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「お前が俺の部屋に来るってのも初めてだな。フュンフは一回だけ来た事はあるが」


 国王の私室を出て、ヴァリンの部屋に向かう道すがら世間話のように話しかけて来るヴァリンの声にディルは頷く。頷いた所で、道の先を足早に行くヴァリンには見えない。


「寝台は勝手に使うな。寝たけりゃソファに毛布持って行け。(ベル)鳴らしても暫くは誰も来ないから茶は諦めろ。俺が来るまで扉は開けるな。お前はしないと信じてるが、部屋の中は勝手に漁るなよ」


 先程来た階段の小部屋まで辿り着くと、ヴァリンは南側の扉を開いた。後ろに付いて行くディルが目にしたのは、栗を思わせる茶色の絨毯が敷かれた廊下だった。

 緑を基調にする『風』隊に所属し、濃紺を髪に宿すヴァリンからは共通項が見出せない色だ。でも、ディルは分かる。

 廊下に足を踏み出せず、立ち止まってしまったディルに振り返ったヴァリンの表情は不機嫌そうだ。


「……どうした」

「いや……、踏んで良いものかと思ってな」

「お前もそのくらいの思いやりはあるんだな」


 ヴァリンが愛した『茶』髪の女。

 彼女が宿す色を踏み締めるのは些か趣味ではない。しかし、この先の部屋に行かねばならぬとなると進まねばならない。


「ソルも俺の部屋に来る時、毎回ここは嫌そうに通ってた」

「分かっていて此の色にしたのか」

「俺の妻になる女だけがここの配色に口を出せるって言ったんだけどな。案の定黙られた。……別の色にしろって言われたら、その場で求婚してただろうな、俺」


 先を進むヴァリンの背中を追うように、ディルもそっと絨毯に足を踏み入れる。それは故人の訳が無いのに、ソルビットの遺体を踏んでいるような感覚がしてディルの眉間にも皺が寄る。

 ヴァリンが彼女を求めた想いの鱗片だ。色にさえ愛する人を重ねたヴァリンの重い愛情は、他者にさえ僅かながらでも不快感を与える厄介なもの。


「分かっていて黙ったのではないのか」

「お前もそう思うか? ……本当、あいつの勘の鋭い所は嫌いだった。でも、大人しく俺の都合の良い様になる女だったら、俺の伴侶にって望まなかったろうな」

「面倒臭い男だ」

「お前が言うな」


 二人が辿り着いたのは、何の変哲もない木造りの扉だ。厚い焦げ茶の木材で出来た扉の鍵を開くと、取っ手に手を掛けてヴァリンが開く。

 部屋の中は、先程の国王の部屋と同じほどに広かった。違いは、先程の部屋と違って寝台さえ一室に収まっている所か。

 奥側隅に見える、大人数人が余裕で眠れる程度の広さがある寝台は白と濃紺。そこに衝立が目隠しの役割をしていて、中央には白を基調にしたソファ等の応接用具がある。寝台側の壁には、五番街の本屋で見たような大きい本棚が二つ並んでいた。そしてそれらの下に敷かれている絨毯は空を思わせる色をしている。


「じゃ、俺は行くぞ。そこまで待たせないようにするけど最悪一晩明かすつもりでいろ」

「本棚は見て構わぬか?」

「勝手にしろ」


 急ぐ様子のヴァリンはそれだけ言い残し、足早に部屋を後にする。扉が閉まった後の部屋で、ディルが最初に向かったのは本棚の前だ。

 ディルが収集している本は哲学系の本や歴史書が多い。対してヴァリンが所持している本は、童話や小説が多かった。劇団が公演しているような演劇の脚本もあり、それらは幾度も読み込まれて擦り減った背表紙や頁のふとした拍子に付いた折り目が見える。

 ヴァリンの本棚には、空想の世界の話が多い。実在しない存在の、存在も無い人生の一片を見た所で何が面白いのかはディルには分からない。だからと人の好みを否定はしない。ディルだって世間一般から見て好かれるような好みでいるつもりは無いし、人の好き嫌いはそれぞれだと思っているから。

 学術的な本を見繕って、ディルはそれらを引き抜いてソファへと運ぶ。腰を下ろして頁を読み始めた所で、ヴァリンの字で几帳面に注釈が入れられている事に気が付いた。アルセンの土地の歴史の本のそこかしこに、勉強した跡が見える。


「………」


 ヴァリンには、恵まれた才能というものは無い。

 けれど努力出来ることを才能と呼んでいいのなら、ヴァリンのそれは間違いなく才能だった。

 一枚頁を捲る毎に、努力の痕跡が現れる。注釈と合わせて本文を見ると、非常に分かりやすい教科書のようになっている。生まれが今と違っても、誰かの為に生きられる男になっていただろう。……そちらの方が、ヴァリンにとって幸せだったのかも知れない。

 読み始める本は確かに勉強になる部分は多いが、面白い訳では無い。しかし時間を潰す手立てがそれしかないので、無言で頁を捲る。

 読み始めて一冊、二冊。本を積み上げ、まだ日のあった筈の窓の外が夕暮れに染まる頃。廊下の向こうで、誰か大勢が動いているような音が聞こえた。


「………」


 ディルは、その音を確認しに行かない。出るなと言われていたせいもあるが、気配でそれが何を意味するか分かったからだ。

 ただ、本に書いてある文章が頭に入って来ない。字面を追う視線だけが忙しないのに、脳がそれを理解しようとしない。

 ヴァリンの言っていた最悪が訪れるのが確定したようなものだ。ディルとしては別にそれで良くて、寧ろ好都合だ。


 かつて仕えた主君である国王の死を好都合と思える、自分の良心の無さに呆れるばかりだったけれど。




「……っ、く、う、ぅううっ……」


 遺体に取り縋って泣いているのはアールリト。その背にはヴァリンが居る。

 逆側には王妃であるミリアルテアが、どこか冷めた目で国王の亡骸を見ていた。

 呼び出され駆け付けた、三隊長も揃っている。カリオン、エンダ、フュンフはそれぞれ主君の死に沈痛な表情を浮かべているが腹の中までは透けて見えない。

 その場所に、息荒く新たに部屋に入って来る姿があった。ヴァリンの弟でアールリトの兄である、アールブロウだ。


「父上!!」


 彼も兄妹と同じく、濃紺色を髪に宿している。普段陰気に髪を下ろしているヴァリンよりも少しだけ短い髪型だが、陰気そうなのはあまり変わらない。

 いかにも焦って走って来ましたといった姿を取り繕っているが、ヴァリンにもアールリトにも、その姿が表向きのものだというのは分かっていた。

 決していい父親では無かった。王妃やその妹達の暴虐を止める事も出来ない老いた男だ。

 アルセン国の王家は、創世の神の血を引くと言われていた。

 けれど神の血も、人の血が交わり濃くなればただのヒューマンだ。


「父上、そんな。目を、目を覚ましてくださいよ……」


 アールブロウが遺体に縋り付こうとするのは、アールリトの側でだ。アールリトの体に触れる直前で弟の体を押しのけ、妹の体をそっと奥へと押してやる。


「ブロウ、お前白々しいよ。泣きつくなら向こう行け」

「兄様……? な、なんの話ですか。僕は、ただ、父上に」

「危篤の時に何でお前傍に居なかった。どうせ部屋に引き籠ってたんだろ、それなのに嘘泣きするなよ。……俺の目の前で、リトに触るな」


 父親の死さえも言い訳にしてどさくさに紛れようとする弟の性根に唾でも吐きたくなるが、王妃の目の前だから我慢した。

 目に見えてアールブロウの表情が不快に変わる。ヴァリンにとって陰気の手本である弟だが、恋い慕う相手への執着は同族嫌悪だ。


「……キリアもウィンも、流石に間に合わなかったな」


 ヴァリンのすぐ下の妹であるアールキリアは嫁ぎ先の国の収穫祭と時期が被り、もう一人の弟にしてアールブロウの双子の兄であるアールウィンは留学先から帰って来ていない。葬儀に間に合うかも不明で、ヴァリンが視線を彷徨わせる。しかし決して王妃を見ようとはしない。

 王妃は、黙ったまま国王の亡骸を見ていた。その瞳は、空虚しか映していなかった。


「……散々私を煩わせたものが、呆気なく終わるとはな。……本当に、生き物の一生というのは呆気ないなぁ、陛下よ」


 伴侶として生きていた王妃が、既に反応しない、冷たい国王の手を握る。


「リトよ、聞いたか。この男が最期に私に何と言ったか、聞こえたか?」

「………はい」

「私は良い後添いでは無かったな。一時期は誰にも文句を言われない王妃であろうとしたこともある。幸せな婚姻など無いと、何処かの誰かの死で思い知ったから無駄になったがな。目の前に居る陛下を無下にして、私は過去の思い出に憑りつかれていた。自分で汚した癖に神格化した思い出が私の横っ面を殴りつけるのも、今思えば当たり前のことだったろう」


 アールリトは、自分の実父がこの城を訪れた事を知らない。実父が誰なのかも知らないし、何故実父と母が離れる事になったのかも知らない。


「……私がして来た事は、この男にはどう映っていたろうな? 世界を忌むほどに耐えて、耐えて、それでも、我が同胞達が心安らかに暮らせる世界が来ると信じていたからこそ此処まで来たのだ。踏み越えた屍の数など覚えておらぬ、呪った者の数など数えておらぬ。私は、……」


 それでも、アールリトは国王ガレイスのことを父と信じて、慕った。


「……お母様が、お父様に見向きもしなくなった日の事を、覚えています」


 二度と戻らぬ過去の事が、彼女の記憶に強く残っている。

 もし、王妃が後戻り出来る機会があったとしたら、その時だ。


「私は、これ以上何を悲しめばいいですか。お母様、私は、私の出自すら分からないのに、王女の顔をして生きて行かなければなりませんか」

「……リト、お前は」

「聞きました。お父様から、私はお父様の子ではないと。……お母様はそうまでして、この国をどこに向かわせる気なのですか? ……プロフェス・ヒュムネの安寧が欲しいだけなら、どうしてこの国を、無辜の民を、巻き込んでしまうのですか……?」


 それきり王女は顔を伏せ、亡き父親に縋って泣いた。

 葬儀はもう少し先の話だ。どうか、それまでに目を開いて、と願う子の心は血の繋がりなど関係ない。

 アールリトは、確かに事切れる寸前の言葉を聞いた。


 『     』と。

 それはディルが、己の亡き妻に言えなかった言葉とまるで同じだった。



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