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「――っあ」


 フェヌグリークの表情から血の気が引いた。

 なんで、今。貴女が来るの。

 喉から出かけた驚きの声を、たった一語漏らして唇を噤んだ。このまま、マゼンタがオリビエに気付かれないようにしなければならない。


 酒場を隠れ蓑にしているギルドをよく知っているマゼンタだ。

 彼女の処分命令が出ていることも、きっと耳に入っている。


「お茶を出すよう言われたので、持って来ました」


 オリビエもまだ寝ていた筈だ。フェヌグリークは呼ばれたから起きて来ただけで、疲労困憊だった筈だ。なのに起きているという事は、あの後目を覚ましてしまったのか。

 不格好に身に付けた慣れない頭巾で目元が隠れていて、僅かに飛び出ている髪の毛さえ覚えていなければオリビエだとバレないだろう。二人の前に茶を出したオリビエが誰か気付かない様子で、彼女は笑顔で礼を言う。


「ありがとうございます。こんな所で頂けるなんて思いませんでした」


 マゼンタは笑顔だ。茶が運ばれて来た事で、上げかけた腰を再び下ろす。

 今すぐ帰って。でなければこのまま気付かないで。とフェヌグリークが無言のまま願った。

 でもオリビエだって気付いていない。二人の接点があるのかどうかをフェヌグリークは知らないが、このまま二人とも何にも気付かず出て行って欲しいと願う。

 座り直したマゼンタは、出された紅茶に手を伸ばした。カップを鼻先まで近づけて、その香りを堪能する。


「折角ですからお茶、頂きますね」

「……どうぞ」


 マゼンタは笑顔だ。


「良い匂い。馬車に乗って王城からココまで来たのに収穫無しかって思ってたから、嬉しいです」

「そうなんですね。お疲れ様です」

「本当、良い匂い。うふふっ」


 笑顔のままだが口は付けない。くん、と鼻を鳴らしながらフェヌグリークの様子を窺っているようだった。

 気が気でないフェヌグリークは視線が泳いでいる。自然体を繕わねばならない状況だが、意識しすぎて指先が震えている。


「そうそう、御存知ですかフェヌグリークさん? 十番街にも孤児院があるんですけど、そこ王立だから環境物凄く良いらしいんですよ。施設長は気難しいんですが、からかって遊ぶと意外と面白くてですね」

「……私とは関係ありません」

「そうでしょうか? いつか関係してくるかも知れませんよー? だって貴賤あっても同じ孤児院ですし」

「……この場所が卑しいって言いたいんですか」

「んー」


 飲む気配がないのに、マゼンタはカップを下ろさない。フェヌグリークに向かってにやにやと、馬鹿にするような視線と言葉を投げかけながら。


「親の居ない子供ってだけでもう卑しくないですか? 赤の他人からの施しがないと生きられないじゃないですか」

「……っ!?」

「成長しさえすれば生産性もあるんでしょうけどねぇ。私だったら知らない子供の世話とか絶対無理」


 その言葉で全身の血が燃え上がるような怒りを感じた。

 フェヌグリークだって孤児だ。アルカネットも孤児だった。けれど救いの手が差し伸べられて生きて来れた事に感謝こそすれ、そんな風に馬鹿にされる謂れは無い。

 今孤児院にいる子供達は、皆弟や妹のような気がしていた。親がいない分、自分達が育てることで生まれて来たことに誇りを持てるようにしてきたつもりだった。

 それを、子供達の事を何も知らない他人に卑しいと言われることが我慢ならない。


「お引き取り下さい」

「えー、まだ紅茶飲んでないんですけど」

「卑しい孤児院の紅茶など、貴女に飲ませられません。香りは堪能なさったでしょう、出て行ってください」

「出ていけって言われるでもなく、用事が済んだら私だって出て行く気でしたよ」

「だったら早く――」

「出て行ってください」


 フェヌグリークの言葉を制するように、オリビエの口が開かれた。


「……。へぇ」

「出て行ってください。この孤児院にもう来ないでください」

「急かさないでくださいよ、もう」


 自分が出て行けと言っている相手がどんな存在か、分かっていない筈なのに語気を強めるオリビエ。

 マゼンタは彼女に視線を向けて、笑みを柔らかいものに変えた。


「まぁ、今回のお伺いは任意でしたからその意志は尊重しましょう。あーあ、残念でした。……って、それだけ伝えれば良い、それで終わりだった筈だったんですけどね」


 マゼンタの態度に憤慨しながら、外へ彼女を追い出す為に扉を開けたオリビエ。

 怒りを滲ませながらも、オリビエの身を案じているフェヌグリーク。

 余裕ぶっているマゼンタは。


「それで、どうして此処に死んだはずのオリビエさんがいるんですかね?」


 その言葉も、笑顔で言い切った。


「え」


 状況を把握できていないオリビエが、動揺に満ちた声を漏らした。


「斬られたって聞いた割には動けてますねぇ。ディルさんが川に落としたんでしたっけ? あの人が殺せる人を殺せなかったなんて話も聞いた事ないですしぃ?」


 カップを持った手は動かない。

 張り付いた笑顔は剥がれない。

 なのに音が聞こえた。それは耳に小さく届く、木々の葉擦れの音のようだった。

 僅かに聞こえるだけだった葉擦れの音は、やがて室内の静寂を切り裂く程に大きな音へと変わっていく。


「この先は任意じゃなくなります」


 マゼンタの足先が、靴を残して変化していた。

 先程まで白かった肌が今は茶色になり、樹皮のようにざらついた肌を晒す足がみるみるうちに肥大化していく。根のように枝分かれし始めるそれが床に着くとカップから手を離し、それはそのまま床に落ちて割れる。

 木の根に代わってしまった足がカップと紅茶を踏み締めた。


「お二人とも。城まで、来て頂けますね?」


 有無を言わさぬ紫眼の異形が、二人に向けて問い掛ける。

 オリビエが、その人物こそ酒場で給仕していたマゼンタだと、気付いたのはその時だった。




 その命令を酒場の面々が聞いた時、五番街は既に夕暮れに包まれていた。


 『処分を下した人物の故意の隠匿について責任を問う。j'a dore所属のギルド員全員城まで出頭せよ』


 書状一枚に書かれていたその文面を読み上げた声に、ディルは眉根を寄せた。

 先程全員起きてきて、ディルはフュンフに向けて一通の手紙を書き終えた所だった。

 アルカネットに渡して届けさせ、フュンフが承諾すればオリビエの身柄は国外へ送られる。その筈だった。

 露見するのが早すぎる。ミュゼもアルカネットも、こんなに事態が早く最悪の方向へ動くなんて思っていない。ジャスミンは話を聞いた途端、顔を真っ青にして震えて泣いていた。

 アクエリアだけが、冷静に全員の姿を腕を組んで見ている。


「――……と、いう訳だから……全員、大人しく従って欲しい」


 書状を元あったように丸めて、無作法に自分の肩を叩いていた男が全員の顔を見渡した。

 黒髪で、騎士にのみ着用が許されている隊服を着ている。色は緑、いつかにヴァリンが着ていたものと同じだ。白と深緑の生地で仕立てられたその服は、ヴァリンのように金の縁取りがある訳ではない。留め具に使われている紐は、肩から膝裏までを纏うマントと同じ深緑。

 黒髪の男だ。背はディルよりもやや低い。しかし彼より年上であろう男の顔には、薄く皺が刻まれている。


「アールヴァリンは。あの者もギルド員である筈だが」

「あいつは城で身柄を確保されてるよ。ま、王子だから拘束って訳にもいかないからいつもの調子でいるんじゃないか」

「ふん」


 鼻を鳴らしたディル。

 王子を『あいつ』と呼べるこの騎士の男に、これまでギルドメンバーは心当たりが無かった。

 それでも、これまでギルドと関わった中で検討はついている。緑色を纏った男で、そんな軽口が許されている人物となると予想できるのは一人だけだ。


「しかし……。この酒場に久し振りに来た理由がコレなんて、夢であって欲しいんだがな……」

「夢であるなら六年前から全て夢であれば良い。此の件だけが夢だなどと、些か都合が良すぎるな」


 自分の口から出た言葉なのに、まるで自分に言い聞かせるかのように一拍置いて、ディルが再び口を開く。


「エンダ。そのような戯言を、今更聞くことになるとは思わなかった」

「……言うなよ」


 エンダ、という名を聞いて、その場に集合していたギルドメンバー全員が納得する。

 騎士隊『風』隊長、エンダ・リーフィオット。

 アールヴァリンの直属の上司にして、三人になってしまった隊長格の一人だ。ディルが騎士隊長をしていた頃、同僚として戦場を駆けた

 二人の仲が如何程のものか、この場にいる者達は知らない。けれど、エンダが俯いてディルに接している所を見るに、力関係に絶対の差がある訳ではないらしい。


「……言うな。外に、馬車を待たせてある。大人数になるから、乗り心地はあまり良くないかも知れないが……文句は言ってくれるなよ」


 エンダと共に入って来ていた上級騎士らしき全身鎧の三名が、やや急かすように全員を外へ追い立てた。

 酒場の鍵を閉めるのはディルの役目。酒場が完全に無人になるのは、本当に久し振りの事だ。そうして馬車に向き直ったディルの目の前に、中で全員が外に出て来るのを待っていたらしい人物が現れる。


「――」


 ディルが言葉を失った。

 エンダと同じ黒髪だが、空気を取り込むように整えている彼とは違い、天然のものなのか毛先が四方を向く柔らかな短髪。

 着ているのはエンダと似た騎士服だが、こちらは色が橙色。そして胸元に揺れるのは、宝石の付いた白の羽飾り。


「久し振りだね」


 カリオン・コトフォール。

 騎士隊『鳥』の隊長にして、国に所属する騎士全ての長。

 かつては温和な瞳で民や部下を見ていた濃い藍色の瞳が、輝き少なくディルを見ている。


「……カリオン」

「今回、御者はエンダが務めるよ。私と部下達は、君達を抵抗なく城まで連れて行かなければならないから見張りだね。拘束もしたくないから、大人しくしていてくれ」


 温和でも、声は明るかったカリオン。今はもう暗く沈んだ音色しか聞こえない。

 浮かべている微笑さえも、どこか影が差していた。


「それじゃ、順番に乗ってくれ。一番奥はディルからな。扉壊して逃げられても困るからよ」


 エンダがそう告げると、カリオンが促してディルが乗る。次はアルカネット、次はミュゼ。

 そうして全員乗り込んだ後に、馬車が動き出した。



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