十二時間前 貴女の居た証と冷たい寝台
王城から酒場に帰還するなり、全員が何も言わずに部屋に向かった。辛気臭いなどと散々な言われようだった筈の酒場でも、一秒でも中に居たくない王城と比べると安息の地のようだ。
風呂に入るという選択肢すらなく、そのまま部屋で泥のように眠る。疲労を癒す為でもあるが、先程城で見せられた悲劇を頭から振り払うために。
静かだった。皆寝ていた。
ただひとりディルだけ、妻と使っていた自室に仕舞い込んでいた荷物を引っ張り出す以外。
妻を喪ってから、全く手つかずだった彼女の荷物。触れる事さえ怖くて、目を逸らし続けていた。
服も私物もそのままだった収納箱は複数あって、部屋の棚の奥深くに押し込まれて一度として外に出ていない。
それを蝋燭一本の僅かな灯りの中で深夜に取り出したディルは、躊躇いがちにそれらの蓋を開ける。
「………」
彼女が休日に着ていた服。
彼女が結婚式の時に纏った婚礼衣装。
靴も、数少ない装身具もずっとそのままだ。長い間日に当たることもなかった衣服だが、時が止まったかのように昔の姿のままだった。幸いな事に虫食いも無い。
自分が死ぬ時が来たら、この中の荷物の幾らかと自分と一緒に燃やして欲しいとさえ思っていた。
何処に何が入っているのか、記憶も曖昧だ。妻が居なくなった頃の記憶からして朧気だから無理もないのだが、結局目当てのものを見つけるまでにすべての収納箱を開ける事になる。
「……――」
一番最後に手を掛けた収納箱、その収納品の一番上に目的の物があった。
深い茶色の柄と、黒の鞘。花の模様が飾り彫りがされた柄には、所有者の名前が尖った金属で更に無骨に彫られている。
妻の短剣だ。彼女が幾らか所有していた、そのうちのひとつ。これは『仕事用』という名目で戦場には持って行かなかった。振り易さも重さも並み程度だが、彼女の掌に合わせて誂えられた刃。
鞘から引き抜いた刀身は、彼女が手入れをしていた時の姿のまま。錆も無く、その輝きは、蝋燭の光を頼りにディルの虚ろな瞳を反射する。顔にも年月の経過が現れていて、自分も六年の間に年を取ったのだと自覚した。年齢より若干老け込んだ気もする。
「今の我は、このような顔をしているのだな……」
騎士として城に仕えていた時は、今の状態になるなんて微塵も思っていなかった。
妻を喪って自堕落に拍車が掛かり、生きているのか死んでいるのかさえ曖昧な状況。
命があるから良い、なんて言えない。
死んだ方が楽だと、この六年間何度だって考えて来た。
妻の短剣が映す自分が、そのまま彼女の瞳に映るのだろうと思ったら困惑しか出なかった。彼女が愛した自分は、今よりも幾らか生き物としてマシだった気がする。
今在る自分への僅かな抵抗、無駄な足掻きで、髪に手櫛を通してみた。彼女が愛した白銀の髪は昔の艶を失って、毛先には枝毛が幾つも見える。髪の毛にも無頓着に暮らしていた結果がそれだ。これ以上自分の姿を見ていたくなくて鞘に戻す。
短剣だけを取り出した収納箱は蓋を閉めた。それらを元あった通りに棚に戻そうとするが、既に戻し方が分からない。どう突っ込んでいたかも分からず、諦めて一先ずはそのまま出しっぱなしにする。
短剣を握りしめたまま寝台へ向かう。いつもは起きた時に妻が居ない現実に耐えきれなくて横になる事が少ない寝台だが、今日は潜り込んで寝る事にする。一人寝には広い寝台が、体重を掛けられて僅かに軋んだ音を立てる。
「 」
返事が無い名を呼ぶことは、今でも怖い。
なぁに、ディル。と、嬉しそうに返事をする甘やかな声が聞きたくて堪らない。
けれど今日は返事が無くとも構わなかった。この言葉に、返事は要らない。
「汝が此れ迄、汝の兄と築き上げてきたものを壊そうとする我を――叱るかえ」
視線の先の短剣が喋る訳も無く、誰かが言葉を返す訳が無いと知っているから、そのまま目を閉じた。一人分しか体温の無い寝台は、とても寒い。
短剣は彼女ではない。分かっているのに、握りしめたそれが妻の手であったらと淡い夢想をしてしまう。
彼女が今でも傍に居たら、幸せは続いていただろう。愛を囁く彼女に、受け取った分と相応の愛を返したかった。手を繋ぎ寄り添って眠り、他愛ない話で時間が過ぎていく平凡な幸せ。互いが互いを愛し、どちらかが死する時まで共に居る。
それらを夢想で終わらせないために、有限である時間は無駄に使えない。
ディルの決意は重いものだった。
その重さが、自らを蝕むことになろうと構いはしない。
生きる理由は妻に集約されている。六年経とうとそれは変わらない。
今日は、夢を見なかった。