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医務室で開かれていたのは扉だけではない。窓も全て開いていた。その医務室は出入り口の表札の名前が消えかけていて、今は誰も使っていない空室なのだと全員が悟る。
清潔が重視される筈の場所なのに少し埃っぽく、薬品が入っていたと思われる棚も空っぽだ。
ディル達が室内に入ると、病人用の寝台に座っているジャスミンの姿が見える。同時、その正面に少し離れて立っている上級騎士の姿も。
「ジャスミン!」
姿が見えると一番に駆け寄ったのはミュゼだった。声を掛けられた方もその声量に驚いて身を竦ませる。
不調は謁見の間から離れる事で少し良くなったようで、ジャスミンはミュゼに手を握られると笑顔を浮かべた。
「……ミュゼ。もう、終わったの?」
「………」
ジャスミンからの問いに、ミュゼは答えられなかった。他の者も。
だからそれが答えになってしまう。一様に暗い顔を浮かべていては、何が起きたか聞くまでもない。
「……酒場に、帰りたい」
謁見の間で刻み付けられた記憶は全てジャスミンを苛む。城からも早く離れたい願望が口から出た。
少し前までは、陰気で息苦しい場所だとしか思わなかった。なのにその酒場の居心地が恋しくなる程、王城での出来事が耐えられない。
賛成だ、と小声で漏らしたヴァリンも、小さく呟いて背を向けた。
「じゃあ、戻るぞ」
「戻るって……ヴァリンさん、貴方のおうちはここなんじゃ……?」
「こんな場所居られるか。王妃の妹達とやらが押しかけて来て、悪い居心地が更に悪くなりやがった。特にマゼンタは酷いな、今まで被ってた化けの皮剥いだ態度は畜生にも劣る。マゼンタいるなら俺は城に帰らんぞ」
ジャスミンの問いに饒舌に答えたヴァリンは腸が煮えくり返っているようだ。そこには、関わりの無かったオリビエについての感情は混ざっていない。
そうでないのは、続いたアルカネットだ。
「……俺も、流石にもうこんな場所に居られない。マゼンタも、フェヌも……もう、俺の知らない女だ」
ディルとヴァリンは、フェヌグリークが黙っていた意図を聞いてしまっている。でも、今言うのは憚られた。ここで言えば、アルカネットはフェヌグリークの身柄を取り返すために謁見の間に乗り込んでもおかしくなかったから。
「……歩いて帰るが、いいな?」
ヴァリンの問いかけには、全員が頷いた。城から歩いて帰るくらい、ここに留まる苦痛に比べれば。
城を去る判断は全員一致だ。その場に一人だけいた、ジャスミンをこの場所まで連れて来た上級騎士がその場で膝を付く。
「お戻りになられるのですね」
兜の下から聞こえた声は年若い男の者。返すヴァリンの声は気のない相槌。
「全く、お前も苦労するなフィヴィエル。あんな石頭の下に仕えるのが嫌になったらいつでも俺直属にしてやるよ。全く、固くするのは頭だけじゃなくて別の場所で充分だってのにな」
「ヴァリン」
「口の事だ。ミュゼ、何を想像した?」
ミュゼがヴァリンの口の軽さを諫めようとしたが、軽くやり込められて終わった。顔を赤くして湧く怒りに震えるが、少し気がまぎれた姿にアクエリアだけが安堵している。
フィヴィエルと呼ばれた騎士は、兜を取らずに頭を垂れた。
「お見送りは叶いませんが、道中の無事を祈っております」
「気にするな、お前達の心労に比べれば帰る間のことなんて屁でもない。せいぜい血を吐いて死なないようにするんだな」
「お気遣い、ありがとうございます」
ミュゼが二人のやり取りと、柔らかいジャスミンの表情に目を丸くする。
フィヴィエルの名を持つ騎士の話は聞いていた。以前、ジャスミンとユイルアルトが受けた仕事の護衛にヴァリンと付いた男の筈だ。だからジャスミンは落ち着けたのか、と理解する。
「……ありがとうございました、フィヴィエルさん。この場所まで連れて来てくださって」
「いいえ。……貴女にこそ、ここに来て欲しかった」
短い会話で別れを済ませる二人の間には、特別親密な気配は感じられない。
その場を城ごと去ろうとする酒場の面々の一番後ろについて、ジャスミンも部屋を出て行った。
「……託してよかったですよね、母上」
一人残ったフィヴィエルは小さな声で一言呟く。
医務室だったこの空室の表札には、消えかけて掠れた文字でリエラの名が書かれていた。
城を出るまでのヴァリンは傍若無人だった。
城の門番に「開けろ」「出せ」「閉めとけ」それで終わる命令。事情を聞こうとする者には一瞥で終わる。
それで何の問題もなく城を出られる酒場の面々だが、気分は最悪最低だ。身体は無事に怪我も無く出られたとはいえ、精神的には参っている。知り合いが目の前で死体にされたところまでしっかり見てしまったミュゼもアルカネットも、気を抜けばその場で座り込んでしまいそうだ。
「……これで全部終わり、って訳でもなさそうだよな」
十番街は夜になると灯りもついていて歩くのに不便はないが、外は既に暗闇に包まれていた。
アルカネットの呟きで、更に全員の気分が闇に沈む。オリビエの処分は別として、これから個々に処罰が通知されるのかと思うと気分が憂いて仕方ない。
結局、アルカネットがディルにやられた茶番も無駄になってしまった。ミュゼやジャスミンがオリビエに砕いた心も。それらを嘲笑う存在に、これからも使われる未来に納得できる神経はしていない。
城を抜けて城下の石畳に足を下ろすと、やっと普通に息が出来る心地になる。叶うならもう、今日だけは何もしたくない。
「何か言われても暫くは無視してりゃいい。口実が必要なら俺が用事を言いつける」
「……お前が言う用事って、嫌な予感がするんだよな」
「失礼な」
疲労困憊なアルカネットとヴァリンは、表面上だけ和やかな話をしていた。
ミュゼはまだジャスミンを心配して側についているが、その逆側にはアクエリアがミュゼについている。平然を装っているのは振り返りもせず先頭を歩いているディルだけだ。
そのディルが、足を止めた。
「………」
先頭が止まった事により、全員揃って歩みを止める。ディルの様子を窺うが、彼は微動だにしない。
けれど、ディルの視線の先を追うことで理由は直ぐに判明した。
暗闇を照らす灯りの中、目を凝らせば見えるその人影。
「……。は」
ヴァリンが軽く笑うように声を出した。その笑いも浅い。
「……フュンフ」
ディルの視線の先には、癖毛の茶髪を持つ眼帯の男がいたから。
その男を知っているミュゼもアクエリアも、同時に驚きの表情を浮かべた。城でその姿を見ないと思っていたら、そんな所で待っていたのか、と。
「ディル、様」
男――フュンフは、震える声で名を呼んだ。
ディルの拳が、強く握られる。今でも、彼を許せない怒りに耐えるかのように。
ミュゼやジャスミンは、二人が顔を合わせた所を見るのは初めてだ。だから、何が起きるか分からない状況に不安が隠せない。これ以上、血を見たくなかった。
「ま、マスター。頼むから、もう荒事は」
「ディルさん、嫌なら無視しましょう。こんな所で流血沙汰とか御免ですよ」
ミュゼとアクエリアが同時にディルを宥めにかかる。それでもディルの視線はフュンフから逸れる事は無い。
そんな三人を見ていたアルカネットとヴァリンは別の意見だった。
「ディル。もう、お前も目を逸らすなよ」
ヴァリンの声は煽るようでいて優しい。長い間、似たような傷を抱えて生きて来た仲間に向ける言葉。
「……俺の義兄を名乗るなら、もうちょっと大人になれよディル」
アルカネットの声は、少し照れているようだ。素直になれない反抗期のような言葉。
二人の言葉を聞いて、ミュゼもアクエリアも目を丸くしている。ディルはそんな言葉が通じる男という考えが無いから。
「……。ふん」
ディルの返答は短い。
「言われなくとも」
そうして手の力を解き、フュンフに向けて歩みだすディル。
フュンフはその姿を見て、石畳の上に膝を付いて頭を下げる。
「ディル様。私には、許しを乞うことすら許されないと理解しております」
「………」
ディルの足は、フュンフの目の前で止まった。
「この六年、後悔しなかった日はありません。貴方の右腕でありながら、貴方の想いに寄り添えなかった愚かな私は、この先も命ある限り悔い続けるでしょう。……許されないと分かっていながら、それでも、どうしても、貴方に伝えなければならないことが幾つもあります」
「……顔を上げよ」
フュンフの行為を、何があろうとディルはこの先も許す事が出来ない。
許されない本人だってそれは分かっている。
「我々は、疲れている。用向きがあるのならば、明日にでも酒場まで来い」
その言葉はディルとっては今出来る最大限の譲歩で、フュンフにとっては神からの啓示と同じくらい尊い命令だった。
六年もの間、二人の間にあった溝が埋まっていく。完全に埋まることは無くとも、浅くすることは今、出来た。
「っ……、は、い。はいっ! 必ず、必ずお伺いいたします!! この命に換えても、必ず!!」
「大袈裟だ、愚か者め」
ディルはそれきりいつもの態度だ。膝をついたまま泣き濡れるフュンフなど見もせずに、帰り道に向かって歩みを再開した。その場に残っている他の面々さえ置いたまま。
酒場の顔触れは、ディルが激昂して血を見る事にならずに本当に良かったと思って胸を撫で下ろしている。
「……本当によかった、本当に……」
「ジャスミン!? 駄目、まだ倒れないで!!」
精神疲労が頂点に達したジャスミンは笑顔で倒れそうになった。そこをすかさず庇ったミュゼ。
ディルが去った後でフュンフが立ち上がり、気の抜けたその集団の所まで歩み寄った。
アルカネットとヴァリンは、フュンフが寄って来た事でディルの背を追う。今は立ち止まるよりも、先にするべき対策があるから。
「疲労が過ぎたのなら孤児院へ寄って行け、椅子や寝台は用意できるし馬車も出そう。……君は、初めて見る顔だな?」
「……ありがとうございます。えっと」
「フュンフ、だ。あの酒場に所属しているのなら、私の名前くらい聞いた事があるだろう」
ジャスミンとフュンフの初対面は、特に問題も無く終わる。アクエリアは気まずさに視線を逸らすが、ミュゼは悪くない別れ方をしているため抵抗もなく接することが出来た。
「フュンフ様、お久し繰りです。すみませんが、ジャスミンの事宜しくお願いします。色々あって疲れてしまっているので」
「ミュゼか。構わん、身の安全は保証しよう。君も馬車に同乗しても良いのだが」
「私? 私は歩いて帰りますよ」
「また歩いて帰りたい気分なのかね?」
ミュゼは微笑を浮かべて、顔を逸らしていたアクエリアの腕に抱き着いた。
「ええ。恋人と」
「っ……ミュゼ!!」
「ほう。……ほうほう。君の男の趣味は再考の余地があると見受けるが」
「相変わらず失礼な人ですね貴方!!」
フュンフは事情を知らない。けれど、二人の仲は特別なものであるのを知っていた。噛みつくようなアクエリアの言葉も無視して、フュンフは慈愛篭る視線をミュゼに向けた。
「想い合う二人の仲を裂くのはもう二度と御免だ。君のしたいようにするといい」
「ありがとうございます。……でもねフュンフ様、私達だって馬鹿みたいにべたべたしながら帰る訳じゃないから」
「ほう?」
ミュゼの微笑は、すぐに苦痛を浮かべたものに変わる。
「……ジャスミンには聞かせらんないような、キツイ話があるんです。ジャスミンのこと、本当に、お願いしますね」
「……承った」
城に酒場の面々が呼び出された理由を、フュンフも知っていた。
だから深く聞かずに、短い言葉を返すだけ。
フュンフに連れられて孤児院へ向かうジャスミンの背を、ミュゼもアクエリアも見送ってから歩き出す。
その頃にはミュゼも抱き着いていた腕を解いて、苦痛と悲しみに歪む顔をしながら。