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――貴方じゃなくて、あのひとが生きていたら良かったのに。
マゼンタの言葉は、言われるまでも無くディルがずっと思っていた言葉だった。
『あの人』は、聞き返さなくても誰の事か分かる。ディルの為、と死地に残った彼の妻。
鈍い銀色の髪を持つ、混じりの血を引く快活な女。
「はーぁ。なんかもう、色々興醒めです。揃いも揃って馬鹿ばかり、身の程も弁えない阿呆ばかり」
オリビエの血が滴る腕を軽く掲げて流れる赤を眺めるマゼンタ。やがてそれを顔へ近付け、小さな舌が赤を舐め取る。
あまりに悪趣味な光景に、騎士達も慄いていた。
「うん、不健康じゃない人の血って悪くないですね。美味しくもないけど」
場面に似つかわしくないまでの笑顔を浮かべている悪鬼のような女と、酒場で接客していた女の印象が一致せずにアルカネットが強く目を閉じて顔を背けた。
視界での出来事の理解を放棄したアルカネットの耳に、誰かの溜息が聞こえるのもすぐだ。
「……あまりに醜悪な御遊戯、こちらも興醒めなんですけどね」
アルカネットが再び目を開くと、溜息の声の主が立ち上がっていた。
その人物は紫髪で、ヒューマンとは違う長い耳の形をしている。
腕には、金糸のような髪の持ち主を抱いて立たせていた。
「王妃殿下。俺はね、今まで、全部夢だったらいいって思った事が何回もありました。起きたら二十年前と変わらない日常があって、幸せで、穏やかな日々がずっと続けばいいって思ってました」
王妃の顔は、声の主であるアクエリアに向いていた。爪の先まで彩られた指が震えている。
「でも、もういいです」
アクエリアが、ミュゼを抱き締める腕に力を籠める。顔を顰める程の強さに身動ぎするミュゼだが、それさえ許さない程に更に力を入れていた。
痛い、と、声を漏らしても、力を緩める余裕はアクエリアには無かった。
「今が全部夢でも現実でも、俺は大事な人を守ると決めた。どんな目に遭っても傍に居てくれる恋人と添い遂げると決めた。俺はその大事な恋人のために、こんな気持ち悪い場所から先に失礼しますよ」
踵を返すアクエリア。
「俺だけ見てなさい、ミュゼ」
「……っ、アクエリア……」
口にするのは普通であれば気障ったらしい言葉だが、その場の醜悪さから避難する唯一の方法でもある。
立ち込める血の臭いは、アクエリアの言葉よりもあまりに鼻につく。ミュゼの手は今、自分の目を覆って涙を堪えるために使われていた。
「待ちなさい! そのような無礼が許されると――」
「いい」
引き留めようとしたカリオンに掛けられたのは、王妃の声。
「……止めずとも、いい」
「ですが、殿下……!」
「いい、のだ。もう、いいのだ」
止めるな、と言われればアクエリアを阻害できる者は居ない。
「――…御機嫌よう、王妃殿下。願わくば、二度とその御姿に拝謁する事叶いませんよう」
その言葉だけを残して、彼はミュゼを連れたまま、謁見の間を一番に出て行った。
次に立ち上がったのはアルカネット。彼に制止の声は掛からない。アクエリアの後を追うように、そのまま廊下へ姿を消す。もう、フェヌグリークの方を見もしない。
微動だにしていないのはディルとヴァリンだけだ。だから、その直後の嘆きを聞き届けてしまう。
「っ……ん、で。なんでっ……!? なんで、マゼンタさんっ!!」
吐いて、泣いて、酷い有様のフェヌグリークの声は慟哭だった。
「黙ってたら殺さないって言ったじゃない!! 何でオリビエさん殺したのっ!!」
「ええ? そんな事言いましたかね。確かに貴女は黙ってたけどぉ、ディルさんが黙ってなかったからですかねー?」
「……貴女には、心が無いの……!?」
「心? あはははっ!!」
フェヌグリークの声に、マゼンタは哄笑を止められない。まるでそれが聞き飽きたものだと、陳腐な台詞だとでも言いたそうに。
「そんなものあったら、真っ先にあんな酒場の店員辞めてますって。目に見えない不確かなものが、この国に住むひと達皆に備わってるって思ってたんですか?」
それはマゼンタの本心であるが、その場にいた者の総意ではない。
顔が見えるカリオンとエンダは、マゼンタの言葉に苛立ちを感じているように顔を顰めている。
相手と場所さえ許されていれば、二人の剣が女の形をした悪鬼に向いているのは間違いなかった。
ヴァリンは今の状態になって、漸く顔を上げた。もう、王妃の許しなど何の意味も持たない。
「王妃殿下、俺達もお暇を頂きたいのですが宜しいでしょうか。処罰対象への処分は下った。であれば、俺はこの場に居る意味が無い」
声は先程と変わらない、動揺など一欠片も滲ませない声。
王妃は答えなかった。ヴァリンは一礼だけを残して、そのまま廊下へ向かおうとする。
「――王妃殿下」
去り際のヴァリンの耳に、ディルの声が聞こえた。
「殿下に、一つだけ問う。此れは、殿下の指示かえ」
「………」
「此の惨状を。暴虐を。殿下は容認しているのかえ」
ヴァリンは足を止め、王妃は頭を抱えた。垂れ布を両手で抑えるようにしながら身を屈めている。その姿はまるで泣いているかのようで。
「……容認、などと。指示などと。私が何を言おうと、全ては私の理想の為だ」
震えた声で、王妃が続ける。
「理想の為に私は全てを捨てた。女としての幸福も、ただの一個人として生きる事も。人の生死を数として処理し、個々には目を向けぬ。此度の事とて、市井の者が一人死んだだけだ。命の在り様になど興味が無い。……そうだ、私はそうやってこの座所に居る。だというのに、何故」
普段の王妃であれば、そんな感情の揺らぎなど見せなかった筈だった。
王妃をこれ程容易く揺るがせられるのは一人だけ。
「――アクエリアが居るなんて、聞いてない……!!」
王妃にとって、その名を持つ男は特別だった。
かつて自ら捨て去って、けれど今の今までずっと大切な思い出のひとつとして秘めていた名前。
国が滅んだと聞いて、アクエリアの側に居るか、それとも復讐を叶えるかの二択が目の前に現れた時に、王妃は後者を選んだ。
アクエリアの側から去った恋人『ミリア』。それこそ、王妃だ。
王妃の狼狽ぶりに、マゼンタが動揺し始めた。それまでは独壇場だった筈なのに、自分のした事が王妃の動揺を招いていると感じたから。
「……全てが夢であれと私も望んだ! 夢だったら私だってこんなに苦しまなかった!! 幸せになれとは思ってたけど、幸せな姿を見せに来いなんて言っていない!!」
王妃の中で大事にしていた宝石箱が、手を滑り落ちて粉々に砕けてしまったかのような喪失感。
王妃の苦悶の声は、もうアクエリアには届かない。届いたとしても、きっと彼はもう気にも留めない。
あの頃と違う、こんな自分を見られたくなかった。王妃の動揺はそこから来ていて、収まりそうにない。
「夢じゃないから、同胞は、私の姉は、滅んだ国は戻らない!! 死んだ者は生き返らない! 誰を殺そうが過去には戻れない!! 醜悪な姿を誰に見られようと、誰の血が流れようと、私は今更後戻りなど出来ないっ!!」
綺麗な記憶も自分で穢した。愛した人の蔑視の視線も受けた。訣別の言葉さえ聞いた。
もう王妃には、それしか残っていなかった。
「……そうか」
王妃の嘆きに、ディルも立ち上がる。嘆きは耳障りという程ではなかったが、ディル達との強烈な差を思い知らされた。
王妃が背負うものが自分達と違うのは知っていた。けれど、その背にいるのはディル達ではない。
ディルが扉まで来る、それを待ってヴァリンが口を開いた。
「カリオン。エンダ。帰りにお前らの馬車は要らない。歩いて酒場に戻る。俺が暫く城に戻らなくても気にするなよ」
「……ヴァリン、それが許されると思ってんのか?」
「エンダ。今は俺は副隊長じゃない。アルセンの第一王子として話している」
肩越しに振り返るその視線に、あらん限りの殺意を詰め込んだ。
「酒場に戻る俺達の邪魔をするな。用はもうこれで済んだだろう、王妃の妹がわざわざ処罰対象を殺してくれたんだからな」
「………」
「……それにまさか、アクエリアの未練を義母上自ら断ち切ってくださるとは思いませんでした」
その嫌味は、アクエリアと接点があれば通じる話だ。今でも忘れられない恋人がいると、少し関われば本人なり第三者から聞く。
王妃と彼のやり取りは、二人が過去に親密だったと感じさせるのには充分で。
「それでは失礼します。義母上――いえ、王妃殿下」
王子として話していたヴァリンが、王妃を敬称で呼ぶ。
それは義理の親子の中を断絶したいという意思があるように聞こえて、再び王妃が深く頭を沈めた。
「なんだ、まだ残ってたのか」
謁見の間を出て元来た道を辿っていたディルとヴァリンは、最初の分岐で立ち止まっているアルカネットとアクエリア、ミュゼの三人を見つけた。
三人は来た道を辿ればいいだけで、そのまま帰れる筈だ。歩いた道すら忘れるような三人では無いというのがヴァリンの認識。
「ジャスミンが連れて行かれた先が分からないんだ。あの時連れてった騎士も居ない」
「……ああ、成程な? 確かに、ジャスミンだけ置いて帰れはしないもんな」
この胸糞悪い城に残っている理由は簡単だった。仲間内での結束は、皮肉にもオリビエの死とマゼンタの暴虐を通して強くなっているようだ。
それを単純に良い事として笑えないだけ、ヴァリンには良心が残っている。
「多分医務室にいるだろ。こっちだ」
「ちょっと待てヴァリン、本当に医務室にいるって保証はあるのか」
「ああ?」
歩き出したヴァリンの背に、アルカネットの疑問が追いすがる。
面倒そうに、しかし律義に答えるヴァリンの声は嘘を言っているように聞こえない。
「ほぼ間違いなくあっちにある医務室だよ。連れてったアイツがジャスミンを蔑ろにするとも思えんしな」
「連れてった奴って……あれが誰か分かるのか。皆同じような鎧と兜で顔なんて見えなかったが」
「上級騎士で近衛兵の末席に置かれた男が最近居たもんでな。あいつら、並ぶ順番もきっちり決まってるんだ。王子騎士である俺が、誰が何処に位置付くか知らないでおける訳も無い」
ふふん、と鼻を鳴らしてアルカネットに流し目を送るヴァリンの態度は鼻持ちならないものだ。けれど今回ばかりは憎まれ口を叩いてばかりではいられない。王城内部ではヴァリンの地位で、多少の無茶が利くのだから。
こっちだ、と先を歩くヴァリン。廊下には、騎士どころか下仕えの者の往来が無かった。
「静かだな」
ディルが漏らす。これ程までに人気の無い城を、ディルは知らない。
「だろうな。お前らが居なくなったあとの城は、大分様変わりしたから。誰も持ち場から動かんさ」
「様変わり?」
「時間厳守、一回の遅刻で懲罰房。上長への口答えは全面禁止。意見と横槍の違いは上長の匙加減。無駄口なんて、第三者が聞いていたら告げ口からの懲罰房。昔みたいな馬鹿騒ぎなんて完全に消滅したな。規律規律って、団長であるカリオンが煩くなったから」
「………」
「自分の団長在位期間に『花』の隊長が二人も死んだのがよっぽど堪えたんだな。あれからあいつは、自分のせいだってずっと責めてる。自分がもっとしっかりしていれば、誰も死ななくて済んだのかも知れない。確実に騎士全員が自分の命令を聞いて動くなら、自分で勝手な判断をしないだろう、だと」
「其れで部下を規律で絞め上げるか。……絞まるのは己の首であろうに」
「そうなった一因のお前の嫁に問題があるんだけどな? ……っと、あそこだ」
ヴァリンが進んだ廊下の先で、扉が開かれたままの部屋がある。
静かすぎる程静かな廊下に、五人分の足音だけが聞こえていた。