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アルカネットがヴァリンとジャスミンを伴って外へ出て行く。例の植物の葉は、再びディルの手元に来た。カウンターの中に隠して、それで一先ずこの件はお預けだ。
途端に静かになる酒場の一階には、ディル以外誰も居ない。
静寂はディルの望むところだ。物音ひとつしない空間で、死んだように生きている。今までも、これからも。
ディルの好む喧騒なんてひとつだけだった筈だった。鈍い銀色の髪を持つ、表情の良く変わる一人の女が齎す騒々しさ。けれど、今は何故か物悲しさに憂いが湧き出る。
静かすぎるのが悪いのではない。
妻を知って、喧しいのも悪くないと思う心が宿ってしまったのだから。
「………」
ディルの沈黙も、酒場の静寂も、何も行動を起こさねば変わらない。かといってディルは自分で茶を淹れた事もなく、ぼんやりと空間を眺めているだけ。
やがてその静寂が、階段が軋む音で掻き消える。規則的に鳴る足音は一階に着くと同時に止んだ。
音は一人分。ディルの視界の端で、金の髪が揺れた。
「……」
ディルは髪で誰かを判別した後に、静かに目を閉じた。眠い訳でも無かったが、変に友好的に接してアクエリアからやっかみを受けたくなかったからだ。
軋む音ではなく、確かに床を歩く音が聞こえて、それはディルの前で止まる。カウンターを挟んだ向こう側に、ミュゼが立っている。
「マスター」
呼ばれても返事しない。
「マスター。……えっと、その、マスター・ディル?」
無視を決め込んだのは、ミュゼが憎い訳では無い。
ただ、二人の関係性を表立って言えないだけに、誰かに関係を問われた時に何と言って良いか分からないのだ。
特にミュゼに向かって『俺の』と冠言葉を付けるくらいには執着しているアクエリアは、本当の本当に面倒臭い。
ディルとミュゼの仲を穿って見ている旨の発言もあったくらいだ。今、酒場に残っている者の中にアクエリアもいるのだから、なるべくそういった煩わしさは避けていたい。
「……マスター。ねぇ、マスター」
それでも尚辛抱強くディルを呼ぶ声がする。そろそろ反応しないと、次はミュゼに要らぬ誤解を招くと思ったディルだったが。
「……じいちゃん?」
呼び名が突然それに変わった事で、眉を顰めながら瞼を開く。「あ、起きた」と、分かっている筈なのに白々しく嘯くミュゼは笑顔だ。
まだそう呼ばれる年齢ではない――と、思っても、確かにミュゼにとってはそうなるのだろう。代の離れた、ディルから見て少し遠い子孫。
「今度からマスターのこと、じいちゃんって呼ぼうか。生活も似たようなものだし」
「何処がだ」
「よく座ったまま寝てるし食も細い。そしたら、アクエリアが変な事マスターに言って来ることもなくなるんじゃない?」
「………、知っていたのか」
「あいつ自分から白状してきたよ。全く、浮気なんて出来るような女に思うのかねぇ。私、股掛け出来る程器用じゃないよ」
ミュゼが不器用という点には疑問を持つが、浮気が出来ないという点については同意見だ。というより、自分達の血を引いた者が不誠実であって欲しくないという願望も含まれている。
それまでのディルの無視もなんのその、ミュゼはカウンターを挟んだ正面の席に陣取った。しっかり深くに腰掛けて、暫く動かない気満々の様子だ。
「ねえじいちゃん」
「其の呼び方を改めろ」
「マスター。……なんだよ、いいじゃん他人じゃないんだし」
ミュゼはディルを責めるような口調になるが、それも少しの間だけだ。
飲み物も何も出さない酒場店主に、ミュゼは目を伏せて口を開く。
「……あのさ。前、話したよな。フュンフ様に、私、自分の事情を伝えようとしたの。そしたら、体が透けたって話」
「………」
「多分、だけど。直接、未来の話に関わる相手だとそうなるんだと思う。私に続く血の系譜が、私が不用意に口を開くことで捻じ曲がっちゃうんだろう。そんな話をし終わったら、或いは話している最中に、私は消えるかも知れない。だから、さ」
ミュゼの表情は穏やかだ。
「試してみたいんだ。マスターには、どのくらい聞かせて大丈夫なのか。マスターだって、知らない未来の事知りたくない?」
「……知って如何なる、……と、言いたい所だが。気にならぬと言うのも、白々しい話だ」
「話せる範囲を話すよ。もし本当に消えちゃったら……アクエリアになにか言い訳しといて」
ミュゼはカウンターに頬杖をつき、何を話そうか考え始めた。その唇は僅かに弧を描き嬉しそうで、その心持ちが分からないディルはただただ不思議だった。
自分と一緒に居る時の妻も、いつも笑顔だったな。ふと思い出した妻の姿がミュゼの姿と被るようで、ディルが目を細める。
「……私の知ってるアイツの最期、王妃に処刑されたんだよ」
「処刑――?」
「エクリィは詳しく教えてくれなかったけど、暁が関わってたのは間違いないみたい。暁が泣いて嫌がっても、アイツは首を刎ねられたって。『とあるものを見て気が狂った』とも聞いたな」
「……我が今からでも王妃の首を刎ねれば良いのかえ」
「アイツ居ないから駄目だよ。これは、マスターが死んだ世界の話なんだから。その世界じゃ、マスターはアイツの命を守ることは出来ても、心までは守ってやれなかったんだね」
心を、守る。
その言葉が、この世界ではどうなのだろうと思考を誘導する。
命があるのはほぼ確定している。けれど、心は守れているだろうか。守れていたなら、彼女は決して傍を離れなかっただろう。
どんな世界でも、妻を悩ませてばかりであろう自分の事は容易に想像できる。愛してさえいれば、想いを口にせずとも態度で示せばいいとばかり考えている自分だったから。
「……マスターの子供の名前は、ウィスタリアとコバルト」
「片方、知人に存在する名だ。長く顔を合わせても居ない」
「最初聞いた時は覚えがないって言ってたのにねぇ。……私はウィスタリアの血を引き継いでるけど、コバルトの方の血族の話は聞いた事ないな。そんで、ウィスタリアはフュ――」
ぼんやりと、育ての親から聞いた話を口に上らせている最中だった。
フュンフの眼前で起きたのと同じように、ミュゼの体が揺らぐ。揺らいで、肌がカウンターの木目を透過させた。透けるように白い肌、という言葉が今だけは冗談で済まない。
「……!」
「あ」
ディルは目を見開いたが、ミュゼは初めての事でも無いからか嫌に冷静だ。
そのまま口を噤むと、次第に揺らぎは消え失せて透過も無くなる。
「うん、ごめん、今の無し。忘れて」
「……此れが、此の現象が、汝の言っていた『消える』ということかえ?」
「そうだね。聞かれたら都合の悪い話……って、そりゃそうだよなぁ……当たり前の話だよなぁ……父親だもんなぁ……」
中途半端に終わってしまった話だが、これを聞く先にあるミュゼの消失を考えればディルだって問い質す事が出来ない。本当に消えてしまったら、戦力の減少だけでなくアクエリアの絶望すら呼び込んでしまうのだ。
しかしミュゼはミュゼで、えー別の話かーどうしよー、と能天気な顔で次の話題を考えている。
「……その双子は今、」
再び口を開くと同時に、ミュゼの姿が揺らいだ。
双子の現在を語る事すら許されていないような現象の出現に、ミュゼが頭を抱える。
「もう良い」
話には聞いていたが実際に目の前で消えかけるミュゼを見ると、ディルの胸にも焦燥に似た感情が湧き上がる。こんな危険な事、もう続けさせないようにとディルが中止の意を示した。頭を抱えた手を離し、ミュゼが目を丸くしてディルに問い掛ける。
「……聞きたくないの? マスター」
「汝の身の安全とでは秤にも掛けられぬ。其れ以上を語ろうとするな」
「んでも、他に知りたい事もあるでしょ。まだ話し方変えたら伝えられる話もあると思うし」
「もう良いと言っている!」
声を荒げたディル。悲痛が混じっている叫びがミュゼの鼓膜を揺らした。
「……汝の、話を、最早偽りとは思わぬ。我を謀る心算ではないと理解している。ミョゾティス、汝を想うアクエリアの、汝が消えたとした其の後の絶望は、我が昔に受けた絶望と酷似するであろう」
「そんなの……、大袈裟だよ。私達、まだ結婚もしてない」
「婚姻の有無が想いの重さと関係があるかえ? 其の上、アクエリアは『二度目』になる」
「あ、……」
前の恋人も、アクエリアの傍から離れて行った。
同じ事をミュゼがするとなれば――彼の絶望は如何程のものになるか。
いつか置いていく、と話した。それでも傍に居ると言ってくれたのはアクエリアなのに。
「汝の身と引き換えに知る未来なら聞かずとも良い。汝の身の現存が、未来の証明になろう。アクエリアに永劫恨まれる心算は無い」
「……でも、本当に、いいの?」
「………汝は」
ディルが細めた瞳の奥には、確かに躊躇いがあった。
占いよりも確実な未来を知るミュゼの話は、例えミュゼの知る未来と齟齬があっても聞いておきたい話の筈なのに。
「我にとって、遠いとはいえ唯一人の、血縁。我が妻と繋ぐ命だ」
「――」
「忘れるな。汝の体に妻の血が受け継がれると言うのなら。……我と汝の縁は、我にとって何よりも濃い」
これまで、家族という存在を殆ど知らなかった男の囁き。
懇願のような声の小ささに、ミュゼは自分の両手を膝の上で強く握りしめた。
「……うん」
だからと、言わないままで良いのかという自問がミュゼの頭を駆け巡る。
ディルが知らない、双子の居場所。
二人の間の子供は既に誕生していて、フュンフを施設長として運営している王立孤児院に暮らしていること。
既に生まれている筈の二人の事を、伝えようとするだけで消えそうになってしまうのは何故なのか。
もしかしたらディルが関わる事で、ミュゼの生まれる未来に齟齬が発生してしまうのではないか、と。
ミュゼは悩んだ。
悩んで。
口にしない、という選択を選び取った。