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梯子の先は光の無い、狭い空間だった。慎重に一段ずつ下りる二人が足を床に付けたのは、段数を四十と数えた頃だった。
足元どころかミシェサーの姿さえ見えないような闇の中だが、灯りなど持っていては自分達の居場所を伝えるようなものだ。瞳が暗がりに慣れるのを待って、ミシェサーを先行させる形で歩き出した。
「この先は城外、城内廊下、大浴場、食堂厨房へ通じています。この先の道筋につきましては、決して他言されませんよう」
ヴァリンから言い使っていた任務に入るや否や、それまでの間延びした口調や軽薄な態度を改めて声を潜め進むミシェサー。
今のところ、障害物になるようなものは足元に一切無く、害虫や害獣の類も居ないので通れている。唯一の難点はミシェサーが少し身を屈めなければ通れない縦にも横にも狭い通路が、ディルの体格にとっては窮屈すぎる事か。
「他言せずとも、此の通路を通ることは我にとって二度は有るまい。出た瞬間に忘れよう」
「……そうなることを祈っています」
「此の先は何処に出る? 今の時間だと、何処へ出るのも危険では無いのか」
「そうですか? この時間なら誰と出くわしても、疲労しきって可愛いものですよ。大人しく横になっててくれるし」
含みを持たせた言葉も、無視をすることでそれ以上を語られない。細い通路を曲がり、下り、やっと出口が足元に見えた。僅かに光を漏らしている板を外すと、そこから離れた場所に床が見える。ミシェサーが先に飛び降り、ディルもそれに続いた。
抜け出した筈の場所に点されていた僅かな灯りで、ディルは目を灼くような錯覚を覚える。それまで進んでいた場所は深夜の野外とでも比べ物にならないくらい暗かったから。
真っ暗闇から出た場所は、眩しい程明るい訳では無い。場所を確認するのに辛うじて不便しない、程度の灯りしか無くてディルが周囲を見渡す。此処は何処だ、とミシェサーに問う前に場所が分かった。
「懐かしいですか」
問い掛けたミシェサーは目を細める。髪と同じ色の睫毛に縁取られた奥に、血を思わせる真紅の瞳があった。何度か瞬いたそれが、問い掛けの後にディルを見る。
「――ふん」
答えはそれで充分だ。
通された場所は城内でも思い出深い場所だった。
壁一面を硝子張りにした廊下。硝子の向こうには、ディルの記憶に残るテラスが見える。
二階だ。それも、かつて王子アールヴァリンの婚約者候補だった時の妻と話をした場所。
今は冬でなく、雪が積もっている訳でも無い。それでも、一瞬雪景色と妻の着飾った姿を幻視する。
「今でも時々、元『花』所属だった者は思い出話をしますよ。ディル様の奥様が、どれだけ貴方を慕っていたか。それでもその人達は、私が直接聞いた話ほど、ディル様が奥様に抱いている想いを知らないんでしょうね」
「……言った事が、無かったからな」
「皆、『以前は良かった』なんて話もします。……過ぎた事をいつまで言ってても仕方ないのに」
ミシェサーは、今の騎士団しか殆ど知らない。だから過去の話をされても、それを愉快には思わない。その感覚はディルにも分かる。だからと、取り留めの無い苦悶に付き合っている時間は無かった。
特段、此の場所は他と変わっていない。その事にも安堵しつつ、此の先をどちらに進めばいいか分からない。
「……『花』執務室は、今どうなっている?」
「ああ……。あちらは今、三隊長共有の倉庫になっている筈ですよ。誰も必要以上に寄り付きもしませんね」
もし妻が城にいるなら、元執務室に幽閉されているという僅かな可能性を考えていた。けれど、今でも利用されていると聞けばその線は薄い。
やはり暁の居住している部屋へと押し入らねばならないだろう。ディルにはその場所に思い至る空間が無いが。
「暁様のお部屋は二階の奥になります。城の中でも東側ですね、あちらは他の階も含めて増設された場所になりますが、それぞれ別の階に宮廷某と役職を持つ方々のお部屋があります」
「宮廷……と言うと、我には暁以外に料理人と医師、音楽家には覚えはあるが? 彼奴等は別に部屋を持っていた筈だが」
「新設された立場があるんですよ。暁様の『人形師』とは別に『占い師』、他にも娯楽に舵を切ったような職種の方々ですね。王家の方々が運を天に任せてどうするんだか」
娯楽、と切って捨てた割には詳細を話さないミシェサー。話の途中で、時間も惜しいとばかりに二人とも足を進めた。
確かに、ヴァリンが危惧しミシェサーをつけただけの事はある。途中まで知っている筈の道が、ディルの記憶とは違っていた。前は一本道だったはずの場所が交差部になり、そこを進めばまた階段を含めた交差部が現れる。
ミシェサーは躊躇わず、その道を正しいと思われる方角へと進んでいくから、ディルは脳内で記憶の中の地図を上書き出来る。
「ここから先は、お話できません。足音も、お静かにお願いします」
一度だけ振り返った彼女は、厚く瑞々しい唇を窄めて指を当てる。しー、と、子供にでも伝わるような仕草でそれだけ伝えると、これまで以上に静かで慎重な足取りで廊下を進んでいく。
静かだ。自分達の行動から出る音もそうだが、誰かが廊下を行き来しているような音すらない。
この時間でも城内の警邏に就いている者も居る筈だ。なのに、そういった人影と擦れ違うどころか影を見る事すら皆無。
やがて進んでいった先に、ミシェサーが廊下の曲がり角に隠れるように身を潜める。ちょいちょい、とディルを手招きして覗かせた先には、闇と紛う程に深い黒色の扉があった。
漆黒と言って良いほど光を吸収し、そこに立ちはだかる両開きの扉。それを見た瞬間、ディルの肩から背中を冷たい何かが這っていったような感覚を覚える。
それは悪寒と呼ばれるものだ。
禍々しい何かを、あの扉の向こうから感じている。
あの向こうに、妻が居る筈。
ミシェサーは不安そうにディルを見ていた。このまま殴り込みに行かれては、城内に混乱が起きかねない。出来たら自分の居ない時に頼みたい、と心の中で願うだけ。
ディルは無言だった。無言で、扉を睨みつける。妻を隠匿する目障りな障害が、今は何より憎らしい。
離れて六年経った。それでも、忘れるなんて出来ない。
妻は間違いなく今でも、文字通りの、ディルにとっての『唯一』だ。
今すぐに、扉を蹴破って中を見たい。妻が居るなら、長く離れた事を詫びてその頬に触れて抱きしめたい。
それが出来ないのは、辛うじて踏みとどまった理性と、一人で無茶を敢行した時に酒場に残っている面々から非難が飛ぶのが分かっていたからだ。
「……」
話すな、と言われているので仔細をミシェサーに問うことが出来ない。場所は分かったのだ、一先ず戻ろう、と指で合図を出す。
それを見たミシェサーも、一度頷いてその場を離れるために立ち上がった。あとは、来た時と同じように音を立てずに戻るだけ。
脳内で書いた地図の答え合わせをするように、ミシェサーが曲がる道を予測しつつ歩いていく。
一回目、二回目、三回目――と、数えた所で、先を歩く彼女の足が曲がり角の手前で止まった。
「……?」
まだ、話すなと言われていた場所だ。どうしたか問うことも出来ない。だが、嫌な予感がしてディルも足を止める。
ミシェサーは、決してディルを見ない。代わりに掌を突き出される。『ここにいろ』の合図だ。
二人は動かない。動けない。ディルが道の先の気配を感じようとしても、音は何も聞こえないし気配らしいものを感じない。
ディルに感じられない何かを感じ取ったミシェサーが、やがて溜息をひとつ吐くと意を決したように歩を進めた。
偶然、そこに居たように見せかけるように。その整った美麗な横顔は、ディルの方を決して見ない。
まるで、他に同行者がいないかのように振舞っている。
「……あぁら、お疲れ様ですぅー。やだ、こんな時間にお会いできるなんて思わなかったぁ」
それまで、一度は成りを潜めていた甘ったるい猫なで声でミシェサーが視線の先に話しかけている。両手を広げて擦り合わせ、勿体ぶったように組んで頬の側へと近付ける。その指が、頭巾の紐を解いた。現れた目立つ色の髪が揺れ、体を滑り落ちた手は、勿体振るように腰の線をなぞる。
「勝手にここまで来たのは悪いと思ってますぅー。ちょっと遊んでくれるって人がぁ、こっちだと誰にも見つからないって言うからぁ。自分だけ満足したあと、すぐ持ち場に戻っちゃったけど。折角だしぃ、私と遊んでくださいません? ……まだ、体火照ってるんですよ……」
ミシェサーの言い訳を聞きながら、ディルは視線の相手が誰かを悟る。
言い訳しないといけない上の立場の者。
誘うことで場所を離れさせなければならない、この場所周辺の関係者。
「っふふ」
僅かに漏れた、嘲りを込めた笑い声がその人物を示す決定打となる。
「ウチ、いくら何でも阿婆擦れの相手は御免ですねぇ。誰のとも知れない子供出来てそれ押し付けられたんじゃ、堪ったもんじゃないですし」
――暁だ。
全身の毛が逆立つような不快感は、憤怒と呼ばれるものだ。
妻を返せと、外聞にも構わず叫びそうになる自分を抑えるので精一杯だ。
「子供出来るなんて、そんな下手しませんってぇ。これまで私妊娠した事ないですしー? ……試してみてくださいよ、損はさせませんよー?」
「遠慮します。……それよりも、こんな場所でまで盛れるなんて男寡は分別も無くて見苦しいですねぇ。愛しい奥様が聞いたらお嘆きになりますよぉ?」
その声はミシェサーを素通りしたかのようだった。
ディルが居る場所まで見えない筈の暁が、唇に笑みを浮かべているのがはっきり感じられた。
言葉に乗って。
吐息にすら混じって。
ディルとミシェサーの二人に向けた、暁の嘲笑が肌に刺さる。
「ねぇディル様。その義足、誰が仕立てて誰が手入れしてたか覚えていらっしゃいますかぁ?」
返答はしない。
「貴方がウチの部屋に近付いたら、その義足に使ってる宝石の欠片が反応して分かるようになってるんですよ」
嘲笑が齎す怒りを噛み殺すので精一杯だったからだ。