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 夕暮れの空も藍色が迫り、ヴァリンの部屋は闇に閉ざされる。

 幸いディルは夜目が利く方だったので、本が読めずとも移動するのに酷く不便する事は無かった。

 月の出た空は、窓に向けて灯りを差し込ませているのも幸いした。

 ディルは手元の本を全て元有った場所に戻し、再びソファに腰掛けていた。

 毛布をヴァリンの寝台から拝借し、体に掛けると暖は取れる。それ以外の行動を抑制されているような状況でも、ディルの心に焦りは無かった。

 廊下向こうから感じていた忙しない空気はもう無い。このまま夜が更ければ、城内を探索する事も可能かも知れないと思ったからだ。

 窓の外から見える、城内の灯りが最小限になる時を待った。それまで少し仮眠を取っても良いと、ディルが瞳を閉じて暫く経った時だ。


「ディル様」


 扉の向こうから、知らない女の声が聞こえた。アールリトの声ではないのは確実だった。

 開いた瞳は闇の気配に慣れていて、扉の方向を向くのにも苦労しない。


「誰だ」


 部屋の主の名前ではなく、ディルの名前を呼んだ。

 だからヴァリンが手を回した者だという所までは容易に想像がつく。


「起きていらっしゃいますねぇ? 失礼致します」


 入室の打音の合図も無しに、扉を開いて現れた女は手に燭台を持っていた。

 照らされて浮かび上がった肩口で切り揃えられている髪の色は桃を思わせるが、目に痛い気がするほど明るい色をしている。垂れていつつも大きな瞳が室内を見渡し、何が面白いのか口許は笑みを浮かべている。


「お食事とお飲み物を運ぶようにとのご命令で参りました。私、『風』隊の第三中隊長をしておりますミシェサー・ミシャミックと申します」


 黒一色の服を纏っているが、その髪を隠さない事には諜報活動にも出られなさそうな女が恭しく一礼をする。台車を引いてきたようで、一礼の後にはそれを室内に引き入れた。

 部屋の中の蝋燭に火を移した後、応接机の上にミシェサーと名乗る女が食事を乗せた。その手付きは来客用の丁寧なもので、一連の動作に気品がある。品があるのは動作だけで、ディルを値踏みするような視線と無駄に突き出した豊満な胸元は浅ましさを感じさせて、ディルの心が不快に傾いた。

 運ばれてきたものは魚料理だ。生の魚肉を薄く切った上に野菜が乗っている。そしてディルがこれまで名前を気にした事もないような、クラッカーの上にクリーム状の何かが乗って更に具材を乗せたような料理まで運ばれてきた。これは何という名の料理なのか、という疑問さえ問うのが面倒で投げ捨てたディルは、その物体を黙ったまま眺めている。


「お飲み物は紅茶と緑茶を用意しておりますが、どちらが宜しいですかぁ?」


 ミシェサーは猫を撫でたような声色で、ディルの様子を窺いながら問い掛ける。


「紅茶で」


 素っ気なく答えたディルは、すぐ側に在る不快の塊から気を逸らすように最初に魚料理を口に運んだ。感想を言葉にすることは無い。

 料理の向こうに置かれた紅茶のカップは上品にソーサーに乗っている。両方とも曇りのない白色をしていた。鮮やかな紅茶の色が、より引き立っている。


「……私が仕官した時はディル様のこと遠目で見るくらいしか許されなかったけどぉ。話に聞く通りとってもいい男ですね?」


 舌なめずりする下品な顔や好色な言葉にも、ディルは特別な反応を見せない。同時にミシェサーがその程度で折れる事も無かった。


「ねーぇ、ディル様ぁ? アールヴァリン副隊長はまだお戻りになりませんしぃ。もしお暇でしたらお食事が終わった後にでも私と楽しいことして遊びませんか、――」

「触るな」


 ディルの肩に手を伸ばした、その瞬間。

 手元にあった銀の料理用ナイフを逆手に持ち、ミシェサーの手首に突き付けた。ただ一瞬のことに、ミシェサーの笑顔が消える。


「……じょ、っ、冗談ですよぉ。やだもぉ、そんな所まで話聞いた通りなんてぇ。絶対嫌な気持ちにはさせませんよ? それどころか、癖になっちゃうかも」

「妄言も大概にしろ。この場合はカリオンに言い付ければ良いのであったか」

「――っあ、そ、それだけはっ……!!」


 食事を進めながら横目で見たミシェサーの表情は恐ろしさに歪んでいるようだった。

 『風』の中隊長すら恐怖に突き落とす、冷酷な団長。ディルの記憶の中のカリオンとミシェサー達のカリオンが一致しない。怯えるミシェサーの顔にもう見向きもせず、ナイフを下ろす。

 自分の肌が切れていないか、さすって確認するミシェサーは唇を突き出して不満を露わにする。その表情で落としてきた男もいるだろう、慣れたあざとい顔だ。


「……面白い事も無いしぃ、折角遊んでもらおうって思ったんですけどー。団長様に告げ口されるくらいなら大人しく引き下がりますー。……全く、私の未来設計全部駄目になってるんだから少しくらい発散させて欲しいですよー」

「他人の未来設計など知った事では無い。余所を当たれ」

「あー、そんな事言うんだぁ。私の未来設計駄目になったのは、半分貴方のせいですよ」


 次の一口を口に入れようとした、その手が止まった。


「一人のか弱い女の子が、とっても輝いていた女騎士様に憧れて仕官したんですよねぇー。実家は裕福だったけど戦争のせいで逼迫しだして、女の子に持って来られた婚姻話蹴ったら血管切れた父親が出てけ―! だって。それで折れる女の事でもなくて運良く仕官できて、でも新兵が戦場に投入されるのは少し先で。憧れの人がいる戦場で、あの方の為に力になるんだ!! ……って、思ってたらなんかその人死んじゃった。聞いたら、大事な人の大事な人を守るために戦場に残ったんですって」


 軽い身振りを加えて笑顔で物語調で説明するミシェサーには、悪意しか無かった。

 ディルの動きはまだ止まったままだ。


「『風』にいらした頃からとっても美しかった、国が誇った宝石。貴方が生きるために、ソルビット様死んじゃった。最期までお側に近付くことも出来ず、私の事も覚えて貰えてないでしょう。貴方が死ねば良かったのに」


 給仕のように隣に控えながらも笑顔のまま毒を吐き散らすミシェサーの言葉は聞き流す事が出来なかった。

 何度自分が思っていたか分からない。

 何度自分に投げつけられた言葉か分からない。

 六年経っても延々と、生きている事を責められる。


「呪詛を聞かせる為に、給仕の真似事をしに来たのか」

「まさかぁ。私もそんなに暇じゃありませんし、他の『風』の皆は貴方と顔を合わせたくないんですって。流石裏ギルドのマスター、機嫌を損ねたら殺されるって皆怯えています」

「……些細な事で殺しはしない。此の場所は王城である、臣下に血を流させる不敬は許されまい」

「あー、ここが王城で良かったぁ。戦場だったら殺されて食べられてたかも。――腕しか戻って来なかった『花』隊長みたいに」


 その話題は、ディルに対して触れてはいけないものだった。

 下ろしていたナイフを再び手に持ったディルは、その切っ先を向けてミシェサーに投げた。

 桃色髪が揺れる。寸での所で躱した髪の毛先を撫でたナイフは壁に音を立てて刃先が僅かに突き刺さり、自重で床に落ちた。

 次にディルが手にしたのは紅茶のソーサーだった。引き抜く時に上に乗っていたカップが倒れ、紅茶が零れる。ソーサーをテーブルに叩きつけて半分に割り、それを持ち直して即席の刃の完成だ。王室で使う軽くて薄い受け皿は、その断面も鋭利。

 ミシェサーの表情が、引き攣った笑いに変わる。この男の前では大半の物が凶器と成り得る。ソーサーが駄目になれば次は窓でも割って破片を持って来るのではないか、という程の殺意だ。


「殺しはしない、と言ったが。死に至らぬ程度の苦痛を与えない、とは言っていない」

「……本当、話に聞いた通りの人。皆が嫌がるのも当然ね」

「我が他の有象無象に興味が有ると思うかえ? 興味の無い存在からの評価など痒くもない」


 ディルにとって執心している存在は一人だけで、それ以外からどう思われていても平気だった。


「誰から言われて此処へ来た?」


 立ち上がったディルは、割れた陶器の刃を持って見下げながら問い掛ける。


「アールヴァリンが其の様な戯言を許すとは思えぬ。あの者とてソルビットを喪い嘆いたが、我に呪詛を吐く事は無かった。ソルビットの意思を尊重する者であれば、其の死を否定する事など出来よう筈も無い。して、ソルビットの信念を侮辱する其の様な戯言を垂れる者を近寄らせる事すら、アールヴァリンが許す訳も無い」

「――。……ふふっ。うふふふ。勘が鋭いのか鈍いのか、分からない人ですねー?」


 ヴァリンでないなら、誰が食事を用意させたのか。

 数口食べたが、毒は盛られていないようだ。紅茶には口を付けなかったから、盛られているならそちら側か。

 唇を空いている手で抑えて口内の毒の気配を探るディルに、ミシェサーは口許の笑みを深める。


「随分お疑いのようですが、毒なんて入れてませんよ。疑いなく食べるから不安になっちゃったけど、毒入れたらいざ楽しい事しようってなっても何も出来ないじゃないですか」

「……」

「残念ながら、給仕をお命じになったのは副隊長で間違いありません。料理にもお茶にも毒は入れてません。でも、私に追加で命令を下した人がいました。貴方を怒らせて武器振るわせて牢にでも投獄出来たらご褒美あげるって言われて」

「褒美如きで我の怒りを誘おうと?」

「断ったら殺されますもの。――命令して来たの暁様ですから」


 悪びれる様子の無いミシェサーの言葉をそのまま信じるような愚鈍ではない。けれど出されたその名前は、ディルにとっては因縁のある名前で。

 ヴァリンと暁の間に挟まれたとしたら、中隊長程度の地位ではどちらとも命令を聞かずにいるのは難しい。折衷案――というには些か過激な呪詛だ。


「……ならば、貴様は暁の命令通りに、我に害される覚悟で来たという事かえ?」

「っちょ……! ちょっと待ってください、それとこれとは違います! 目的と命令を出した責任の在り処が分かったんなら、ディル様が怒る先は私じゃないって分かるでしょ!!」

「で、あれば我も返そう。『其れと此れとは違う』と」


 過激な呪詛を、話の通りに暁のせいにすることは至極簡単で。

 けれどディルも、それだけでは自分の中の怒りが発散できないと分かっている。命令を下したのは暁だとしても、言葉を悪いものばかり選んでぶつけてきたディルに対する憤りはミシェサー本人の意思だ。


 ディルの手の中にある陶器の刃の切っ先が、ミシェサーに向いた。


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