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酒場は沈黙に包まれていた。
ギルドメンバーは疎か、意図的に空気を読まないヴァリンさえも何かを言いあぐねては口を閉じる。
ディルの事を今でも慕っているフュンフさえ同じだ。このような状況になっても、未だ権力に阿ると言うのか。
「……。……全員、知っている事とは思うが」
空気を読めない筈のディルでも、場の不穏さには気付いているらしい。アクエリアの視線には失望が、アルカネットの視線には侮蔑が滲んでいたから。
誤解ばかりを受ける性格だ。これまでの時間の中で、ディルの言動をフュンフのように曲解せず、素直に受け止めながらも全てを受け入れたのは妻しかいない。でも、今は、妻は側に居ない。
自分で何とかしなければいけない。誤解も自分で解かないといけない。
何故なら全ては、たったひとりの為の決意なのだから。
「我が妻は、生きている」
息を呑む音がしたが、それは誰から出た音か分からない。
この話を全員が周知済みの事と認識させるに、今の状況は都合が良かった。
「妻は、恐らく王城に居るであろう。誰であろうと侵入を拒むという、暁の居住部屋に」
「……暁。……以前、我等が『月』に配属されていたあの若造ですね。宮廷人形師の跡を継いでから、態度が大きくなったと思っていましたが」
「暁の他人を顧みぬ態度は配属当初からだ。父親の顔は知っているが、母親の顔も見たくなる程の傍若無人に気分が悪くなる」
傍若無人を人の形にしたようなお前が言うな、とフュンフ以外の全員の思考が一致した。
「妻が生きている以上、我に此の国を離れる気は無い。となると、大人しく命令を聞いている傀儡の振りをするのが最善である。……命令に背いた事を理由に処罰を受ける気は無い」
「……お前、それでいいのか」
アルカネットが、苦虫を嚙み潰したような表情を向ける。
「其れで良い、とは?」
「命令聞く振り、って。それ、つまりこれからも奴らに頭を下げ続ける事になるんだろ? 王妃達だけじゃない、状況次第じゃ監査役やってる暁にも膝付かなきゃならないんだろ。俺、そういうのには詳しくないけど、そういう上下関係があるのは知ってるぞ」
「……そうなる、であろうな」
「耐えられるのか。お前、気分が悪くなって不愉快になるような奴らにこれからも使われようってか? お前、そんなに安い男じゃないだろ。他に方法無いのかよ。奴らに一泡吹かせられて、義姉さんだって取り返せるような方法が」
「有る――と思うかえ」
その声色は変わらない。なのに、瞳に宿した色だけが冷たく変わった。
「我とて、考えた。考え、思考し、あらゆる手段を捻り出した。しかし同時に、其の手段が誰かの手に因り崩れ去る予想も立てた。王家からの依頼を無視していれば王妃が出て来る。国外逃亡を計れば妻を取り戻せない。依頼の報告の際に謁見を申し出て其の場に居る全員の首を狩るか。否、此れ迄の我の所業を鑑みれば謁見を申請した所で却下されるであろう。王家の誰かを人質に取るか。否、マゼンタは笑いながら捨て置けと言うであろう。暁がこの酒場にのこのこ顔を出した時に殺してしまうか。否、あの者とて、最早対策無しに此の場を訪れる事は無いであろう。王城に押し入るか。否、幾ら我でも騎士の全員を相手にしては無事では済まぬ。何を以て妻の奪還が成功かと言えば、唯一妻の身の無事である。妻の身を危険に晒すのでは、講じる策は下策としか言いようが無い。講じたその中でも、一番無難で危険度が低いものが偽の忠誠を示し続ける策だ」
言葉を連ねる度、声に苦痛が混じり早口になっていく。苦痛と怒りと焦りまでもが混ざって滲んで、ディルの言葉が止まらない。
ディルは本気で考えていた。もう、その場しのぎの策など使えないのだ。この一晩だけではない、妻が暁の許に居るという予想を立ててから、ずっと考えていた事だ。
「妻の身が無事に戻るのならば、我の平伏などとは比べようが無い程に価値が有る。此の先を思えば、吐き気を堪え、悪寒を耐え、頭痛も胃痛も襲うであろうな。然して其の不快感の全ては、此の六年間の身を灼く絶望に比べれば苦痛の数にも入らぬ! 他に良策が有ると言うのならば汝が代わりに立ててみせよ!!」
そこまで言って、ディルは拳でカウンターを殴りつけた。収納されている食器の類が大きな音を立て、音と怒声にアルカネットが再び押し黙る。
一斉に捲し立てたというのに、ディルの息は酷くは乱れなかった。怒りを押し殺すように深呼吸をした後は、いつもの通り。
静かになって、誰も何も言わなくなって、それでやっとジャスミンとミュゼが料理が盛られた皿を手に厨房から出てきた。
「お待たせ―。冷めないうちに食べよう、これからまだ色々考えなきゃいけない事あるだろうし」
「……その、お、お待たせしました。殆どミュゼが作ってくれたから手伝う隙も無かったんですが」
ミュゼは明るく言い放ち普段通りを装っているが、ジャスミンはあからさまに挙動不審になっている。厨房とはさして距離も離れていないから、ディルの怒声くらいは届いているのかも知れない。
エルフの混じりであるミュゼが、話し声を盗み聞き出来ない訳がない。聞いていて、空気を変えるために普段通りの顔を見せているのだ。その証拠に、どんな話をしていたのかすら聞かずに、怒声が聞こえていないかのような振る舞いをしている。
二人が運んできたのは、大きな盆に乗せた人数分のスープパスタだ。燻製肉も野菜も彩りよく入っている。
ジャスミンはフュンフと食事を済ませて来た、と言ったがそんな二人にも少量ながら同じ物を出す。フュンフが「私は」と言って辞退しようとしたがミュゼはそれを聞き入れない。有無を言わさず配膳し、それが終わったミュゼは使われていない卓に盆を置いて自分も指定席であるアクエリアの隣に腰を下ろす。
「……ミュゼ、お前、これからどうするんだ?」
アルカネットは配られた食事を前に、手を伸ばす前に口を開く。
ミュゼは既に食べ始めていた。もぐもぐ、と普段通りの顔のままアルカネットを見返す。
「どうするって?」
「どこか逃げるか。俺は正直、もう王家にも騎士にも関わりたくない。国を出る選択肢があるなら、それも悪くないかなって思う」
「うん、良いんじゃない?」
ミュゼの返答は軽かった。二口めを咀嚼する間、アルカネットがその軽さに言葉を失う程に。
「……私は他の誰かの決定に口出せないし、あんなもん見せられたらどっか逃げる選択肢もあっていいと思ってるよ。そうだね、シェーンメイクとか良いんじゃない? あの国は百年くらい安泰そうだし、その近くのトルアドカも大きな問題は起きない筈だよ。逃げるならアルセン近辺は止めといた方が無難だね」
「……お前、なんでそんな冷静なんだよ?」
「今更何したって、過去は変えられないからなぁ」
ミュゼの突き匙がパスタを巻いて、それを軽く持ち上げる。滴る露は、皿に落ちて見えなくなった。
「今出来るのは、冷静に、これからを考える事だって言われて育ってきたから。変えたい過去なんて誰だって幾らでも持ってるけど、もう戻れないんだ。過去よりも今からの自分の命が大事だろ、じゃあ逃げるのが一番良い」
「……お前も逃げるか?」
「私? 私はこの酒場から離れないよ」
まるで日常会話の延長線のように、何の躊躇いも無く言い放ったミュゼを全員が驚いて見た。
冷静であるならもう少し考える筈だ。考えて、それで逃亡を選択肢に入れた行動を取るのが普通。
なのにミュゼはそれさえ最初から考えていないかのように、平然と離れないと言ってのけた。それも恋人であるアクエリアではなく、酒場から離れない、と。
「……ミュゼ?」
「アクエリアも、逃げるなら今のうちだよ。他の国がどんな国か、アクエリアだって知ってるから逃げやすいでしょ。アルカネットが行くならその手助けしてやって」
「それ、本気で言ってますか」
「私が冗談言う女だって思ってる?」
アクエリアが問いかける言葉にも、答えは揺るがないと暗に言う。
「私が何の為にこの酒場に来たと思ってた? ……私はね、マスターに、奥さんの生存を伝えるために来たんだ。マスターを焚き付けて、アイツには生きてて貰わなきゃいけなくて。それなのに、私だけもうサヨナラって? 人を殺してまで決めた私の覚悟は、途中離脱で終わっていいものじゃないんだよ」
ミュゼにとっての当たり前を、誰にも伝わるように言葉にしていく。
食事を続けながら話すミュゼの言葉を、誰もが聞き逃さぬよう集中していた。
「マスターに、一人で泥を啜らせない。啜る泥の量も、二人なら半分になるだろ。下げる頭が増えるなら、奴等だって気分がいいだろ。耐えて、耐えて、それで奴らの鼻がこれ以上高くならないってなったら。私はマスターと一緒に、奴等の鼻っ柱をへし折って、ぶん殴り続けて平らにしてやる。あんなクソ共から逃げて堪るか」
言葉を汚しながらも吐露したミュゼの本音に、アクエリアは俯いた。
アルカネットも、ジャスミンも、考え込むように下を向く。
「……私も、何処にも行きません。国外になんて行ってしまえば、イルともう逢えないかも知れない。また逢おうって約束したもの」
「………俺だけ逃げるなんて出来るかよ……。……クソ、何でこの酒場の女は全員こうも威勢が良いんだよ」
二人の中で、揺らいでいた気持ちに答えが出た。
いい思い出なんて、この酒場では少ない筈だ。アルカネットに至っては皆無と言って良い。
なのに、ディルの決意とミュゼの覚悟を見せられて、自分だけ逃げていられる訳が無い。王妃に腹が立っているのも本当で、一泡吹かせられるならそうしたい。
結論を出さなかったのはアクエリアだけだ。皆が食事を再開する間も、彼は無言で麺を口にする。皆食事が終わって、食器を厨房まで持って行って、ミュゼもそれに続こうとした時だ。
「ミュゼ」
ミュゼの手首を掴んで、アクエリアが顔を向ける。
その瞳は、僅かに潤んでいる。捨てられそうな子犬のようだとミュゼが思ったが、それを声に出すことは無い。
「ミュゼは、俺の事が好きですか?」
「……好きだよ」
「愛していますか」
「愛してるよ」
「ディルさんよりも?」
面倒臭い男だ、と、思っても口にしない。
重い男だと、体を繋ぐ関係になってから知っても、嫌いになれない。
問いかけには笑みで返した。
「勿論だよ。言ったろ、私はずっとアクエリアが好きだし、愛してる。アクエリアがいるから、私は強くなれる」
「では何故、俺よりディルさんを選ぶんです」
「愛情で目的の優劣を決めるのは馬鹿がすることだよ。私は、最初から目的があってこの酒場に身を寄せたんだから」
「優劣決められて、俺はまた捨てられるんですか。俺より大事な目的って何なんです。居なくなったあの子が、貴女に何の目的を抱かせているんですか」
「………」
「ミリアは――俺の『元恋人』は、理由も言わずに俺を捨てた。貴女もそうするんですか」
「二十年で理由分かって良かったじゃん。私の理由は、八十年くらい経たないと分からないだろうよ」
厨房から戻って来たディルは、二人の会話に気付いていたがいつものように自分の定位置に戻った。
フュンフとアルカネットとヴァリンは、厨房の入口から二人のやり取りを盗み聞いている。皿を洗っているジャスミンは、二人のやり取りに気付かない。
「あのね、アクエリア。私はね。今回の事、国の根幹を揺るがすような気がしてならないんだ」
「………」
「私は目的があるけど、そこまでアクエリアを付き合わせる気がないんだよ。アクエリアにはもっと大事な仕事が……って、今はこの件はいいか」
手首を掴んでいた手を離させ、両手でアクエリアの頬を包んでその顔を上に向ける。
高い所で絡む視線は、普段とは逆だ。いつもはどんな状況でも、アクエリアの瞳が上になる。
「遅かれ早かれ、私はアクエリアを置いていくよ。だから、一番早いお別れは、アクエリアがこれからこの国を出る時。一番遅いお別れは、私の命が尽きた時」
「……俺が居ながら、貴女を死なせるとでも?」
「先に地獄で待ってるよ。焦らないで後からゆっくりおいで」
頬のミュゼの手に、アクエリアが手を重ねる。緩い力で握る手は、血の気が少ない。
「俺は、もう傍を離れませんから。貴女が行く場所に付いて行く。何処へ行こうとも必ず追い付いて、俺がどれだけ貴女を想っているか分からせます」
「………。そう」
ミュゼの反応は、短かった。
「死ぬのだけは、止めてね」
想う人に想われておきながら、その返しは淡白以外の何物でも無くて。
フュンフは、ミュゼの正体を知っているが他言無用の言葉を守り無言のままだ。
ディルは特等席で、二人の末路が見えた気がしている。
八十年の先の未来に生まれるディルの子孫と、その子孫を守り通す男の話を聞いていたから。
追い詰められた鼠は猫にも噛みつくという。
では、追い詰められたこの酒場の面々は鼠だとでもいうのか。
噛みついた鼠は、猫に更に甚振られて死ぬのが関の山だろう。
ならば、猫が先に死ぬよう一撃で仕留めればいいだけの話だ。