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「なん、で」


 ミュゼは今、自分が目にしているものが信じられないようだった。

 もう少しで逃がしてやれた筈のオリビエが、首を括られ暴行を受けた姿で連れて来られている。

 腫れた頬。痛々しい青痣のある足は、それまで着ていたシスター服の裾が裂かれている所から見えた。髪だってそれまで長くなかったのに、更に頭皮が見えるまで短くされた箇所もあり斑になっている。

 もう少し、耐えて貰えれば助けられた。なのに。


「嘘、だろ」


 この状態をアルカネットも予想していない。一般市民にそこまで非情な手段を取る者がいるなんて考えられなかった。

 オリビエは顔を少しだけ上げて、ギルドメンバー達に視線を送るがそれもすぐ下を向く。


「驚きましたよぉ。まさか死なせてないどころか匿ってるなんて思わないじゃないですか。本当、ディルさんともあろう人が今更心がある振りですか? 帝国の奴等、誰も彼もみーんな斬って捨ててた貴方だったじゃないですか」


 マゼンタは笑顔のまま、手の中の紐を強く引いた。オリビエはその力に負けて、無残に床に倒れ込んでしまう。

 立ち上がる気力も無い。横になってディル達を見るオリビエの瞳に、涙が浮かんでいる。

 全員が息を呑んだ。急ごしらえの計画が失敗に終わったのだ。


「まー、場所が場所だったからすぐバレちゃいましたね。詰めが甘いっていうんですよね、こういうの」

「……お前がやったのか……!」

「ええ? 別に、私だけじゃないけれど。アルカネットさんったらやだなぁ、もう。そんな顔してるから、彼女も疎遠になっちゃうんですよ?」


 アルカネットの怒りを嘲笑いながら、屈託のない笑顔でマゼンタが扉の向こうへと手招きをした。

 少し時間は掛かったが、覚束ない足取りで一人の女性が現れる。

 彼女には拘束も無いし傷も無い。

 けれど、ギルドメンバーの表情を再び凍り付かせるのに充分だった。


「――っあ」


 黒髪に、オリビエの着ているものと同じシスター服。

 小さい背に少女の気配を漂わせる若い女。

 いつも伸びている背が、今は少し丸まっている。

 その場にいる、事情を知らぬ者全員が目を疑った。だって、彼女はアルカネットを兄と慕っていた筈の女だったから。


「フェヌ、お前」


 フェヌグリーク。孤児院でシスターとして生きている筈の女だ。


「一緒に来てもらいました。ほらぁ、彼女も私達の『お仲間』なので、これから私達と行動を共にします」

「っは……!? おいフェヌ、お前、何でっ……!!」

「………」


 フェヌグリークは答えない。無言で下を向き、唇を噛んで何かを堪えている表情をする。

 マゼンタはそれを、手を叩いて笑って見ている。


「あっはは! まぁ、これからは私達がいるんで古い関係なんて捨てた方が良いですよねぇ。心残りなんて無くなるくらい、貴方達がフェヌグリークさんの信頼を裏切った事をしてたってのは事実なんですから」

「……お前もその一員だったろうが!!」

「一員だなんて失礼しちゃう。私達があんな辛気臭くて狭くて汚い酒場にいたのは、先代がいたからですよ。今の酒場に良い所なんて全然無い。私達、今日を持ちまして酒場の店員辞めさせていただきます」


 退職届を口頭で済ませたマゼンタは、自分の近くに来いとフェヌグリークに指で促す。

 それに大人しく従う顔色は悪い。


「……私達、と言ったか」


 ディルがその時になって漸く口を開く。


「であれば、オルキデも同意という事で良いのか」

「当然でしょ。私と姉様はもう酒場に帰りません。置いてある荷物、そのまま処分なり売りさばくなりご自由にどうぞ」


 ディルに対する不遜な態度は前からだ。先代を守り切れず死なせてしまった恨みも混じっている。

 マゼンタがフェヌグリークの肩に手を置いた。その動きにすら、小さい体が震えてしまう。


「……フェヌ。お前、何で何も言わないんだよ」

「…………」

「まさか、……お前が、オリビエの事を漏らしたんじゃないんだろうな」

「……」

「……お前!!」


 アルカネットは、失望と、怒りの混じった声でフェヌグリークを睨む。

 しかしフェヌグリークは、隣に居るマゼンタとは対照的に消え入りたいとでも思っているような表情だ。不遜とはかけ離れた、悲し気な表情。

 アルカネットの言葉に否定も肯定もしない。ミュゼが咄嗟に、今にも立ち上がりそうなアルカネットを制する。


「ん、な、訳、ないだろ。だって、これまで他の事、何も、話してない筈だよ? ……ねぇ、ですよ……ね、シスター・フェヌグリーク……?」


 ミュゼの目すら、動揺で半信半疑なのが隠せない。

 だって、あからさまに露見するのが早すぎる。どうして王家の人物たちがオリビエの生存情報を知り得たのか、単純に考えてしまえばフェヌグリークが漏らしたとするのが一番想像しやすい。

 ミュゼとの別れ際のフェヌグリークは怒っていた。早く帰れと言っていた。だからどうしても、オリビエを庇いたくなかったフェヌグリークの心情を考えてしまう。


「………お願い」


 信頼を、希望を、裏切られたとしたら。


「違うって言ってくれよ!!」


 ミュゼの悲痛な声に、騎士もマゼンタも、王妃も反応しない。

 アルカネットは俯いて、拳を握りしめた。


「……もういい」

「っ……」

「フェヌ。俺は、お前を信じたかった。……でも、何も言わないんだな」


 フェヌグリークの瞳には涙が溜まっている。

 でも、フェヌグリークだって否定したかった。

 目の前、集団で、オリビエを殴られ蹴られ。

 そんな光景でも笑顔のマゼンタに。


 『一言でも何かあの人達に言ったら、その場でオリビエさん殺しちゃいますね』


 などと、言われなければ。


 自分への軽蔑や怒りの視線は痛い。けれど、オリビエが殺される時、彼女はもっと痛い思いをするだろう。

 だからフェヌグリークは何も言わない。言えない。自分が非難を浴びる事で助かる命があるならそっちの方がいいと考えてしまう。

 善の思いで自警団を目指した兄を持つ、アルカネットの妹として。


「無駄ですよー。もうフェヌグリークさんはこっち側。貴方達の声なんて蚊の羽音程度にしか聞こえません」


 嘲りを口にするマゼンタの顔が、ギルドメンバー達に向いている。

 フェヌグリークはその時を身逃さず、声を出さずに口を開く。


 『ちがう』

 『たすけて』


 今出来る最後の意地にして、唯一の救援要請。

 その唇の動きを読み取れたのは、ディルとヴァリン、そしてミュゼだけだったが。


「……その手を離せ、マゼンタ」


 ディルがいつもと変わらない声で命令する。それを聞き取ったマゼンタは嘲笑を浮かべたままの顔で首を竦めた。


「命令ですか、ディルさん。酒場を離れたこの私に?」

「酒場を離れていようがいまいが、我の言う事に変わりはない。フェヌグリークとオリビエは、貴様が触れて良い者共ではない」

「はぁ? ちょっと、それ笑えない冗談ですね。前からディルさんって冗談下手だったけど、それ逆にイラってするから止めてください」

「冗談などではない」


 ディルの声は冷静に、静かに。


「薄汚れた手で触れるなと言っているのだ」


 過去、妻に愛されたテノールでマゼンタを侮辱する。


「っ………は」

「吐き気のする話題しか選べぬ口を慎め。貴様の声は蚊の羽音にも増して耳障りだ」

「………薄汚れたって、……耳障りって。……なに……? 私の、こと?」

「貴様以外に何処に居る。我が話を向ける相手を急に変えたとでも考えたか。プロフェス・ヒュムネとは大仰な名の木偶だったか、目や耳と思っていたそれは木の(うろ)だとはな」


 その侮辱に激昂したのはマゼンタだけではない。王妃も見えない表情を歪ませている。けれどその怒りはマゼンタに及ばなかった。

 それまでの嘲笑を一変させ、怒りで満ちた顔がディルを見据える。吊り上げた目元は、これまで酒場の店員のひとりとして皆に接していたものとかけ離れていた。


「……そんなに殺されたいんですか、ディルさん。死を恐れないとは流石元騎士隊長様ですね?」

「木偶如きが我を殺せるか試すか? 指南代は命となるが」

「――っあはは」


 マゼンタにとって、それは耐えきれない程の怒りだった。今すぐにそのすました顔を引き裂いて血の海を作り上げたい。先代が愛した白銀の髪を赤黒く染め上げたい。思考は勝手にそう願い出すが、マゼンタは思考と別の行動が出来る程度には狡猾だった。


「誰が『貴方』を殺すって言いました?」


 その瞬間だった。


 一瞬で、袖さえ裂け目が入る程の太い樹の枝に変貌したマゼンタの腕。

 それまで手に握っていた紐は同時に高く引き上げられる。

 が、と声を漏らすオリビエ。


 それが振り上げられ、振り下ろされた時。

 ぱん。

 と、音が謁見の間に響いた。


「っあ」

「――」

「見るなミュゼ!!」


 弾け飛んだ赤色。

 オリビエの頭部が、マゼンタの腕に殴られて吹き飛んだ。

 赤く熟れた果実が地に落ちて、無残に実を飛び散らせたような光景。

 ヴァリンのすぐ近くまで、血に混じった肉が散り落ちた。ぐちゃり、と、聞くに堪えない音がする。

 頭部を失った胴は、そのまま床に落ちた。まだびくびくと手足が痙攣しているが、もう命が失われた後だというのは明白で。


「っ、ぅあ」


 ミュゼはその光景に、スカイの事を思い出していた。死なせてしまったプロフェス・ヒュムネ。守りたかった筈の人物。

 見るなと身を屈めてミュゼを胸に抱き寄せたアクエリアの動きは間に合わなかった。強く頭を抱きかかえながら、かつて味わった無力感を思い起こさせる光景から目を逸らす。

 アルカネットは、知人が知人を殺す光景から目を背ける事すら出来なかった。脳がその視界を理解するのを拒否して、ただ呆然としている。


「っ……あは。あははっ。死んじゃった。死んじゃいました」


 血に塗れた腕を振り、血を飛ばす。その赤色がフェヌグリークの頬について、耐えきれずその場に蹲る。

 うえ、げえ、と嘔気を催すフェヌグリーク。けれど、誰も動けない。


「貴方のせいですよ、ディルさん。貴方って、いつもそう。誰かを守ろうとするのは素振りだけで、結局誰も守れない。死体を目の前にして呆然としてる姿がそこまで似合うのも、貴方くらいです」


 ディルさえ、言葉を失った。


「貴方じゃなくて、あのひとが生きていたら良かったのに」



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