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酒場への帰還後、それぞれ違う時間に寝入った筈の全員だが起床は同じ瞬間だった。
閂さえ掛けていない扉の鐘が重苦しい音を立てたのが正午。その音で、それまで全員が泥のように眠っていたにも関わらず目が覚める。
一階へ集まる時間はまちまちであったが、一番先に起きてきたのはディルだ。着替えているものの、いつもと同じ形の衣服。珍しく腰に短剣を下げていた。
「……」
「あ、あの。……戻り、ました」
ジャスミンが戻ってきた。その隣には気まずそうな顔をしたフュンフも居た。
ディルは二人に視線を投げ、自分の定位置であるカウンター内部の椅子に腰かけるまで無言だった。
「……よく戻った」
帰宅に労いの言葉を聞くのは、ジャスミンにとって初めての事だ。何を言われたか分からなくて一瞬硬直する。
同時にフュンフは、酒場の床に膝を付いた。
「不肖フュンフ・ツェーン。ジャスミンを只今送り届け、到着致しました」
「ふん」
それは騎士としての振る舞いのまま。彼の立場はもうフュンフの上司ではないが、彼の中でディルの存在は、命を救われたその時から変わっていないのだ。
これまでだったらフュンフの顔を見るなり怒鳴り上げて出て行けと叫んでいただろうディルは、相槌とも不快ともつかない返事だけで終わる。
「……不思議な光景ですね」
次に一階に出てきたのはアクエリアとミュゼだった。二人とも、着替えの身支度は済んでいる。ミュゼに至ってはエプロンを付けていた。
「皆お腹空いてるだろ。用意するから待っててくれな」
「用意?」
「あの二人がもう居ませんからね、もう頼めば食事を出してくれる人がいないでしょう。ミュゼが作るって言ってくれてるんですよ」
「時間があって気が向いた時だけだけど。食べられるもの出すつもりだから心配すんなよ」
「あ、待ってミュゼ。手伝うわ」
「本当? ありがと。ジャスミンも疲れてるのに悪いね」
酒場のこれからを心配しているのは二人もなのだ。厨房へ歩いていったミュゼはジャスミンを伴い、すぐに包丁の音を響かせていた。
アクエリアはその間、指定位置の椅子に座って出来上がりを待っていた。さながら新婚の妻の料理に期待を寄せる夫の姿のようだ。
「フュンフ、汝も座れ。何時までも立っていられては配膳に困る」
「は、はっ!」
不愛想なディルの言葉に、フュンフは戸惑いながらも腰掛ける椅子を探す。アクエリアとは離れた場所に座るのは絶対にわざとだ。
男ばかり残った客席に、更に男達が到着する。アルカネットの後ろにヴァリンが付いて行く形になって階段を下りて来た。
「……もう揃ってんのか……お前ら早いな」
「お前が遅いんだよ。もう少し気合入れろアリィちゃん」
ひと眠りした後だというのに、アルカネットからは疲労感が消えていない。着替えた服の襟が歪んでいたり袖が伸びきっていなかったり、気怠さが見て取れる。
ヴァリンは着替えこそしていないが、その姿には疲労感も油断も見えない。他の面々のようにオリビエの件に関わっていないからでもあるが、佇まいは腐っても王子と言った所か。
「おはようございます、ヴァリンさん。眠れました?」
「眠れたには眠れたな。お前、部屋の上っ面は綺麗にしてたが棚の中酷かったぞ。脱いだ服だろうが丸めたままにしないでちゃんと伸ばしとけ」
「部屋使っていいとは言いましたが漁っていいなんて言ってませんよ」
ヴァリンは自分の部屋を割り当てられているものの、寝具の準備は一切していないのでアクエリアの部屋を借りて就寝した。その結果の家捜しにアクエリアは憤慨している。
ヴァリンもアルカネットも自分がいつも座っている椅子に腰かけ、男性陣の着席はそれで終わった。
「……揃ったな」
ディルは司令官然とした態度で、今着席している全員の顔触れを眺めた。
アルカネットは、ジャスミンとミュゼが着席していない事に目を丸くするが、横目で視線を向けたアクエリアが頷いているのを見て理解する。『これでいい』と。
「先んじて、昨日までの件についての労いを述べる。オリビエの件は――残念だった、と言う他無いが、此の場に居る全員の身体の無事は不幸中の幸いである」
今まで無気力を貫いていたディルが、かつて騎士だった頃の面影を取り戻す。
その場にいる全員が、粛々とマスターの声を聞いていた。彼が口にする言葉の全てが、全員に関係しているのだから。
「現状として、オルキデとマゼンタの両名が此の酒場を抜けた。二人が居ねば酒場として成り立たぬ故、酒場は全てが終わるまで当面の間休業とする。元より食糧事情に逼迫した者は居らず、道楽で来る客のみだ。休業について異論がある者は居るかえ?」
「ありません」
「無い」
アクエリアもアルカネットも同時に答えた。仕事に出た後、客の目を気にする生活が終わるなら願っても居ない事だ。
ヴァリンもフュンフも、酒場自体に深く関わっていないので返事はしない。
「同時、オルキデとマゼンタ両名に無期限の酒場来訪禁止。二度と訪れる事も無いと思うが、万が一入って来る姿を見たら退店を願え」
「了解」
「あの二人の顔を見ないで済むと思うと清々します」
二人のあまりに嫌われっぷりに、血縁は無いが縁者であるヴァリンが苦笑を浮かべた。オルキデはともかくとして、マゼンタの暴君振りは昨日目にした通りだ。援軍として加わった戦争の折に見せていた残虐さは、あの頃と変わっていない。ディルだってそれを知っていたから余計に、あの二人と深く関わる事はしなかった。
「急ぎで周知が必要な内容は、我からは以上。他に報告の有る者は居るか」
「では、次は俺が」
声を上げたのはアクエリアだった。
「あの姉妹が居なくなった事で厨房担当が居なくなった訳ですが、これからの食事どうします?」
「………」
「なお、今厨房で俺のミュゼが作ってるのは昼食として、夕食は俺が作るかって話をしています。食べたいなら買い物行かなきゃいけないので必要な人は今名乗り出てください」
「頼む」
「それじゃ、俺にも用意して貰おうか」
「ふん」
「はい男共は全員ですね」
フュンフは手を挙げなかったが、最初からフュンフを勘定に入れずに全員というアクエリアの根性はひねくれている。そして恋人への呼称に『俺の』を付ける辺り持ち前の独占欲が溢れ出ていた。
二人の関係は前から分かっていた面々は、同時にアクエリアがとても面倒臭い男ということも知っていたので敢えて言及はしない。
アクエリアの話は以上で終わる。早速夕食の献立を考え始めるアクエリアを余所に、次に席を立ち上がったのはヴァリン。
「昨日も言った通り、暫く俺は城に帰らん。ギルド副マスターの仕事も知った事か。俺の名前に於いて暫く新規の仕事も受け付けん。国外逃亡したいなら手伝うぞ、この国はもう駄目だ」
いきなりの爆弾発言に、アルカネットが目を剥いた。
「もうこの際だから言っておくと、俺の父である国王陛下は今危篤寸前だ」
「危篤?」
「先の戦争の後から長い事患っていてな。今すぐ死ぬ! ……って訳でもないが、もう年明けまで保つか分からない。これまで宮廷医師の一人であるリエラが薬を用意していたが、もうリエラもリエラ並みの腕を持つ医師も居ない。ジャスミンに薬を用立てて貰うことも俺は考えていたが、そうすると材料について追及されるだろう。そうなると、今度はジャスミンの身が危うい事になる」
「……賢明な判断だな」
「今上国王が崩御の危機、となると次期国王の話が出るな。……俺は、まぁ、あの戦争から『こう』なったから、随分前から次期国王は末の妹であるリト……アールリトに決まっているんだ」
アールリト。
その名前が出た時、ディルの眉が動いた。
国王陛下の子のうち、末の姫だけは後妻であるミリアルテアが産んだ姫だ。ディルは直接関わりこそ無かったが、ディルの妻は一時期末姫に直接仕えていた時がある。
城の中で顔を合わせると、仲が良さそうに話をしていた時を思い出す。まだ妻とも恋愛関係にこそ無かったが、既に確実に特別な感情を抱いていた頃。
郷愁に浸るのも悪くは無かったが、ディルはまだ他にするべき事がある。ヴァリンの話はまだ続いているのだ。
「国の実権は最早王妃殿下が御握りあそばされている。おまけに今は王妃の妹君たちが我が物顔で城に居るな? 大多数の騎士は良い顔をしていないが、それでも『鳥』はこれまでの忠誠心と騎士の矜持で城に仕えている。『風』の奴等なんて大半が胃痛を訴えている所にあの女共の襲来だ、居るのはたかだか二日三日程度なのにあの女共を好意的に思ってる奴等は少ない。これが長居するとなれば城内は床を血反吐が覆うぞ」
「……不満を抱いているのは『月』もだ。元から不平等や無駄な命令を嫌う者が多い『花』から異動になった者も多く、今の状況に面従腹背の者が多いな。私とて、今の王家や命令形態に納得している訳ではない。我々は王家に仕えていれど、実権を握る王妃殿下は余所から嫁いで来た身分。その殿下が国を良いように扱うのは、些か違うのではないかと思っている」
王妃殿下、の言葉に反応したのはアクエリアだった。
彼女が過去にアクエリアから離れて行った過去の恋人であるのは確実なものになった。顔を見ずとも、声と香りで分かる。王妃としては初対面でも、挙動不審になった時の態度も昔と同じだ。
あれほど再会を望んだ筈の相手なのに、いざそれが叶った時の胸中は不思議な程に凪いでいた。達成感も、感動もなく、あるのは今までの時間を無駄に使ったという徒労感。
これまで割いて来た二十年という月日は、自覚していたよりも恋人への愛情を削いでいた。
勿論、それは時間だけの手柄ではない。王妃と対面した時に、側に居てくれた人への想いも助けとなっている。
「王妃の話はもう聞きたくないですね。折角ミュゼが食事作ってくれてるのに、食欲削がれる話は御免ですよ」
アクエリアの尊大な物言いは、謁見の間での王妃とのやり取りを見ていた者には理解出来るのだが、その場に居なかったフュンフはそうではなかった。話の腰を折られて不快そうに眉を顰めて睨みつけるが、それも無視してアクエリアは澄ました顔をしている。
「じゃ、面倒臭いからその辺りにはなるべく触れないで話を続けるぞ。惚気は後でやれ。……と、まあそんな訳で、もうこの酒場に居たくないって奴は国外逃亡を視野に入れろ。他国への推薦状くらいは書いてやる」
「……そこで何で国外逃亡になる? なかなか大袈裟な話にならないか」
「城下で人殺しやってたお前みたいなやつを王家が逃がすと思ってるのか? 手配状なり撒かれてお前の人生そこで終わりだ。もう誤魔化しの死亡証明は効かんぞ」
ギルド副マスターの王子だけあって、その言葉には説得力しか無かった。大袈裟とまで言ったアルカネットの口が閉じられる。
それでヴァリンの伝えたい事も終わる。後は自分達で考えろ、と結んだ。
「……国外逃亡か」
ディルがぽつりと呟いた言葉に、全員が僅かに下を向いた。
今までも考えていなかった話ではない。考えて、結局この酒場に残ってしまった。それで今更、出て行くことを考えろと言われても。
「ヴァリン。最短何れ程で手筈が整う」
「あ? 整えろって言ったら国を出るまではフュンフの権力も使って一週間か。あくまで受け入れ先の同意が無いと難しいから、多少数日の誤差はあると思うが」
「では、其の向きで整えろ。希望者は直ぐに国外へ出られるよう――頼むぞ」
「……あ? ………ああ??」
頼む、の一言がディルの口から出て来た事に驚きを隠せないヴァリンは半開きの口が閉まらない。
ディルはそんなヴァリンを気にすることなく言葉を続ける。
「……此れからの方針だが、周知が必要な件が、あと一つある」
これ以上まだ何かあるのか、と身構えるギルドメンバー達。
ディルはそんな面々の顔を見渡しながら、言葉を選んでいた。
「先程、アールヴァリンは新規依頼を停止すると言った。其処に例外をひとつ設けようと考えている」
「例外……? 何だよ、例外が来たら依頼受けるってのか? 俺は絶対に嫌だからな」
「そうなる。ただ、他の者に受領させる心算は無い。受けるのは、我のみだ」
「は……?」
ディルの手は、腰の短剣に向かった。その柄を指で撫で上げながら、一晩の思考の末に出した結論を伝える。
短剣は妻の遺品だったもの。柄に掘られた名前の上で、指が何度も滑る。
「我が決定に不満が有る者は酒場を出て行って構わぬ」
賛同を得られなくても、本当に誰もが酒場を出て行っても、ディルは決意を揺るがせることは無い。
簡単に出した答えでは無かった。
「我は、此れからも王家の駒として剣を振るう」
静まり返った酒場で、誰ひとり否定も肯定も出来なかった。