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「ディル様。ああ言ってますし、あの私室に入るなら今じゃないですか」


 暁が去って尚も苛立ちが収まらない様子のミシェサーは、その怒りのままにディルを焚き付けようとした。

 苛立ちは腰と背を足蹴にされたからではない。それによる侮辱から来る。口で蔑まれるのは慣れたものだが、仕事と趣味を兼ねる躰に靴底の泥を擦り付けられては堪ったものではない。

 ディルだって、そう出来るならそうしたい思いで一杯だ。あの程度の扉、蹴破るくらい出来ない訳がない。


「……ミシェサー・ミシャミック」

「はい」

「戻るぞ」


 返答になる否応を、ミシェサーは予想していた。そしてその予想通りになる返事に、溜息を以て了承とした。


「……今が一番いい機会でしたでしょうに。本当に罠が仕掛けられてるとお考えですか? それが本当だとして、私やディル様がそれに引っかかる可能性は?」

「皆無、と言って良い。罠があるとして、それを聞いて心構えも無しに踏み込む馬鹿は居るまい? だが、我のみではまだ『足りぬ』」

「足りない? 何がです」

「我は、武器を手に先陣を切る事は出来る。だが一兵卒だった時ならばまだしも、身体に欠損のある妻を連れて逃げるとなると一人では手が足りぬ。――妻を連れる我には、『我に代わり先陣を切る者』『退路を確保する者』『障害に当たった時対策を講じる者』『武器を振るう我の代わりに妻に常に付き添える者』『妻の負担が少なくなるよう医療に長けた者』が必要となる。そしてその者らは、我が一人で妻を奪還したとなると我を非難しような」


 ディルが指折り数える人数は五人。其れは、今現在酒場を根城とする者達と同じ数だ。

 長く白い指が折られる度に、ミシェサーの瞬きが繰り返される。ディルが味方だと計算に入れる者が存在しているなんて、話に聞いていた人物像とは全然違う。


「……ディル様は、城を離れてからも随分人に恵まれていらっしゃるようですね」

「そうでもない。すべて、我が妻の後釜に付いたからこそだ。妻であれば、味方はまだ多かっただろう」

「そぉですか? でも、こうしたら?」


 ディルの目の前で(しな)を作りながら、握って出した手。その中でも小指をディルの目の前で立てた。その意図を掴み損ねて、今度はディルが瞬いた。

 五本折った指。それが一本立てられたということは『味方が減る』か。それとも――。


「ねぇディル様。副隊長と城に戻るなら私も連れて行ってくださいよ」

「……。今、何と?」

「だって、私このままじゃ罰受けさせられちゃう。カリオン団長にも話が行ったら、私次は教育部屋に行く事になるでしょうね。副隊長には『身の回りの世話』って事で連れてってもらうから、お願いしますよ」


 男を誘う妖艶な表情では無く、年齢相応の無邪気な笑顔。立てた小指を軽く何度も折り曲げながら、これが今の自分だと暗に言う。

 明るく頼みごとをする表情に、連れて行くことの損得を考え始めたが。


「それに、セズミオ達から聞いてるんですよぉ。『J'A DORE』っていい男がいるらしいじゃないですかー。ちょっとつまみ食いさせて貰えたら文句言いませんからぁ。ねっ?」


 脳内で損得を捨て去り、舌なめずりするミシェサーに背を向けた。


「其れは断る」

「えー!!」

「我が妻の酒場に男女関係の縺れを齎すな。だが」


 歩き出すディルは、言葉を残す。


「汝の采配権はアールヴァリンが握っているであろ。あの者が首を縦に振れば、副ギルドマスターの権限を使えば酒場に来れよう」

「やったー!」


 喜び勇んでディルの後を付いてくるミシェサーには、城への未練など一切無いようだった。

 来た道を戻る二人はもう、人の目など気にしない。もとより帰る道にも誰も居ない。

 それはまるで、誰かが敢えて人払いをしていたかのように。




「っはー、やれやれ。もー疲れたぁ」


 ヴァリンの私室に戻った二人は、入った時と同じように寝台を動かす。隠し通路の隠蔽を図った所で、ミシェサーが疲れ果てた様子で体を伸ばす。ディルはソファへと戻って足を組んだ。

 城内の僅かな移動だった筈なのに、時間は既に日付が変わりそうになっている。室内の灯りを消して、ミシェサーは部屋の隅へ。ディルは暗くなった室内で目を閉じている。

 気怠い空気と、夜の帳の中もうやることがないとなれば休息を取るのは当然だ。眠られる前に、とミシェサーが口を開く。


「ディル様」

「何だ」


 目を開かずディルが応える。


「もし。暁様の部屋に奥様いらっしゃらなかったらどうするんですかー?」

「………」

「奥様がいらっしゃる前提で、副隊長も私にお話されていましたが……。そもそも、本当に先の戦争でプロフェス・ヒュムネに殺されてる可能性だってあるんですよね? 死体は隠匿されたとか、獣かそういうのに食べられたとか、もしそうだったら無駄足じゃないんですか?」

「プロフェス・ヒュムネが殺して死体も喰われたとなれば、確かに無駄足となろうな」


 その可能性を考えなかった訳では無い。寧ろ、ミュゼが妻の生存の可能性を伝えて来なければ妻の躯は何かの腹の中だと今でも考えていただろう。

 けれど、今はそうじゃない。


「万が一、妻が本当に死んでいて、暁の部屋がもぬけの殻としよう。此れ迄我の質問をはぐらかしていたのは、我を弄する為だけの仕草として。……そうであった場合、暁の製作した人形が花束を盗み、尚且つ『窃盗ではない』と言ってのけた理由が付かぬ。人形は、狡猾な思考をしておらぬ。その口から出る言語は全て、真実と言って良い」

「でも、本当にそうだって確証は無いのでは?」

「確証が有ろうと無かろうと、可能性が有るから我は此処に居る。……妻が居なかった時は」


 ディルが、妻の奪還に完全に失敗した時。

 最早他の手立ても無く、二度とあの笑顔に逢えないと思い知らされた時。


「我は――」


 信じた世界が、そこで終わる。


 ディルがその未来で自分の末路を示す一言を話そうとした時、扉が入室の合図も無く開いた。


「――なんと、まぁ」


 部屋の中が予想通りの光景だとでも思っていたかのように、驚きも無く澄んだ女の声がディルとミシェサーの耳に届いた。

 ミシェサーの瞳は驚愕に揺れ、ディルの瞳は揺らぎもせずに来客を見据えた。

 白い肌、暗色の髪、纏っているのは立場にしては簡易な装飾と、葵色の礼装(ドレス)。顔には、いつも額から垂らしている垂れ布は無い。

 供回りに付けているのは騎士団長のカリオンと『風』隊長のエンダ。それから苦々しい表情をしているヴァリンとアールリトがいた。

 カリオンとエンダは腰に佩いている自分の武器に手を掛けている。


「我が君の死に目に会おうという輩が、その瞬間に立ち会わぬ儘に王子の私室を寝床にしていようとはな。貧相な酒場の安い寝台よりも寝やすいか、ディル?」


 王妃、ミリアルテア。

 ヴァリンの私室に一歩ずつを踏み出した足許は、音を立てない。


「……王妃殿下、幾ら義子息の部屋だとて入室の合図は出すべきではないかえ?」

「出されずに困る事でもあるか? 私も色事について多少の心得はあるでな、貴様がミシェサーの色香に惑わされるような男であれば遠慮もしようが」

「アクエリアの居ない場所では、随分調子が出るようだ」


 ミリアルテアにとっての弱点と知った男の名を出すと、王妃の口は閉じられた。代わりにその唇が笑みになりきれない横線を描く。

 ミシェサーは腰を下ろしてた体勢から臣下の礼を取る。カリオンに言われる前にそうしなければ、不敬だとして罰が下されるからだ。ディルの体勢は変わらない。


「陛下は、崩御された。私が最期に選んだ、たったひとりの伴侶だ。そこに、アクエリアの入る余地は無い」


 ミリアルテアの口から、その事実だけが告げられる。


「このまま安らかにお眠りになったままならば、葬儀は二日後から行う。国民に崩御を伝える鐘もその時鳴らそう。繰り返す、陛下は崩御された。もう、貴様が城に居る理由は無い。即刻この城から出ていくが良い」

「……」

「聞こえたか? 貴様にそのつもりがないならば、実力行使と相成ろうな」


 言葉と共に、王妃の前にカリオンとエンダが抜剣して出る。長剣と、二本の短剣が光を跳ね返し闇の中で輝いた。

 ディルを見据えるカリオンは無表情。エンダは、ディルを見ようとせずに視線を逸らしている。


「……王妃殿下」


 ――……お前、それでいいのか。


 アルカネットの声が記憶に蘇る。

 良い訳あるか、と叫んで吐き捨てたかった。


 ――あの子が本当に生きているのなら、一言言ってやらないと気が済みません。


 アクエリアの声は、記憶の中でも優しかった。

 ディルの身もディルの妻の身も心配で、それを素直に言えない捻くれた性格は嫌いじゃない。


 ――……私も、何処にも行きません。


 ジャスミンの声は、あの時でも不安そうに震えていた。

 臆病でも自分の意思を持っている女だ。信頼のおける、酒場の医者。


 ――ディル。もう、お前も目を逸らすなよ。


 目の前で苦虫を噛んでいるような顔をしているヴァリンのあの時の声は、長く近くに居た相棒に向けるようなものだ。

 ディルを信じ、ディルも信じた、似た傷を背負った男。


 ――地獄の一歩手前までお供しますぜ、マスター


 ミュゼの声は妻のそれと似ない。けれど、ディルに全幅の信頼を置いて色々な秘密を話してくれた。

 共に地獄に堕ちたいと思わない。けれど死地へと向かう時に、共に来てくれる彼女の存在は心強いものになるだろう。


 大丈夫だ。

 理解者は、こんなにいる。

 もう、ディルは一人じゃない。

 妻を喪っても、否、失ったと思っていても。気付かなかっただけで、寄り添おうとしてくれた者はいる。これからも、ディルが心変わりをしない限り。


 ソファから下り、床に片膝を付いたディル。

 その姿を目の当たりにして、王妃は疎かカリオンやエンダも目を瞠る。それが、現実に起きているものとは信じられないように。


「王妃殿下。我の忠誠は、今でもアルセンに在る。此の国の為に今まで割いて来た時間も、気力も、心も。例え今代陛下が崩御成されようと、次に即位される国王陛下へまた忠誠を誓おう。我を再び、反逆の徒を滅するための剣として存分に振るい召されよ」

「……、ディル、それは、何のつもりだ? それは本心で言っているのではあるまい? 何事にも無関心であった貴様が、今更忠誠の意を示すなど」

「元より、我が身はアルセンの為に尽くした。我が平原に並べた帝国の首級も、既に忘れ去られたか?」


 過去のディルの戦果は、初めて任務をこなした日から先の戦争まで、そしてギルドマスターに就任してからも高いものとなっている。確かに、反発する手合いや障害となる者を切り伏せるのに、ディルほどの適任者は他に中々いない。

 カリオンもエンダも、刃を下に向けた。こうまで忠誠を示している人物に刃を向けるのは、些か騎士道に悖る。例え今の騎士団の姿が、理想的な騎士道とは離れていても。


「我が妻を妻とする前、殿下には申し上げた筈だ。互いに望まぬ離別を撤回するならば、此の命と剣を自在に使えと。我は妻と永遠を契る以前より、此の国の為に果てると決めていた」

「国の為? ……っはは、今でも慕情を捨てきれぬ貴様がか。とうに亡い妻を想い、悩み、朽ち果てる寸前の人形のように過ごしている貴様がか!」

「我は、人形ではない」


 自分の胸に手を当てて、囁くような声でディルが告げた。


「我に足りぬ全てを持ち、我に惜しみなく与えたのは妻である。我は最早人形としてではなく、人として生き、人として人を誅滅し、人として死に絶える。死肉と成った果てで、我はアルセンを国賊から守りし者として妻に労いのひとつでも掛けられるならば、其れで良い」


 死した妻に愛を乞う姿を、ミリアルテアは狂人を見ているような瞳で見下していた。

 カリオンの表情は、唇を引き結んで顔を顰めている。自分の力が足りなくて死なせたという罪悪感を今でも抱いているから。

 エンダは、昔とまるで変わってしまったディルの姿に苦い顔のまま。何度も悲劇の回想を繰り返す男の吐露をこれ以上聞いていたくないとでも思っている顔。


「我を我たらしめるのは、今でも妻だ。その妻が愛した国を守らずにして、何が夫か。既婚である王妃殿下であれば、此の言葉の意味が解るのではないか?」

「……愛など、悲願の前には薪と共に火へくべられる。燃え尽きて灰しか残さぬそれに、随分と傾倒したな?」

「愛とは、見えぬものだ。形のないものだ。我はかつて其れが理解出来ず、妻に形を見せぬ事叶わぬ儘今に至る。灰でも残るならば有難い事。して、王妃殿下は愛の残り灰をアクエリアに見せる事は叶ったのかえ?」

「っ……!!」


 王妃の瞳が揺らぎ、その足は騎士二人を押しのけ音を立ててディルに近付いた。膝を付く頬に向けて、掌を振り上げる。

 部屋の中に響く、頬を張った高い音。避ける事も、張られた頬を押さえる事もしないでディルは平手を甘んじて受け入れた。

 静寂が、辺りを包む。そしてそれを壊すのも、王妃。


「……良かろう、ディル。望むならば使い潰してやろう。最愛の意思を継ぐために生きて死ぬと言うのなら、死ぬ為の舞台を、あの女の弔いの延長で誂えてやろう。我々の為に細々動け。華々しく殺せ。粛々と頭を垂れよ。アルセンの誉れの影として、手を二度と取り去れぬ朱に染めよ」


 肩で息をするほどに激情を抱え、尚平手の一発で抑えきっている王妃は間違いなく『王妃殿下』だった。


「……」


 その姿に、ディルが感慨を抱くことは二度とない。


「御意に」


 そうして頭を深く下げた先に居るその女は、時が来れば剣の露とすべきものだ。

 指先にすら、頭を垂れる屈辱を出さないままにディルは目を閉じた。

 これで、懐に潜り込めたも同然だった。


 怒りも、殺意も、全てを後回しにする。

 ディルの目的のひとつが、今成された。



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