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酒場が休業してからというもの、夜はそれまでの辛気臭さが成りを潜めた。
酒場で暮らしている人物達は元々の性格が辛気臭いとは言い難い。アルカネットとディルが関係改善したなら尚更だった。
ミュゼとアクエリアは部屋に籠らず堂々と一階で酒を酌み交わしている。ヴァリンも寝具の用意が整った自室には寝る時以外は戻らない。
アルカネットはそれまでの鬱屈とした表情が嘘のようになり、今日も自警団の夜勤に出て行った。
ジャスミンは来るべき冬に備えて薬を調合するために早めに部屋へと戻ったので、今は一階に居ない。
ディルは客の居ない店内で、思うままに酒を飲んでいる面々の姿をいつもの場所で眺めている。
「………」
いつもの場所、というのはカウンター内部の椅子である。
自室から出ている時のディルは、大抵この場所にいる。
ずっと変わらずその場所にある椅子は、ディルが用意したものではない。先々代マスターの時から変わらず置いてあるものだ。だから、椅子の足元では床がその形に少し変形している。
先々代、そして先代マスターであるディルの妻もこの椅子に座っていた。
勤務先の城でも自宅でも働き者の妻だった。ディルの前では笑顔を絶やさず、いつもディルに向かって愛していると言ってのけた。
ディルがこの場所を指定席にしているのは、そんな彼女の記憶を辿るかのような行動で。
これまでは店内が静かだったから、過去の彼女に思いを馳せる事が出来た。しかし、今は。
「だから言ってるだろ!? ソルの方が断然いい女だって!!」
軽い酒で盛大に酔って赤ら顔のヴァリンが、恋人同士であるアクエリアとミュゼに絡んでいる。
とても騒がしくて喧しくて迷惑だ。ディルの眉が自然と寄る。
「ソルは料理も出来て字も綺麗で美人で体付きも最高だった! 『花』副隊長だったから仕事も出来る!! 知勇も才色も兼備していたソル以上の女なんて居る訳無いんだよ!!」
「……ねぇ、アクエリア。私さ、あんまりこういうこと言いたくないんだけど」
「はい」
「やだぁこの酔っ払い! ちょっとどうにかしてアクエリア!!」
茶番とも本気とも取れないミュゼの嫌がる言葉に、満更でもなさそうな笑みを浮かべるアクエリア。
そして促されてもいないのに、似非エルフは椅子から立ち上がってヴァリンに向き直る。
「少し認識を改めて貰わないといけませんね。確かにソルビットさんは素敵な女性であったかも知れませんが、それでも俺のミュゼに遠く及ばない。俺の事を愛して側に居てくれる女性が後れを取ると思います? そもそも、貴方ソルビットさんと交際しても居なかったでしょう」
「え、アクエリア? 私が言ったのはそういう『どうにかして』じゃなくて」
「はぁ!? それは互いに立場があっただけだ! 俺だって、あいつと結婚できるならしたかった!! その為に王位継承権も捨てたんだぞ!」
「それで結婚できなかったんですから――失礼」
アクエリアが言葉を切った。結婚できなかったのは、彼女の死で未来が閉ざされたからだ。
そんなアクエリアの心遣いも分かっているが、ヴァリンは敢えて礼も言わずに同じように立ち上がった。
「ですが、ソルビットさんと同列ならまだしも下に見られるのは我慢なりませんね。どちらの伴侶の方が優れているか決着つけましょうか」
「望むところだ、ソルの最高さに目が眩んで横恋慕するんじゃないぞ」
「ちょっとマスター助けて!!」
今の状況に耐えられなかったのは勝手に渦中の人にされているミュゼで。
縋るようにカウンターに近寄って悲愴な声でディルに助けを求めるが、ディルはその悲鳴を聞くや否や目を閉じて目を逸らしてしまった。
「俺のソルは抜群に美人だったし何から何まで器用にこなしてた! あいつの飯食った事あるか? 無いだろうな? 残念だったなあんな美味いもの食べられなくて!!」
「食事でしたらミュゼの用意したものも美味しいですよ。貴方食べましたよね? 俺は望めば作って貰えるんです。俺の好みと合致した料理を出してもらえるんですよ、羨ましいでしょう!!」
小声でミュゼが「ま、お前に教えられたお前の舌に合う食事だからね」と呟いたのをディルは聞き逃さなかった。
酔った男二人がギャーギャー言ってるのが聞こえたのか、不安そうな顔をしたジャスミンが階段から様子を窺っているのも見える。そろそろ近所迷惑にもなりかねない、とディルが立ち上がる。
「――汝等」
やっと仲裁が入る! そう思っていたミュゼだが。
「その争いは無意味だ。我が妻が全てに於いて最も優れているのだからな」
もう駄目だ。
ミュゼが力なくその場に膝から崩れ落ちた。
乱入者の登場にヴァリンもアクエリアも顔を険しくする。引き攣った目元、顰めた眉、下がった口角は胸中の不愉快さをそのまま表していた。
「あんな平たい胸のどこが俺のソルより優れてるって?」
「あんなちんちくりんが俺のミュゼより優れてるですって?」
「――何だ」
ディルの視線も険しくなって二人を見ている。
「妻に文句があるのなら耳を貸そう。聞いた後の処遇については確約しかねるが」
嫁過激派が集まれば不穏な空気になる、ということもあるのだとその時ミュゼは初めて知った。
もとより妻の為にと武器を振るう男にそのきらいがあると考えるのが自然なのだ。
ディルは二人が座る卓まで移動して、尚も喚き散らす男共に喧嘩を吹っ掛けに行った。
「俺のソルは!」
「俺のミュゼは!」
「汝等、少し勘違いをしているようだが」
腕を組んで立ちはだかるディルの表情は自信に満ちている。
「我が妻は此の我を選んだ『妻』だ。互いに永遠を誓い合った我等と、一歩手前で二の足を踏んでいる汝等とでは話にならぬ」
「…………」
「……」
「戯けた言い争いも大概にするがいい。早く寝ろ」
あっさりばっさり切り捨てたディルの圧に、男二人は黙り込んでしまった。ディルの頼もしい後ろ姿を見ながら「これが既婚者の余裕……」と無意識に呟いたミュゼ。
ジャスミンもあっという間に終わった言い争いを見届けた後、階段を引き返していった。
ディルもこれ以上は時間の無駄だとばかりに自室に引いていく。残ったのは飲んでいた三人だけだ。
「……俺だって……。俺だって、ソルが生きていてくれたら……」
酔っ払いは死別の悲しさを滲ませながらも悲愴感少なく階段を上っていく。
残ったアクエリアは二人の関係にケチを付けられたような気がして浮かない顔。酒杯をヴァリンの分だけ厨房に持って行き、飲み残しと二人の酒杯を手にしてその場を後にする用意が出来た。
立ち上がったミュゼも、アクエリアの側に行って酒杯を受け取る。あとはミュゼの部屋に入って飲酒の続きだ。
「……ミュゼ」
「なに?」
部屋へ続く道の途中、階段を先に上るアクエリアが、ミュゼを呼んで立ち止まる。合わせて呼ばれた側も立ち止まり、続きを待った。
「結婚しますか。……俺達」
「は?」
足はそのままに上体だけ振り返りながらアクエリアが突然放った求婚に、ミュゼは目を丸くするばかり。
手にしていた酒器を落とさないように、必死に腕で抱えている。無意味に力を込めたりして、言われた言葉をそのままの意味で受け取って良いのか頭を働かせていた。
「その、……ディルさんにああまで言われては、俺も少し考える所がありまして。……ん。いや、違いますね。前から考えてはいたんですよ。永遠を誓いたいと思える相手は、ミュゼ以外にはもうこの先出逢えないだろうな……って」
「ちょ。ちょっ、と。待って。急に、そんな」
「俺は、前の時に伝え損ねた。あんな思いは二度としたくない。出来るなら、この先も貴女と共にいたいと思っています。あの子が戻るまでの騒動を潜り抜けて、それでもその先も一緒にいられたらどんなに幸せだろう、と……思って……そう、思って……しまった、ん、です……よね」
そこまで伝えると、アクエリアは再び前を向いて階段を上っていく。
「だから。……急かしませんから、ゆっくり考えておいてください。……そして、出来たらでいいので、どうか頷いてください」
「……。………う、うん」
ミュゼは少しの間、その場から動けなくなった。アクエリアは足早に部屋へと向かう。
互いの耳が赤くなっている事は、夜闇に紛れて気付けなかった。
「………」
ミュゼの動かない足は、驚いたからじゃない。薄々、いつかそういう事を言われる気はしていた。
だからと、嬉しかったからでもない。
「……エクリィ、私は」
名を呼んだ相手は、育ての親が名乗っていた名前だ。
育ての親は、自分の名前だったものを捨ててその名を名乗っていた。本名と完全に別物ではない偽名の方が、ミュゼにとって馴染み深かった。
ミュゼに当たりが強くて、必要と思われる技術は何でも教え込んで来た鬼畜。なのに面倒見が良くて、高祖母の代からミュゼの血筋を知っている。
彼がいつも見せている灰の髪の色は、魔法で誤魔化した仮の色だ。
兄のようであり、父のようであり、普段見せる姿は鬼畜のようでもミュゼは慕った。
「どうしたらいい、『エクリィ』。私、『アクエリア』とも一緒にいたいよ」
エクリィも。
アクエリアも。
ミュゼは両方を愛した。
けれど愛情の矛先が二か所あるような現象が、アクエリアの求婚にすぐに頷けなかった理由ではなく。
「当たり前じゃんね。……どっちも、同じひとなんだから」
苦々しく吐き出した言葉を最後に、口を噤んで階段を上り始めた。
エクリィ・カドラーと名乗る男は、ミュゼの育ての親にしてヒューマンの皮を被ったダークエルフ。
彼が遠い過去に名乗っていた本名は、アクエリア・エステルだということをミュゼは知っていた。