十四時間前 虚飾の栄華を冒す魔女薬
「……ねえ、姉様。大丈夫? どうしちゃったの?」
夜の王妃の部屋に、ふたりの影だけがある。
寝台の上で未だ泣き濡れている王妃と、その寝台の隣に立って身を案じるマゼンタだ。
マゼンタは、王妃の昔の恋の話を殆ど知らなかった。王妃は悲恋に終わった話を聞かせるまいと注意を払っていたし、アクエリアの過去の話など話半分に聞いてもう忘れてしまっていた。
もとより普通の心など持ち合わせていないマゼンタには、王妃の涙の理由が分からなかった。
「………いい、のだ。紫廉、私に構うな」
「そんな事言ったって……ねぇ、姉様。アクエリアさんと知り合いだったの? あの男、姉様に何かしたの? あの男、そんなに無礼だった?」
理由が分からないから、マゼンタは自分なりに考えた理由を投げて反応を見るしかない。
王妃は涙を拭くと、妹に視線を向けて瞬いた。
「……紫廉。お前は、彼と一緒に過ごしていたのか?」
「え? ……うん、まぁ。先代がまだ生きてた頃に来たの。それから、二人とも気が合ったみたいでそのままギルドに入ってた。無害そうだったから別に気にしてなかったんだけど」
「無害……。そうよな、アクエリアが誰かに積極的に害を成した姿を、私も見た事が無い」
「見た事がないって……知り合いなの? 昔の?」
王妃は無言で頷いた。
「もう、埃被った昔の話だ。……お前の口からも彼の名は出てないし、私は今まで彼がギルドにいるという報告も受けていない。ギルドの事は逐一報告せよと言っていた筈だが、どういう事だ」
「ギルドの報告って……そういうのはヴァリンさんや暁さんがやってるって思ったの。アクエリアさんだったら、半年前の十番街孤児院の件の報告受けてない?」
半年前の件、の言葉に王妃には思い当たる報告がひとつだけある。十番街の孤児院で預かった子供のプロフェス・ヒュムネが死んだという話だ。
しかしそれ以上は何も知らない。あの件は、『月』隊長にして孤児院施設長のフュンフが直接ギルドへ持ち込んだ話だ。そこで優先されたのは、誰が依頼を受けたかの話よりも同胞であるプロフェス・ヒュムネの情報。
「……受けたには受けたが、名前は無かった。そこに彼が絡んでいると思わなかった」
「私も、アクエリアさんが姉様にそんな顔させるような人だと思わなかった。なんなら、今からでもあの人捕まえて連れて来るけど――」
「止めろ!」
王妃の叫びは、マゼンタの身を竦ませる。
「……もう、彼は、私の前に現れぬと言った。私が彼に逢う事は二度と許されん。お前も、彼に関わろうとするな。彼を不快にさせる事など、あってはならない」
「不快って……。確かにアクエリアさんはあの酒場で結構役に立ってくれたから、私も痛めつけるのとかは考えてないけど……」
「彼は、駄目だ。関わるな、近寄るな。もう、私達に出来る事は何も無い」
それきり顔を伏せ、毛布にくるまって小さくなる王妃は何も言わなかった。
マゼンタとしてはまだまだ聞きたい話もあったが、答える声が無い事には部屋を出るしかない。
王妃の部屋がある王家居住区域から出て、客室へと向かう足は重い。直接言われないものの、責められているような気になってしまう。
――私、悪い事してないのに。
マゼンタの罪悪感なんてその程度で、誰が死のうが生きようがどうでも良かった。
プロフェス・ヒュムネ達としか関われない場所から出て、外の世界で一番仲良くしてくれた先代マスターが死んだ時からそれが顕著になった。
生き物として弱いと死ぬのが早くなる。
だから自分が殺した相手にさえも、弱いから死んだとしか思っていない。
「マゼンタ様」
苛立ち止まない所に、廊下の向こうから女従に声を掛けられた。怒り滲む視線を向けるものの、彼女はさして戸惑った様子もなく頭を下げた。
「何?」
「『処理』していたご遺体から、瓶のようなものを発見しました。確認をお願いいたします」
「瓶?」
女従が手巾に巻いて渡してきたのは、血が張り付いて乾燥し、赤黒くなってしまった陶器の瓶だった。
自分が殺した相手の遺品を確認しろ、だなどと面倒な事この上ない話だが、これもやがて姉妹の『理想』を叶えた時には常になるような仕事だ。
手に取ったそれを翳してみても中身は分からない。蓋はある。それに手を掛け、中を開いた。固く封をされたものが開くその拍子に中の液体が僅かに飛び、肌に触れる。
「……?」
触れたそれは無臭無色。顔を近付けて嗅いでも何も起こらない。
着ている衣服でそれを乱雑に拭い、もう一度蓋を締め直した。
「どうでもいい。適当に捨てといて」
「宜しいのですか?」
「中身が何なのか分からないし聞いても誰も知らないだろうし。私はもう寝るから、あとを頼むわよ」
「……承知致しました」
それは、この場に居る者は誰も知らないジャスミンの毒瓶。
終ぞ使うことが無く終わった、ジャスミンが抱いたオリビエに生きて欲しいという願い。
女従はそれを再び受け取ると、しげしげと外側を眺めた。
中身の液体が何なのか、その女従も知らない。同時に、危機感も無い。マゼンタを怒らせる以上の危険が、その小さな瓶にあるように思えなかったのだ。
女従はそれを再び手巾の中にくるんで懐に仕舞い込む。中身が何かは知らないが、綺麗な陶器の瓶自体は洗って乾かせばまた使えるかも知れない。洗うためには明日にでも井戸か川に行けばいい。
中身は――その時にでも捨てればいい。
マゼンタも女従も、ジャスミンがオリビエに言った処分方法を知らない。
だからその通りにしない。
女従は日が昇れば井戸の側にて素手で毒液を捨て、寝ると言ったマゼンタはそのまま寝台に潜り込む。
液体の掛かった部分が、僅かに痛みを伴っていることさえ無視して。