三十六時間前 悪魔の寝床に枯れた花
静かだった。
静寂も過ぎれば耳が些細な音さえも感じ取り、気分は落ち着かなくなる。
自分の鼓動だけを感じていた女が、その口から吐き出した自分の溜息さえも耳障りだ。
一人きりの室内で、外を見る事も出来ずに椅子に腰を下ろしていた。窓さえないその部屋は、外界から完全に隔絶された密室。
寝ても寝ても時間は思うように経ってくれない。
既に時間の感覚も無かったが、自分の身の回りの世話をしてくれる者は日時の経過を聞けば教えてくれる。
女がこの密室に身を置くようになって、既に六年が経過しているという。
六年の間に何がどう変わったのかも知らない。女は、鏡を見て自身の変化を感じる事も出来なかった。
「夫人」
自分を呼ぶ声は、身の回りの世話をしてくれる者だ。
者、と言って良いのだろうか。女性、それもシスターの服を纏ったそれは、ヒトの手によって作られた人形だった。
人より劣るとはいえある程度の思考を持ち、人外の機動力を誇る命の無い絡繰。
茶の髪を持つその人形とは別にもう一体いるが、夫人と呼ばれた女とそちらはあまり関わりが無い。
「ラドンナ」
女は、声の方に振り返りもしない。ラドンナの手が、椅子の向きを変える事で二人の顔が向き合った。
「おかえり。……今日はどうしたの、帰って来るの遅かったね」
僅かに掠れた女の声。水分が足りずに喉が渇いているのだ。ラドンナはそれを察すると、水差しの所定の場所である台の上に向かう。
水差しの飲み口を口に咥えた女は、傾けられるそれを慣れた様子で嚥下した。
「……ありがと」
「少々異常事態が発生しておりましたので、対処に時間を使っていました。帰還に遅れが生じた事、怒っていらっしゃいますか」
「怒りはしないよ。こうして帰って来てくれたんだから。……ねぇ」
女の口許は、期待で僅かに綻んでいる。
「今回も、あった?」
「はい」
短く返したラドンナは、それまで片腕で抱えていた花束を女の胸元に差し出した。
女は右腕でそれを抱き寄せる。褪せてしまった香りでも、僅かな芳香を手繰り寄せるように鼻を近付けて息を吸った。
「……ありがとう、ラドンナ」
口許に浮かべた笑みは、心からの喜びをラドンナに伝えようとしている。
しかしその表情を視界に収めたラドンナからは一切の反応が無い。いつもと変わらない、冷めた瞳で声の主を見るだけだ。
「ふふ、本当に律義だなぁ。もう六年経ったなんて信じられない。この花、元はどんな色してたのかな? 大分カサカサしてるみたいだね、押し花にするには遅すぎるかな」
言いながら女は枯れかけた葉を撫でている。
「夫人」
「ん……何?」
「その花を墓前に置いた男と遭遇しました」
ラドンナがその報告をすると、女は息を詰まらせた。そして暫くそのまま呼吸を止め、次に息を吸ったのは花束に顔を埋めた後だ。
「そっ、かぁ」
声が震えた。
「銀髪だったでしょ」
「はい」
「背、高かったでしょ」
「はい」
「とっても、格好良かったでしょ」
「回答不能。美醜について基準が分かりかねます」
「じゃあ教えてあげるよ。ああいう人を『格好良い』って言うんだよ」
「マスターと比べるとどちらが『格好良い』のですか?」
女は、花束から顔を上げる。
「個人の感覚によって変わるだろうけど……アタシから言わせると、勿論、ディルの方だよ。アタシの世界では、今でもディルが一番格好良い。いいなぁ、ラドンナ。あの人の姿見られたんだ。いいなぁ、アタシも、死ぬまでにもう一度見るだけでよかった。遠目からでもいいから、あの姿見たかったなぁ」
「お会いしようとは思わないのですか」
「………それは」
花束から、枯れた葉が床に落ちた。
かさりと、乾燥した葉が鳴らす音は二人の耳にも届いている。
「逢いたいよ。もう一度、なんて言えない。何度でも、逢いたい。逢いたくて死にそう。でもね、もう無理だから」
「何故」
「アタシはもう、暁が居ないと生きていけないから。もしまたアタシがディルに逢える日が来るとしたら」
二人は顔を合わせている。
なのに、視線が絡むことは無い。
「アタシか、暁か。どっちかが死んだ後だ」
ラドンナは、女の言葉に疑問を向ける事が出来なかった。
女の現状を、ラドンナは近くで見ている。何もかもを失っても尚生きている女の世話をすることになったのは、暁から紛い物の命を吹き込まれたその日から。
足りない理解力で、語彙で、ラドンナは女の現状が『地獄』であると知った。
だからとラドンナはその地獄から女を掬い上げる事は無い。寧ろ、この場所に繋ぎ止める為に存在している。
「男は、夫人の事を知っていました」
「……うん」
「妻、と言っていました」
「そっか。……アタシをまだ、妻……って、言ってくれるんだね。……優しいなぁ」
女は、枯れた花束を抱き締めたまま俯いた。
「忘れてくれて、いいのになぁ」
花と葉の違いさえも分からなくなった女に向けて、ラドンナは掛ける言葉を掴み損ねた。
もとよりこの女の世話をするための存在だ。その為の言葉は知っていても、労わる心など持ち合わせていない。
「アタシだけは覚えてるから、ディルにはアタシを忘れて幸せになって欲しいなぁ」
女に分からないのは、花と葉の違いだけではなかった。
今、目の前にいるラドンナはディルの剣を避ける時に服が何か所も破れた。腕も血こそ出ていないが、刃を直に受けて裂傷を負っている。
女はそれに気付かない。ラドンナも、敢えて言う必要はないから黙っているままだ。
言ったって、女は何も出来やしないのだから。
醒めない悪夢のような地獄の中で、女は今回も花束を抱いて啜り泣く。
ラドンナが生まれる前、花束を届けるのは同じ人形であるスピルリナの仕事だったという。
そうして、彼女は何度も涙を流す。二度と逢えない絶望と、忘れられない愛への未練と、逃げる事も出来ない現状に。
「夫人」
「……ラドンナ、一人にして」
「畏まりました」
言いかけた言葉も聞かれぬまま退室を命じられれば、その通りにするしかない人形は部屋を出る。
一人になった所で、女は、何処へも行けないし死ぬ事も出来ないのだ。
扉が閉まるその瞬間まで、女は俯いた顔を上げる事は無かった。
「ディル」
囁く声は誰も聞けない。
「ディル。逢いたいよ」
その涙を、誰も見ない。
「生きてる間に、もう一度顔が見たかったよ」
その苦痛が晴れることは無い。
「ごめんね。もうアタシ、貴方の奥さんじゃいられなくなっちゃった」