴方を愛したあの人の意思だけは無視するの?」
「……王女殿下。その問いは、意味を成さぬ」
王女の悲しみを誘うつもりは無かった。けれど必要なら、偽りの輝きを纏うその瞳にでも涙を浮かばせよう。
涙は血と違って、どれだけ流しても死ぬことは無い。
六年前のディルがそうだったように。
ディルの苦悩を、反逆を、アールリトが知る必要はない。味方としてつけるには、彼女の立ち位置はあまりにも不安定だ。
「死した者に、生者が取る行動へと口を出す権利は無い。我を独り置いて逝った妻の願いなど知らぬ」
「……そこまで、貴方が薄情だなんて思わなかった」
「そうでもない。あの者は、馬鹿騒ぎを好んだであろう? 我は、妻の代わりに愉しんでやるだけだ。楽しくもない、色褪せた世界をな」
半分本心で、半分偽りなのはヴァリンには伝わっただろう。眉を顰めて、呆れるような溜息を吐いた王子殿下には。
世界はいつだってディルには優しくなくて、だからと敵意を以て返しても世界が終わってくれる訳でも無いのに、自分の本心に背いてまで目的を叶えようとする。
「……だ、そうだ。聞いたか、リト」
失望に雫を頬に溢すアールリトに、声を掛けたのはその母親で。
「陛下の崩御と共に、お前は次期国王となった。即位式の準備も必要であろう? それが済むまで、お前は尖塔に部屋を移せ。私室の荷物も陛下のものだった部屋に移動せねばならんからな」
「っ……。そんな。だって、国王には私じゃなくてヴァリン兄様がいるじゃないですかっ!!」
「まだそんな話を続けているのか? 既に、ヴァリンは継承権を放棄している。私の後ろ盾がある以上、次期国王に相応しいのはお前しかいないのだよ」
「そんなの嫌ですっ!!」
声を荒げる王女を、駄々っ子でも見ているかのような冷たい視線で見返す王妃。
ひら、と手を挙げて振れば、控えていたカリオンとエンダが王女の両腕を拘束する。
プロフェス・ヒュムネの血を引いているとはいえ、単純な力では男に勝てる筈もなく。身を捩って逃げようとするも、騎士には敵わない。
「やめてっ……! やめなさい、カリオン! エンダ!! 私は、国王なんかになりたくない! なれないのっ!!」
「落ち着いてください、アールリト殿下!」
「殿下、ここはお下がりください!」
「私、知ってるんですよ!? 私がお父様の子供じゃないことくらい!! お母様が、他の男との間に作った子だってことくらいっ!!」
「………」
「そんな私が次期国王だなんて、なれる訳ないでしょうっ!? お母様のした事は、お父様も国民も裏切っ――」
刹那、乾いた音が響いた。
「っ、あ」
アールリトの前に歩幅大きく出たミリアルテアが、娘の頬を張ったのだ。
「いつまでも聞き分けの無い事を喚き散らかすな。裏切ったのは、アルセンが先だ。陛下が先だ。我等プロフェス・ヒュムネは、その裏切りを以て滅ぼうとしている。だが奇しくも我等はアルセンの中枢に入り込めた。お前が女王となるのに邪魔な障害は排除した。そしてお前は、『先代陛下の御子』として名を刻んだ。舞台は既に整っているのだよ」
アールリトが純粋に育って来られた、王城の環境はもう無い。
今更顔をくしゃくしゃにして泣いても、時間は戻って来ない。
「リト、お前が次に塔の外に出られるのは、その頭上に冠が輝く日だ」
「……っ、いや……です……。わたし、どうして、こんな」
「連れて行け、エンダ。カリオン。逃げられぬように見張りも置いておけ。お前達の新しい君主を丁重に扱うのだな」
咽び泣くアールリトは、二人に連れられて行ってしまった。
残ったのは四人だけ。ミシェサーは先程から気まずそうに、頭を上げようとする気配すら無かった。
「……娘の頬を張る日が来るなど、思わなかった。聞き分けの良い娘だと思っていたが、往生際が悪いとでも言うべきか」
心からのものではない、乾いた笑いが王妃の口から漏れる。
言葉に失望を隠し切れない王妃にすら冷たいのはヴァリンだった。
「さて、王妃殿下。用向きは終わったでしょう。俺の部屋にもう用事なんて無い筈だ。王妃殿下としての最後の仕事が残っていますよ、早く行ったら如何ですか」
「……ヴァリンよ」
「はい?」
「お前は、この状況に於いても今までと変わる事の無い忠誠を誓ってくれるか? 忠誠を、妹に誓えるか?」
「……。ふ。ふふふっ。何を言うかと思えば」
人数の減った室内にやっと足を踏み入れたヴァリン。肩を竦めながら、疲労が混じる顔を隠さない。
「俺はずっと『そう』だった筈だ。指示も命令も黙って聞いていた筈だ。次期国王としてあらゆる知識を詰め込まれた時も。騎士になり国防の為に働けと言われた時も。婚約者を決めろと急かされた時も。愛する者と結婚させてやる代わりに継承権を放棄しろと言われた時も。俺が俺でいる今の状態は殆どが誰かの意思で決められたもので、俺が唯一選んだソルは愛に応えないまま死んでいった」
怒りの混じる大仰な態度で、両手を軽く広げて天井を仰ぐ。その仕草が演劇を思わせるような、芝居がかった姿。
王妃がこの状況を、娘の為の舞台だと言った。ならばヴァリンはそれに則るだけ。
「この俺に今、何が残っている? 逆に聞こうか、王妃殿下は何を残してくださったつもりかを。ぐずぐずに崩れた俺の未来を、世界を、血縁も何もない妹とやらの足許に傅く以外の舞台は俺には用意されていないんだろう! ……ディルが人形なら俺とリトは傀儡だよ、どうぞその手の中にある糸でこれからも存分に操ってくれ次期王太后殿」
「………もう、私を義母とも呼ばぬのだな」
「父上はもう居ない。呼び名で義理立てする気ももう無い。俺は一介の騎士、副隊長として、俺が国の為にするべきことをするだけだ。さあ、次期王太后殿。出て行ってくれ。俺達も、朝日が昇る前にここを出る。仕える場所は国とこの王城でも、俺が居たいと思える場所はもう酒場だけだ」
騎士として居てやる。でももう親子ではない。
突き付けられた王妃の表情は、悲しみに揺れたようだった。無言で踵を返し、扉の向こうに歩む。
扉を閉める、その直前。王妃が振り返った。
「ヴァリンよ」
扉が、閉まる。
「それでも私は。……お前がソルと婚姻する未来を望んでいたのは、本当だぞ」
言葉は届いた。
だけど、そんなもの。
ソルビットの居なくなった世界で、何の意味も無い。
「……ヴァリン」
やっと立ち上がれるディルとミシェサーが、それまでの芝居がかった仕草を終わらせて肩を落としているヴァリンに声を掛ける。二人の気遣いが分かっているから、ずかずかと怒り収まらない大股でソファまで向かうと、ディルが使っていた毛布を放り投げて腰を下ろした。
「不愉快だ!」
ヴァリンの怒りは目に来ていた。潤んで赤くなった白目が血走っている。切れ長の二重が吊り上がって、眉間には消え切らない皺が刻まれて、何度も爪先で床を叩く落ち着かない足許はそれで怒りを誤魔化しているようだ。まるで、理不尽に怒られた後の納得できていない子供。
「……なー、ディル」
「何だ?」
ひとしきり吠えて、地団駄を踏んで、やっと落ち着いたかと思えば項垂れてディルを呼ぶ。
その間も唸っているので、完全に怒りが解けた訳ではない様子。
「俺、もうやだ。ソルに逢いたい」
「……遺灰すら手放したのは汝であろ」
「ユイルアルト……早く帰って来てくれ……俺もうソルの骨だけでもいい、逢いたい」
「耐えろ。あの者の居場所は把握しているのか?」
ミシェサーは二人の会話に入れずに、ヴァリンが放り投げた毛布を回収し折り畳んでいる。
やっと顔を上げたヴァリンは、今度は両腕を背凭れいっぱいに伸ばして足を組んでふんぞり返った。そうしている姿だけは自信に満ち溢れている。
「してる。が、国境を越えて、ある国に入った途端に足取りが掴めなくなった。まぁ、死にはしないだろ」
「ある国?」
「パルフェリア」
「……ああ」
「えっ」
ディルは納得し、ミシェサーはその国の名前を聞いた瞬間腕の中の毛布を取り落とした。
パルフェリアという国は永世中立国を名乗るシェーンメイク程ではないが、治安は安定している。排他的である事以外を除けば過ごしやすい国だ。
排他的である理由はただひとつ。エルフがエルフの為に建立したと言われる国だ。他国との関わりが殆どと言って良い程無い。
「パルフェリアって全てのエルフが生まれるって言われてる地ですよねー? で、ユイルアルトってリエラ様と一緒に城下を出た人でしたよね? そんな国にどうして?」
「ミシェサー、汝はユイルアルトを知っているのかえ?」
「ユイルアルトが城下を出る時に、ミシェサーも手を貸したからな。……さて、あの国に向かった理由は分からん。俺との約束を律義に守ろうとしているのかも知れないが、そうでないなら全てを見限ったのかもな?」
「約束?」
ヴァリンはユイルアルトを城下とギルドから逃がす為に、死亡証明を作った。ヴァリンが流した血とユイルアルトの髪からなるそれを王妃が完全に信じたのかは分からないが、追手が付いていないからどうでもいい。
ヴァリンは一番大事にしているものを渡した。そして、それを死んでも持っている事で血を流した事と引き換えに契約とした。
復讐を叶えるため、それを果たすものを作れ、と。
「ちょっとな。これからのお楽しみだ」
ディルには、まだ詳細は話さない。どちらにしろ同じ目的を持つのだ、どうせならこの鉄面皮を驚かせてみたい。
短い言葉で誤魔化されたディルも、それ以上を追求しなかった。
「さて、ディル。聞いていたと思うが俺達は日が昇る前に出るぞ。国葬が始まれば葬儀参列者以外は街に出られなくなるからな、それまでにあの古臭くて埃っぽい酒場に帰りたい」
「あ、副隊長。私も連れてってくださいなー。身の回りのお世話と情報伝達係は必要でしょー?」
「ええ、お前来るつもりなのか? お前は正直、城の中を引っ掻き回してくれる方が助かるんだがな」
その言葉は遠回しの了承だ。譲らない様子のミシェサーに、はいはいと形だけの納得をして数歩下がらせる。
酒場から来た時は二人だった。戻る時は三人になる。
増えた一人が妻でないことが、ディルの胸に僅かな痛みを齎した。