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謁見の間というものをアルカネットもミュゼもアクエリアも、今まで一度として見た事が無い。
話にだけは聞いていた、この国で一般市民が見る事が出来る一番尊き場所だという知識程度しかなかった。
赤い絨毯が通路として敷かれた広間で、絨毯の両側を騎士が二列に並んで向かい合っている。全身を銀色の鎧で覆った近衛兵は、客が足を踏み入れても微動だにしない。
絨毯の向こう側にある石造りの階段の向こうで、高い位置に豪奢な椅子が二つ並んでいる。
ディル達から向かって左側は空席、右側は女性が座っている。いつものように顔を垂れ布で隠した、この国の王妃だ。
煌びやかであり、同時にどこか薄ら寒い光景はジャスミンが覚えているそのままだ。震える足を一歩ずつ進めれば、あの日の恐怖が蘇って来る。
「遅かったな?」
段の一番下には、ヴァリンが立っていた。普段のギルド副マスターとしての陰気な格好ではなく、身繕いも騎士のもの。
振り返って今到着した面々の表情を見ては、苦笑いのような曖昧な笑みを浮かべている。女性二人が顔色を青くした状態では、流石に不安になるらしい。
それでもヴァリンはこの件に関してほぼ無関係だというのに、巻き込まれたことに対する苦情を撒き散らさないだけ理性はあった。
「……?」
アクエリアがミュゼを連れて歩を進めながら、数度鼻を鳴らした。
まるで何か香りを感じ取ったようだ。くんくん、と空気に漂う何かを感じ取ろうとしている。
「………寄り道はしてないぞ」
アルカネットは小声で、ヴァリンに対する憎まれ口を叩いた。
ジャスミンもミュゼも、もう口を開く気力が残っていない。よたよたと皆に付いて行くだけしか出来ない中、連行に同行していた騎士が近衛兵の列に並ぶ。カリオンとエンダは段差の下で振り返り、騎士として堂々とした立ち姿を見せている。
ギルドメンバーは、先頭にヴァリンを据えて二歩後ろに横並びになった。
「王妃殿下、『j'a dore』総員六名揃いまして御座います」
口上を述べたのはヴァリンだ。そしてそのまま、その場に片膝をつく。
ほぼ同じ拍子でディルが膝を付いた。ジャスミンは焦ったように身を屈め、アルカネットがそれにつられて膝を付く。
ミュゼも膝を付こうとした。けれど、アクエリアが膝を付かない。え、と、ミュゼの口から声が漏れた。
「…………」
ミュゼにはその沈黙が、意味のあるもののような気がした。
否、確実に意味があった。
だって、アクエリアは玉座に腰を下ろす王妃から目を逸らさない。呆然とした瞳で、中途半端に開かれた唇が何か言葉を象ろうとしている。
「膝を付け」
ディルの声で漸く我に返ったアクエリア。ミュゼの手を離さないまま、その場に膝を付いて頭を垂れた。
流石にこの場所で手を繋いだままなのは気まずくて、ミュゼが自ら離すまでそのままだった。
「…………」
王妃は、未だ無言だった。
頭を垂れた者達には、王妃が見ている先に気付かない。
垂れ布の下、視線の向く先を分からせないようにしている瞳が潤んでいる事にも。そして、その視線の先には紫髪の男がいる事にも。
「……ご苦労、だったな」
王妃の声は、充分すぎる程の沈黙の後に聞こえた。
声は、聞き慣れている者しか震えている事に気づけないだろう。
耳に感じる違和に、ヴァリンやディル、騎士達も皆眉を顰めた。
「……此度、の。……暁、からの命令に背いた事。私の耳にも届いている。反逆の、意思があるとも思えぬが、事が事だ。……何ぞ、申し開きがあるならば聞こうと……思うてな」
言葉が明らかに詰まっている。ジャスミンも、聞いたのは一度限りであるが王妃の口調を忘れる筈も無い。
全員の胸に違和が駆け巡るが、それを今口に出来る者はいない。
「畏れながら、殿下」
敢えてそこには触れずに、ヴァリンが口を開く。
「前以て報告していた通り、今回の件は暁が人形を使った事による窃盗が発端となっています。我等『j'a dore』に何かしらの制裁を下されるというのでしたら、暁にも相応の処罰を検討していただかなければ我等としても納得がいかないのですが」
「……暁の処罰は勿論考えている。だが、それとこれとは別問題だ。暁の件と、其方等が命令に反した事を処理する領域はそれぞれ違う。現に、暁は処罰内容が決定するまで自室に謹慎と命令を下している」
「謹慎と言った所で、暁が自省する男だとも思えません」
頭を垂れたままの第一王子と、継母である王妃。
二人の声には親密さは感じられない。
「……俺がディルの立場でしたら、暁の仕業であることが発覚した瞬間にあの悪趣味野郎の首を刎ねていたでしょう。そうしなかったディルの理性を鑑みることなく、処罰を下そうとしているのであれば俺だって大人しくしていません」
ヴァリンの声には、間違いなく敵意があった。同じ家系に所属する者同士でありながら、その敵意は今は一方的。
大人しくしていない、の言葉に重ねたのはヴァリンの愛した亡き女の姿だ。彼女が死んでいるからこそ、ヴァリンはディルの気持ちが分かる。
そっとしておいてほしい。
何故、それが誰も分からない。
否、分からない振りをしているのかも知れない。この国は恐ろしい程、ディルに優しくない。
「……大人しくしていなかったら、何だと言うのだ」
ヴァリンの静かな怒り程度で処罰内容を軽くするような王妃でもない。見えない筈の瞳が、ヴァリンをきつく睨んでいる。
空気は重苦しくなるばかりだ。最初から軽快で快い雰囲気でなかった上、時間が経つにつれ更に重さを増して体に圧し掛かる空気に再びジャスミンが吐き気を催した。
これ以上はジャスミンが耐えきれない。そうアルカネットが判断し、僅かに顔を上げて近くの騎士に視線を送る。
だが騎士も、アルカネットの視線に気付いていながら動かなかった。
動けなかった。
この場で優先されるのは、ギルドメンバーの体調ではなかったから。
「――少し、良いですか?」
限界が近付いていた時、義理の親子の話に割って入るように声を上げた男がいた。
「ここにいるジャスミンさんが、体調を崩してしまいました。話は手短にお願いしたいのですが、無理なら彼女だけでも別室に連れて行って欲しいんです」
アクエリアだ。
彼は平然とした表情で、同時にいつも以上に気怠げな声で発言している。まるで、この場所が何処で謁見相手が誰かも分かっていないような雰囲気で。
カリオンが無礼に眉を顰め、エンダがその胆力に目を細めた。
王妃はアクエリアの言葉に、先程ヴァリンに聞かせたような棘のある声を出せなくなってしまった。
「…………。……あ」
やっと声が出た時には、ジャスミンの意識が途切れる寸前で。
「………許可を、……出そう。誰ぞ、医務室まで……運んでやれ」
その言葉で、騎士の一人がやっと動けた。一番手前に居た騎士が、王妃の指示と共に小走りで駆け寄る。アルカネットはそれでジャスミンを支える手を解き、二人が謁見の間を出て行く姿を見送る。
こんな状況に於いても、ディルもヴァリンも視線を向けはしなかった。流石、片方に元が付くとはいえ騎士だ。仕える先に対する態度を変えもしない。起こったのが自分達の仲間に起きた問題だとしても。
アクエリアはアクエリアで、自分の願いが聞き届けられると頭を更に下げて礼を言った。
「聞き届けて下さりありがとうございます」
「……この程度、構わぬ」
「そうですか。……そうでしょうね。貴女にとっては『この程度』でも、俺にとっては大問題なんです」
許されてもいないのに、その時アクエリアが頭を上げた。
それだけでも充分な非礼だ。騎士達の間に緊張が走るが、それさえ構わずに続ける。
「……この国で最も崇高なお方、アルセン国国王。その王妃殿下。無礼を承知で申し上げます。御尊名をお聞かせ願えませんか」
「………、……聞いて、どうする」
「俺は殿下をお呼びする為の御尊名を存じ上げません。では、勝手にお呼びしても構いませんか」
アクエリアの隣にいるミュゼが震えている。まるで、王妃の名前を知っているかのように。
そして、その名を持つ者がアクエリアにとっての『何』なのかまでを知っているかのように。
「『ミリア殿下』。……ねぇ、もし違うというのなら、無知な俺にその名を聞かせてくださいよ」
「貴様、殿下にそのような無礼が許されると思っているのか!!」
「少し黙ってろヒューマン」
声を荒げたカリオンに、低く地を這うようなアクエリアの声が返される。
「俺はその殿下と話している。……貴様から燃やされたいか」
それまで表向きだけでも紳士的に接していたアクエリアの変貌。けれどそれで怯んでいるようでは、騎士団長などやっていられない。抜剣したカリオンが、睨みながらアクエリアに切っ先を向けた。
「処罰の先陣を立候補か。エルフは理知的という話を聞いていたが、例外も居たらしい」
「ヒューマンは馬鹿ばかりと知っていたが、力量差を弁えない程の愚か者も居たとはな。遺書書く時間くらい待っててやるぞ」
挑発するような言葉を並べ、アクエリアが許可など聞かずにその場に立ち上がる。唇には趣味の悪い笑みを浮かべて、カリオンを小馬鹿にするように見ている。
一触即発の空気。だが、誰も止める者は居なかった。もし誰かが止めようとしても、それが王妃でなければ止まらなかっただろう。
「あっれー? なーんか変な空気。何してるんですかー?」
その時場違いなまでに明るい声が聞こえなければ、謁見の間にはどちらかの血が飛び散っていたかも知れない。
その場にいた全員が、声の方に視線を向ける。現れたのは、紫の着物を着た女の姿だ。
「あ、皆到着したのね。……一人足りないみたいだけど、ジャスミンさんどうしたんです? まさかもう処罰されちゃった?」
ギルドメンバーであれば全員知っている顔だ。今この場に居る騎士も、その女の身分は理解している。
笑顔のマゼンタは、手に荒縄のような紐を持って王家の者しか通れない通路に続く扉から現れた。
「あは。皆怖い顔! まぁ仕方ないわよね、こんな状況ですもん」
マゼンタが手の紐を引っ張る。足取り重く、つんのめるようにしながらまた一人の女が姿を現した。
ぐぎ、と痛みを堪えるような苦痛に満ちた声を発しながら現れたのは。
「――な」
「っ、あ」
アルカネットとミュゼが愕然として声を漏らす。
それは首に紐を巻かれ、暴行を受けたように顔を腫らした、オリビエだった。