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『J'A DORE』一時閉店の話はすぐに纏まった。
元より看板も出していない隠れ家のような酒場だ、店の前に蝋板に書いた通知だけ出せばそれで常連客も納得する。
蝋板には几帳面な字でこう書いてある。
『一時閉店
次回開店未定
王城関係者お断り
特に騎士』
「お前が騎士じゃないか」
それは蝋板を出す少し前の悶着。
昼過ぎ頃に満足そうな顔で紙にそう書きつけたヴァリンは、アルカネットからの横槍に眉を顰めた。
「うるさい。俺は良いんだよ」
「王城関係者で騎士だろ。お前自分で自分の首絞めてないか」
「絞めてない!」
一階の客席で張り紙を書いていたヴァリン。それ以外にも酒場で暮らす全員が揃っていた。
当番制になった食事の後片付けに向かっていたジャスミンは、皿洗いが終わってやっと厨房から顔を出す。
アクエリアもミュゼも食事後の気怠い時間にのんびりと茶を楽しみつつ、ヴァリンとアルカネットの二人の様子を見ていた。
マスター・ディルもディルで、いつもの指定席で面々のじゃれ合いを眺めている。
「一応の注意書きさえあれば、誰が来ようと実力行使で追い出せるからな。勿論俺以外だぞ、締め出すのは任せとけ。ディルに」
「我か」
「お前が一番強いだろ。万が一カリオン来ても対処できるのお前くらいだ」
蝋板に書きつけた文字におかしなところが無いか確認するヴァリン。その文面を見たミュゼがほー、と溜息を吐いた。
「ヴァリンって字ぃ綺麗だよな」
「字? 当たり前だろ。俺の字の教師は最高だった。教えたのは字だけじゃないけどな」
「あ、もういいです。その先何言うかなんとなく分かった」
「まぁ聞けよ。俺の字の教師はそれはもう美人で仕事も出来てそんじょそこらの女じゃ太刀打ちできないような奴だったがな、字は綺麗で料理は美味いし気は使えるし頭も良くて本当に」
面倒臭い事になるから触れてはいけない所に触れてしまったミュゼが顔を背けるが、それさえお構いなしにヴァリンは教師役だった女を褒め称える言葉を続ける。その表情は恍惚としており、アルカネットが止めても止まる様子が無い。
何か気を逸らせる話題は無いか。視線でアルカネットとミュゼとアクエリアが探り合う。それまでジャスミンは話に入れず困った顔をしているだけだったが。
「カリオンさんって、酒場にも来た黒髪の人でしたよね。その、髪の毛先が落ち着かない感じの」
「そうだな。あいつは髪の毛に似合わず頭が固いっていうか……もう、話が通じるような感じじゃなかったな」
ジャスミンの言葉にアルカネットが答える。その間もヴァリンの口は延々と教師役への賛辞を続けていた。
「その人、ヴァリンさんより強いんですね?」
ヴァリンの賛辞が止まったのはその時だ。
要らない墓穴を掘ったかとジャスミンの顔が青くなる。
「……ああ、そうだよ。悔しい話だが、あいつは強い。選りすぐりの騎士達が御前試合して、先代隊長達さえ負かしたような奴だったからな」
恐れていた事態――ヴァリンが激情して血を見るような事――にならないでジャスミンは安堵した半面、素直に自らの力量を冷静に判断している事に戸惑った。これまでの傍若無人さを知っているからこそ「は? 俺が負けるって?」とムキになるような男だと思っていたから。
「カリオンは凄いぞ。基本的には隊長になるには副隊長の地位に就いてから、隊長が引退したら繰り上がるって場合が多いんだがな。あいつは先代からの指名で平騎士から隊長になった男だ」
「へぇ? それはやっぱり強かったから?」
「強くもあったが、昔のあいつは今と比べようが無いくらい柔軟性があってな。人望もそれ以外も、あいつは隊長に適任だった。副隊長を隊長にするよりな」
王城内の事情は、市井の者には分かりにくいものだ。元々が医者という仕事しか経験がないジャスミンは話を聞いても序列を抜かす意味にピンと来ない顔をしている。
「んで、その御前試合の決勝戦。カリオンと優勝の座を争ったのが、そこに座ってぼんやりしている元騎士だ」
「え」
ヴァリンの指は無遠慮にディルを指差した。差された方は特に表情を変えていない。
「昔の話であろ」
「未だに語り草だがな。お前居なくなってからあいつ負けなしなんだよ」
「負けなし……ってことは、マスターが勝ったんですか?」
「いいや、引き分けた」
自分の事でなし、よく覚えているなとディルの視線が物語る。
「決勝戦は酷かったぞ。刃潰してある得物でやり合うんだがな、どっちも寸での所で躱すし、当たってもどっちも反撃していた。血反吐も吐いて骨折れても殺し合って、最後には隊長格が全員で二人を拘束して終わり。その時抵抗喰らった一人が肋骨骨折」
「うわぁ」
「何が御前試合だ。あんなの殺し合いだ殺し合い。仲間内で殺させるために騎士雇ってんじゃないんだぞこっちはよ」
「汝に雇われていた訳ではなかろう、アールヴァリン」
ディルの過去の話など、これまであまり聞いた事のない面々は目を丸くしている。強いのは漠然と知っていたが、騎士の頂点争いに参加していたなどとは初耳だ。
ただひとり、アクエリアだけが心底うんざりしたような顔をしていた。
「その話何回目でしょうねぇ。ヴァリンさんの口から聞くのは最初かも知れませんが、俺はあの子から延々聞かされていましたよ」
「だろうな。あの馬鹿女はディルの存在自体が自慢だったから。綺麗だ格好いいだ強いだ頼もしいだ、俺からしたらもう聞き飽きて耳塞ぎたいくらいだった」
「その言葉、そっくりお返ししましょうか?」
自覚が無いのは性質が悪くて、アクエリアは一言で切り返したがミュゼは関わりたくないとばかりに目を逸らしている。
これまで皮肉屋で冷静を気取っていたヴァリンは何処に行ってしまったのだろう。ジャスミンとしてはヴァリンが口説いてこなくなったのは有難いが、トンチキな一面を見ているとなんだかむず痒いような不思議な感覚に襲われる。
もしヴァリンの本性がこういう人格だと知っていて、本当に本気で口説いて来ていたら――ジャスミンはどうしても、絆されてしまう自分を想像せずにはいられなかった。そんな想像を振り払いたくて、自分の中に芽生えた疑問を口にする。
「今も騎士をしているヴァリンさんより、マスターの方が今でも強いんですか?」
その問いかけは、他の全員にはそれが当然の事として理解していたものだ。
しかしディルは肩を竦め、とぼけるような口振りで答えた。
「さてな。随分長く実戦で本気を出しておらぬ。ややもすれば、ヴァリンが腕を上げているかも知れぬぞ」
「本気で言ってるのかそれ」
冗談にも聞こえるそれにヴァリンが眉を顰める。
ミュゼはこの酒場に身を置くきっかけになった騒動の時に、ディルの一閃を躱すので精一杯だったことを思い出して寒気に身を震わせる。少しでも反応が遅れていたら首が刎ねられていただろう。
アルカネットだって、先日オリビエを逃がす為の茶番の時に対峙した。その時のディルは本気では無かったにも関わらず、アルカネットは簡単に絡め取られてしまった。
二人の表情が少し青褪めたのを見て、ヴァリンが溜息を吐く。
「俺達の上に立つマスターがそんなんじゃ、これから先が心配だな。やってみるか手合わせ」
「我が? 誰と」
言うなりヴァリンは掃除用具を置いている隅まで移動する。
手にしたのは長柄の箒二つ。
「流石に真剣は死人が出るからな。勘を取り戻すためにやってみろ」
「誰と、と聞いているのだが」
「この酒場には俺の他に荒事担当が二人もいるだろう? あと頭脳派気取った槍使いも。卓も椅子も片付けたら、この酒場だけで演習場として広々使えるぞ。柱は邪魔だが、遮蔽物がある中での戦闘も復習しといて損は無いだろう?」
知らないうちに巻き込まれたミュゼとアルカネットが更に顔を青くした。頭脳派気取りと言われたアクエリアは往生際悪く茶を飲みながら明後日の方角を向いていた。
持って来られた箒は二つ。ということは、ディルは四人を順番に相手することになる。箒を受け取った手でそれを握り締め、四人の顔を順繰りに見る。ジャスミンは巻き込まれたくないので早々に酒場の卓を隅に片付け始めていた。
「……此の酒場を荒らす事は許さぬ」
「荒れるかどうかは自分ら次第だろ。それとも、お前はもうそんな勘も鈍ってしまったか?」
「拒否権は無い、という事か」
拒否してくれよ出来るだろ、とアルカネットが全力で思うがそれも思っただけでは無駄な足掻き。
実際、ディルと真似事とはいえ剣を交えた事が無いアルカネットは少しの期待を抱いていた。空白期間があるとはいえ最強の座を欲しいままにしていた騎士と手合わせをする機会は手放しがたい。
アクエリアとミュゼは二人並んで首を振っている。しかしもう逃げられそうにないのは分かっていた。
「んじゃ、誰から行く?」
「……俺から」
名乗りを上げたのはアルカネットだ。渡された箒を手に、着々と片付けられていく酒場の中で二人が向き合った。
「思えば、俺はお前の事大嫌いだったけど、こんな感じで直接でぶつかることは無かったな」
「今でも我が厭わしいかえ?」
「……分からない。もうお前は騎士じゃないし、蟠りもだいぶ無くなった。お前を嫌う理由なんて、最初から無かったような気もする。結局、俺は意地で今まで生きて来たからな」
「自らを顧みられる者は大成する。我は好む好まざるに関わらず、汝の事は悪い人間ではないと思っているが」
「……そうかよ」
アルカネットには、ディルの事を素面のまま向き合って義兄と呼ぶ気はまだ無い。それは幼い反発心というより照れの方が勝るからだ。
「そんな俺に教示してくれよ。騎士様の戦いとやらがどんなものか。俺は独学で剣振るってたからな、そういう専門分野はさっぱりだ」
「構わぬが、高くつくぞ」
「へぇ、金取るのか。そういうとこ、義姉さんに似たな」
「我は別に金をせしめようとはしておらぬ」
二人が、同時に構えを取る。
「――治療はジャスミンに、今のうちに頼んでおくのだな」