181
――どうする、っつったって。
ヴァリンの言葉は声に出した筈なのに、掠れた吐息にしかならなかった。
冗談だと撤回するなら今しか無いぞ。でなければ俺が頷いたらお前どうするんだ。
呼吸にしかならなかったそれはディルへの念押しのようで、実際は自分が吹かれている臆病風に促されるまま、それが本心ではないと聞きたいだけだ。自分で分かっているから、問い返せない。
相手はヒューマンと比べて強大な力を持っている。戦うには準備が足りない。少なくとも、騎士が全員で掛からねば勝機は見えない。
先の戦争のような事態に再びなるかも知れない。
そうした世界で、次に失うものは何だろう?
「――我は」
返事をしないヴァリンを待たず、再びディルが口を開いた。真っ直ぐに見据える灰色の瞳は、瞬きさえゆっくりで。
「プロフェス・ヒュムネとの全面対決は避けられぬと、そう考えている。妻の奪還の算段が立つ迄は平伏している心算であるが、其れが済み次第攻勢に移るべきだ。謁見の間で問うた王妃の現状は、最早我々と道を同じくする事は不可能である。王妃も、マゼンタも。身はアルセンに住まいながら、瞳は同胞しか見えておらぬ」
「……それは、俺も、そう思ってるが」
「早いか遅いかだけで、未来は変わらない。……ヴァリン、汝の意思は何処に在る? 父親の死を目の前に、此の儘祖国がプロフェス・ヒュムネの国に様変わりするのを見続けるだけかえ?」
前の話し合いの場でも、ここまで具体的な話は出なかった。
ディルの妻を奪還する、その方針だけは決まったがどう奪還するのかまでは誰も話さなかった。
方法はまだ後から考えればいい。
実行に移す機会はまだ待とう。
そうして先送りされた『手段』を、ディルは考え続けていた。
ディルの覚悟は分かっていた筈だ。なのに、ヴァリンの一手先を思考していた事自体に自然に笑みが漏れる。
「何を笑う」
「……いや」
本当に、この思考力が何で他の所で活かせないんだ。
「お前に先回りされた気がして悔しいな」
「悔しくて笑うのか」
「お前が真面目にそういうこと考えてたってのも笑える。本当にお前、嫁大好きだな」
手をひらひらと振りながらも、ヴァリンの思考は続いていた。
本当にプロフェス・ヒュムネとの対決は避けられないのか。マゼンタの暴虐は断罪に値するものとして、二番街の件は王妃やオルキデが関わったものかどうか証拠がない。
……そう考えるのは、既に臆しているからだ。
「悪い、ディル」
「……」
「俺はまだ、お前の質問に返事が出来ないよ。俺の答え次第で、本当に今すぐこの国に内乱が起きるかも知れないって思ったら尚更な。……俺は、こんな時でも元次期国王としての教育の成果が出てしまうらしい。国の疲弊を、民の苦痛を、俺は望まない」
「其れが汝であろう。……ならば、今のは聞かなかったことにせよ」
ヴァリンは最初に、酒場の面々に国外逃亡の案を出していた。
勝算の低い行動を取れないのは美徳でもある。その美徳をディルは否定しない。
暫く二人の間に沈黙が漂っていた。その重苦しさは、扉の入室を知らせる打音で軽くなる。
「兄様、お茶をお持ちしました。あと、用意があるからとお茶菓子もこちらに」
「すまないな」
何の嫌味も無い、感謝を告げるだけのヴァリンの言葉は他では滅多に聞けぬものだ。
アールリトは次期国王の座が確実だというのに、ディルにもヴァリンにも差し出す茶の作法は完璧だ。持って来て貰った手前、口をつけない訳にもいかず一口分だけ紅茶を啜る。香りも悪くない。
末姫は再びヴァリンの隣に座る。彼女が紅茶を傾けた時だ。
「……少し、父上の様子を見て来る。リト、少しディルの相手をしてやってくれ」
「え……。は、はい」
ヴァリンは早々に自分の茶を飲み干して、アールリトに言い残すと隣の部屋に向かってしまった。
残された二人は、顔見知りな上に会話をするのも初めてではない。けれど、アールリトは肩を窄ませて気まずそうにしている。膝の上で手にしている紅茶が、飲まれぬというのに卓の上に戻されない。
「……アールリト殿下」
ディルが名を呼ぶと、分かりやすく肩が跳ねた。
「こうしてお会いするのが久方振りになる不調法、容赦頂きたい」
「……そんな。私こそ、ディルが大変なのを知っていたから。……最後は、ろくに挨拶も出来ないで貴方が居なくなったし……」
「……我は本来、追放となった身。今此処に居る事自体が、アールヴァリンの取り計らいに依る特例なのだ」
アールリトには、ディルの妻が一時期専属で仕えていた時期がある。
まだこれといった役職も与えられず、持ち前の跳ねっ返りな性格から同僚や一部上官から疎まれていた時だ。当時次期国王候補だったヴァリンの継承権対抗馬にして末姫である彼女の身辺警護と遊び相手として、閑職と陰で蔑まれる立場に付いた。
彼女と王女は仲が良かった。アールリトはディルの妻を強く慕い、ディルの妻もアールリトをまるで妹のように可愛がった。立場を弁えていた彼女だが、その垣根を飛び越えようとしたのはアールリトの方だった。
「……もう、あれから六年経つのね。あの日から、あの人の声が城で聞こえなくなったの。後から話を聞いて、貴方も追放になったって聞いて。私の所に話が届くのは、全部終わった後だったもの」
「……我々の話で、殿下の心を乱す事は無い。我でさえ、……全てが終わった後に、知る事に成ったのだから」
「でも。あの人が一番大切だった貴方が生きていて。……私はね、半分安心もしたの。あの人が一番守りたかったものは、きっとこの国よりも貴方だった。命と、願いと。どちらかだけでも守られたのだから、私は必要以上に悲観する事を止めたのよ」
アールリトが、そう言いながら紅茶を置き髪を掻き上げた。髪と指の間に、歪な形の耳が見える。
上部を切り取って、歪に繋ぎ合わせて成形した様な耳だ。あまりに下手糞な外科手術に、ディルさえも眉を顰めた。
しかしそれはアールリトにとって、軽々しく妻の話をされた事に憤慨しているものだと瞳に移る。
「……ごめんなさい。失言だった」
「何故、謝罪を?」
「あの人の心を知ったかぶりして、不快にさせたわ。私、あの人がずっと貴方の事好きだったって知ってたから。……だから、つい」
つい、と。
言葉にしたアールリトの瞳から、一筋の雫が頬に流れ落ちた。
「……悲観することないって。そう、思わないと。もう、六年経ったのに。私は、今でもあの人が生きている気がしてるの」
アールリトが流す涙に意味は無い。流しても、ディルの妻は戻らない。
ディルは妻の生存を信じているけれど、アールリトは亡いと思っている人への感情を止める事が出来ない。
今、敵とも味方とも判断がつかない次期国王に、妻の生存を伝えても良いのだろうか。ディルの逡巡が、アールリトの口を開かせる。
「ねぇ、ディル。私、今でも悲しいの。貴方達が結婚して、私は本当に嬉しかったのよ。ずっと、あの人が貴方の隣に笑顔でいるんだって思ってた。もう、どこにもいないなんて……」
六年経っていても、未だに妻の事で涙を流す者がいるという事実に、ディルは心の何処かで安堵を浮かべていた。
妻の存在が今でも誰かの心の中にあって、その場所で彼女は生きている。……心の持ち主は、彼女が死んでいると思っていても。
アールリトの涙が、ディルのささくれた胸を僅かに癒した。
「……殿下」
「ごめんね、ごめんなさい。一番悲しんだのはディルなのに。……こんな事聞かせて悪いって思ってるけど、今まで、殆ど誰にも話せなかったから……。ヴァリン兄様はソルビットのことで、私の比じゃないくらい荒れていたし」
自分の手の甲で涙を拭い、涙は止まったようだ。潤んだ瞳は俯いて、瞬きの数が少なくなる。言葉の無い空間を誤魔化す為か、二人はほぼ同時に紅茶に手を伸ばす。そして口に含んでからも、お互いを見ずにまた茶器を戻す。
アールリトにとっては居心地の悪い空間だった。ディルが騎士であった時も、その不愛想加減に慣れなかった。ちらりと様子を盗み見ても、仏頂面の男の表情は変わっていない。
「……ねぇ、ディル」
「………」
「もし。もしも、の話よ。私がこのまま王位を継承するじゃない? ……そうなったとしても、貴方はあの酒場でギルドのマスターしていくつもりなの?」
問いは、その真意を測りかねて返答をしない。わざわざ問い返さずとも、アールリトは自ら言葉を続けた。
「ディルは、何もしたい事ないの? いつまでも、一人で生きて行くつもりなのかなって。幾らあの人が遺した場所っていっても、あの人だって貴方の枷にはなりたくないはずだし」
「我に妻は一人居れば良い。後添いなどという考えも無い。我に添えるのは、只一人のみだ」
「それはそうかも知れないけど……、でも、やりたい事って無いのかな、って。ダーリャだって騎士辞めた後旅に出たでしょ。サジナイルだって奥様の所に戻ったわ」
「やりたい事、か」
言われるまでもなく、ディルにとっては妻と添い遂げる事だ。
けれどそれを抜きにして考える事は無かったな、と今更思い至る。
今、新しい事を始める気にはなれない。しかし妻が戻って来てからの事を考えると、何かしら考えておかなければならないかも知れない。この国には居られる気がしないから。
「……命果てる場所を、考えておくことくらいか」
妻と二人で。
何処か、この国とは違う別の場所で。
妻が願う事すべてを叶えながら、綺麗な景色を見るためだけの当ての無い旅に出るのもいい。
そしていつか、時が流れた先で、どちらかが息絶えるとして。
互いが骨を埋めたいと願う場所を、二人で見つけたい。
「………、それって」
アールリトにはそれが自殺願望にしか聞こえず、口を噤む。
驚くほどに欲も生気も無かった男だが、妻を想う感情は本物だ。言葉の真意を問えなかったアールリトは、再び紅茶に手を伸ばす。
そして口を付けた時、奥に続く扉が開いた。
「兄様」
ヴァリンは無言でソファに戻る。そしてアールリトが持って来ていた茶菓子のクッキーを一枚頬張り、飲み下した。
「父上、息はあるけど返事が無くなった。誰か呼んで来るけど、先にディルを俺の部屋に通す。それまで後を頼めるか」
「……はい」
ヴァリンが無言だったのは、父親の死をこれまで以上に近く感じているからだ。その表情に酒場で見せる余裕は無い。アールリトは直ぐに隣の部屋に足早に入り、ヴァリンも席を立つ。
「てなわけで、俺の部屋に行くぞ。お前の顔を王妃や弟達が見たら好き勝手言うだろうからな。無駄に広い部屋だから俺が戻るまで好きに寝てろ」
「……ふん」
返事はそれで充分だ。ディルも立ち上がり、二人は部屋を出て行く。
向かう先は、元次期国王だった第一王子アールヴァリンの部屋だ。