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馬車の中で、マゼンタは鼻歌を歌っていた。
小さい頃にマゼンタを世話していた、プロフェス・ヒュムネの老婆から教わった曲だ。
マゼンタの幼い頃の記憶を辿れば、いつだって教育係である同族の老婆が居た。
その老婆はいつだって、マゼンタに厳しかった。元々、次期女王として生きて行く筈だったマゼンタの教育係に任命されていた老婆は、国が滅んでからも復興の未来を夢見てマゼンタに様々な事を教えた。その教育が歪んでいたことに、誰もが気付いていた。
歪んだ教育は老婆だけから受けた訳ではない。帝国にもアルセンにも恨みを抱いていたプロフェス・ヒュムネの者達は、皆胸にどす黒い感情を抱いてマゼンタに接していた。
オルキデは、ファルビィティス王家の者としては比較的自由に生きられた。
正しくは、興味が無かったのだろう。プロフェス・ヒュムネの意思は『復興』と『次期女王』に向いていた。
冷遇されていた訳ではない。それでも、『次期女王だった者』とそうでない者の違いは其処に出た。
オルキデに許されたことが、マゼンタには許されなかった。
マゼンタに強要されたことが、オルキデには自由意思を与えられた。
格差があっても、マゼンタはオルキデを姉と慕った。オルキデはマゼンタを不憫だと思っていたが、それでも妹として大事にしていた。
王妃は二人の妹の扱いの差を目の当たりにして、二人に分け隔てなく接しながらも、その格差を取り払うことが出来なかった。
オルキデは自分で外の世界に触れる機会が幾らでもあった。
外の世界と自分達の同胞の意思とで、価値観の擦り合わせが出来たのは幸運だったのかも知れない。
けれど、それで自分の姉妹と見えない壁が出来てしまったのは不幸だ。
『諦めろ。我等が我等である以上、もう憎しみからは逃れられん』
王妃は、少女だった頃のオルキデに告げた。
『もし我等を憎しみから解き放つ存在があるとするのなら。我等を呑み込んで灰にする炎か、我等を死に至らしめる程長い時間か、憎しみを受け止めて消し去る程の人物の包容力か。それが無ければ、復興を悲願とする同族の歩みは止まらぬだろうよ』
王妃が示した三つを、オルキデは今でも手に入れる事が出来ない。
手に入らないままだから、マゼンタは鼻歌を歌いながら、馬車に乗って王妃の使いに向かっている。
御者が馬車を進ませた場所は、五番街の外れにある孤児院だ。
降り立った靴底は王城やその近辺と違い、土そのものを踏んでいる。砂利さえも引かれていない地面で靴の爪先も汚れるが、マゼンタは嫌な顔だけして建物へと近寄る。
服こそ故郷の着物だが、靴は元から持っていた物だ。薄汚れた陰気な酒場で働いていた時と同じ、飾り気の無い足首までを覆う黒の皮靴。
どうせもう要らなくなるから。
だから、どれだけ汚れても構わない。
マゼンタの手は、孤児院にある申し訳程度にしかない囲いの門扉を開く。易々と侵入者を受け入れる扉は、紫瞳の少女さえも受け入れた。
「ごめーんくださーい」
気の抜けた挨拶に返す声は無い。その時間、外には誰もいなかった。代わりに、施設内から声が聞こえる。古い形の教会と宿舎をそのまま流用した、小さな孤児院。
聞こえる声は子供達の甲高い声。中で遊んでいるような、はしゃいだ声は外にまで聞こえていた。
マゼンタはそれを耳にして、不快そうに眉を顰める。
子供そのものは嫌いじゃないけれど、見ず知らずの子供などには全く興味がない。
朝食には遅く、昼食には早すぎる。そのくらいの時間で子供達が外に居ないのも不思議な話だったが、マゼンタはそれに思う所も無く施設の扉へと近寄る。
「ごめんくださぁーい」
マゼンタは今度こそ声を張った。
扉に付いている鐘を鳴らせば、無遠慮に鼓膜を揺らす鉄の音が響き渡る。
音に気付いて出てきたのはシスターの一人だった。マゼンタにしてみれば、見覚えのある格好をしている。暗色のシスター服に頭巾。ミュゼやフェヌグリークと初めて会った時の彼女達の格好だった。
「ご機嫌よう、シスター。フェヌグリークさん、こちらにいらっしゃいますよね?」
聞けば約束の有無と関係を聞かれた。シスターの視線は疑念が滲み出ている。
前以て尋ねられるだろうと予想していたマゼンタは、平然と答えた。
「彼女の身内です。ほら、髪の色も同じでしょう? マゼンタって言えば分かりますから」
孤児であった筈の彼女に身内と聞けばシスターも顔を顰めるのだが、それを伝えに行った時のフェヌグリークの反応を見て、シスターはそれが本当の事なのだと信じかけてしまう。
顔色を変えて目を見開き、それでも「会います」と言った彼女の様子を見れば、事情を何も知らないものがそれ以上を今聞くのは憚られて。
「あは、お久し振りですねフェヌグリークさん」
夜の番をしていたフェヌグリークはやっと休めた所だった。匿ってくれと身柄を預かった新人に一通り施設を案内した後に二人とも夜を通しで起きていた為床へ就き、漸く寝入った所に客の来訪を告げられた。
起こされた時は何で客なんか、と苛々が募ったが、次いで言われた名前に青褪める。その名を聞けば、寝床から飛び起きて着替えて来訪者と会うしか選択肢が無い。
「……お久し振り、です」
今日二回目の応接間。二度目の客は、既にソファに座ってフェヌグリークを待っていた。
久し振り、どころかもう会いたくなかった人物だ。二人の関係は今のところ身内でもなんでもなくて、マゼンタの暮らす酒場の裏事情は二度と思い出したくない。
そんな心情を知ってか知らずか、マゼンタはフェヌグリークに笑いかける。
「そう畏まらないでくださいよ、フェヌグリークさん。前も言ったでしょう、私達は同族には優しいんですよ」
「……そうですか。それで、何の御用なんですか」
「急かさないでくださいよー。同族の誼でお迎えに上がったんです」
「お迎え……?」
言われても何の事か分からない。話が見えなくて聞き返す。
するとマゼンタは、彼女の首が縦に振られることが至極当然だとでも言いたげに答えた。
「フェヌグリークさんも、私達と同じプロフェス・ヒュムネです。同族は同族と一緒に居た方がいいでしょう? この先、この国がガラっと変わっちゃうことが起きるんで、その前に迎えに来たんですよ」
「……変わるって、何がですか。迎えって、何処にですか?」
「城下の地図。勢力図。種族数。それから、向かう先は零番街。まー、今言えるのはこのくらいですね?」
当然だと思っているから、普通であればただ事ではない単語を伝える時ですら笑顔が剥がれない。
「零番街って……何処ですか? 聞いたことないんですけど」
「それは行ってからのお楽しみです。外に馬車を待たせてます。一緒に行きましょうよ、フェヌグリークさん」
「……どうしても、ですか? 断る事はできますか」
「ええ?」
マゼンタにとって、芳しくない反応を返されるのは想定外だった。
なんでこんな汚い所、といった感情が改めて周囲を見渡す視線に如実に表れている。
「……断るのは自由ですけど。でも、一緒に来る方がフェヌグリークさんにとって今より暮らしやすい環境を整えてあげる事が出来ますよ?」
「暮らしやすい環境……?」
「聞きましたよぉ。ココって、アルカネットさんとミュゼさんがお金入れないと成り立たないんでしょう?」
一番の弱点に、フェヌグリークは答える口が閉じてしまった。
あの二人が寄付という名目で金を入れてくれる。アルカネットは育った孤児院だから。ミュゼは頼れる人がいない状況で助けたのがこの孤児院だから。
二人が寄付するのが血で汚れた金だったとしても、それを受け取らないと子供達は飢えて死ぬ。
寒さや暑さに耐えきれず死ぬ。
身売りに捕まって死ぬ。
誰からも庇護されず、死んでいく。
他に収入源が無いでもないが、雀の涙だ。これで全員を養うなど出来る筈も無い。
だから金を受け取ったフェヌグリークの手すら血で汚されようと耐えなければならない。
そう思っていた。
「……それで、私が付いて行けばどう暮らしやすくなるんですか」
「んー。貴女が望むなら、孤児院を王家直轄にすることが出来るかも知れませんね。そうなるとこんな古びた孤児院から、新築の建物にすることも無理じゃないでしょう。子供達も暑さ寒さに苦しむこともなくて、もしかしたら本当のお父さんお母さんに逢えるかも? そうなれば皆幸せ。貴女は私達に力を貸して、それで誰ももうこれ以上苦しむことも無くなってめでたしめでたし! ……って未来は御嫌いですか?」
「嫌いかって……言われたら、それは、一番望むべきなんでしょうけれど」
フェヌグリークだって、そんな幸せが本当にあるというのなら是非にと願いたいところだ。
しかし、その話を持ち掛けてきたのがマゼンタだということで二の足を踏む。
この女が今浮かべている笑顔に、嫌な予感しかしない。
「本当にそれが叶うなら。どうして、もっと前からそうしてくれなかったんですか?」
「………」
「それだけの権力を持っているなら、もっと早くにそうしてくれても良かったんじゃないですか。なのに、どうして今になって? 私ひとりに、それだけの価値があるとも思えないんですが」
「価値。ははっ、価値? 価値ぃ?」
大袈裟な手振りで、マゼンタは両腕を広げて見せた。
喜劇の道化役のように、真面目に話を受け取ろうとしない態度。フェヌグリークの嫌な予感は更に募っていく。
「貴女自身に価値なんて、多分無いですよ。だいたい、貴女を連れて来いって言ったのは私の姉なんです」
「姉? ……オルキデさんですか」
「そっちの姉様より上の姉です。城に行ったら会えますから直接顔見て、寛大にして慈悲深い配慮に感謝して欲しいんですけどねぇ? 貴女の価値はその体。私達と同族である証明、ただそれだけです」
言葉は、フェヌグリークのこれまでを否定する。その命にしか価値が無いと、直接伝えられてもフェヌグリークの心はさして動じなかった。
これまでマゼンタから言われた言葉から、建前を全て取り払っただけのものだったから。
「……これから私が頼りにするのが、アリィやミュゼさんから、貴女達に代わるだけなんですね。……だったら、私は行きません。此処で、あの二人に頭を下げている方が良いです」
「ふぅん?」
「お引き取り下さい。私は、貴女と一緒に行きません」
本気の拒絶だ。その瞳の意思だけは、マゼンタにも負けない。誰かを害する強さはなくとも、背中を伸ばして返答するフェヌグリークの言葉は揺らがない。
マゼンタはその返事が意外だったかのように、目を丸くしてフェヌグリークをまじまじと見た。
「遠くない未来に後悔しますよ?」
「それでも。貴女がたに付いて行くと、アリィやミュゼさんに何を言われるか分かりませんから」
「あははっ。私はまぁ、別に構いませんけどぉ」
そうして交渉は決裂するかに見えた。孤児院を立ち去ろうとソファから腰を上げようとしたマゼンタの耳に、扉を叩く音がするまで。
「失礼します」
返事を待たずに開いた扉。
其処に居たのは、盆に茶を乗せてやって来たオリビエだった。