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 アルセン国の短い秋のその日、よく晴れた空が女の目覚めの視界に最初に目に入ってきた。


 窓の向こうは青空、寝台に取り付けられた天幕が透かす光に瞼を開くと、空間を視認する紫の瞳が瞬く。

 いつも寝ている固い寝台ではない。真っ白の壁に取り付けられた窓幕も、好みの色に誂えられた絨毯も、全てが住んでいる場所よりも段違いに豪奢だ。


「んー……」


 もぞりと起き上がった女は寝台の上で伸びをして、はぁ、と小さく溜息を吐く。寝ている間に絡まった黒髪を手櫛で整えながら、眠い目を何度も開閉させて。

 毎日同じ時間に寝起きしている同室の姉も今日は別室。

 誰も居ない筈の部屋なのに、ひとりの時間を満喫するには場所が悪い。


「マゼンタ様」


 狭くない部屋に取り付けられた扉の向こうから、女を呼ぶ声がした。

 その名は、酒場で生きるために姉から付けられた通名だ。


「……はぁい」


 マゼンタと呼ばれた女が返事をする。

 入って来たのは黒の衣服に白のエプロンを付けた女従だった。着替えや洗顔用の湯など、身支度道具一式を運んできた女従はマゼンタの支度を手伝おうとする。

 しかしそれを手で振り払い、寝台から立ち上がって顔を向けた。


「支度くらい一人で出来ます。出て行って」


 非礼な態度にも関わらず、女従は頭を下げて言われた通りに部屋を出て行った。

 今日の着替えとして用意されていた服は紫色の寛衣。着脱に手間が掛かるそれを、顔を洗った後に慣れた手つきで体に巻き付けていく。

 服を整え、髪を梳いて結び、身支度はそれで完了だ。


 面倒ね。


 口に出しても聞く者はいないから、自己完結させる為に心の中で呟く。


 ゆっくり寝られるのはいいんだけど、他人の気配がここまで不愉快に感じるのは嫌だな。


 マゼンタが腰を下ろしたのは、部屋にあるソファではなく寝台。柔らかい肌触りで体重を受け止めるそれは、酒場で使っているような固くて安っぽいものと比べるのも失礼な話だ。


 マゼンタは、生まれる前から次期女王として同種族を導くと決められていた。

 プロフェス・ヒュムネの次期女王の選定に於いて、一番重要なのは『母樹』と呼ばれる祖の意思だった。

 純血にして王家のプロフェス・ヒュムネは、同じ樹から産まれて来る。そして全員が性を女とする。

 その樹が決めた時期女王は、次に産まれて来るマゼンタだった。

 母樹も、国の陥落と共に死んでしまったのだけど。


「紫廉」


 外から再び声がした。けれど今度の声はよく知った人物のものだ。


「はぁい」


 気の無い返事をするものの、声の明るさは先程と段違い。

 返事を受けて、扉を開いたのはマゼンタと同じ形で色違いの服を着ているオルキデだった。

 二人は姉妹。しかし、先程オルキデが呼んだ名はマゼンタが普段使用している名前とは違っている。


「朝食の準備が出来ているそうだが……お前、また仕えの者を追い払ったな?」

「だってぇ。他人に体触られたくないんだもの。姉様は平気だった?」

「そこまで抵抗は無い。私だってファルビィティスが陥落するまでは、一人で着付けも出来なかったんだからな」

「そうなんだ? 姉様は何でも出来るって思ってたから、そういう話聞くの新鮮。酒場で厨房に入ってからも、私の何倍も料理が上手で羨ましかったなぁ」

「お前だって練習したから上手くなったじゃないか。……ほら、行くぞ」


 促すと、マゼンタは笑顔のままオルキデの後を付いて行く。

 部屋の外の廊下さえも、酒場とは比べ物にならない程に広くて清潔。

 当たり前だ。ここは王城なのだから。


「料理、先代と習いに行ってた時が一番楽しかったな。それまでは零番街で教えて貰ったりしてたけど、あの人と一緒の時はどんな失敗しても誰も責めたりしなかった。分からなくて当たり前って、そう言ってくれたから」

「……」

「あーあ、いつまで私達酒場に居ればいいんだろうね。本当、とっとと滅びちゃえばいいのよヒューマンなんて」


 驕るような発言をするマゼンタの顔は、悪びれてもない無邪気な顔。言葉の重要性が分かっていないような、年齢よりも幼く見える表情だ。

 オルキデは妹の言葉に、どう返して良いか分からずに俯いた。


「……そう言うが、これまで世話になった者の大半がヒューマンだろう」

「そんなの知らない。滅んだら関わりも無くなるわ」


 マゼンタは、生まれる前から次期女王だった。

 国が滅んだ後でも、彼女が女王として国を復興させる未来を同種は夢見た。

 そうなるように教育を受けさせられたマゼンタは傲慢になった。対外との関わり方も含めて教育させられたので、表向きの彼女は人当たりの良い少女として育つ。その胸の裡にどんな感情があるかも考えさせないよう、いつも笑顔を絶やさないように。

 彼女に深く関わらないと、マゼンタの本当の素顔は見る事が出来ない。オルキデは幸いにも人格が酷く歪むことは無かったが、それ故に妹の危うさに心を痛めていた。


「……本当、面白くない。大嫌いよ。こんな国も、あんな酒場も。帝国が滅んでも良い事なんて何一つ無かったわ」


 廊下を進むのは、客である二人が朝食を摂る為の別室まで辿り着いたら終わる。

 重厚な焦げ茶の扉は、見た目と反して開閉が力を入れずとも楽に出来た。その中には十人は掛けられるであろう卓があり、椅子も多いが使われるのは数脚だけ。

 室内に入った二人が驚きに目を開く。上座に、二人以外の人物が先に座っていたからだ。


「遅かったな」


 用意されていた水で喉を潤していた人物は、二人に向かってそう告げる。


「姉様?」

「……姉様」


 二人が姉と呼んだ人物はミリアルテア――この国の王妃だ。


「疲れているのは分かるが、食事は時間通りに済ませねば下働きの者が片付けに困るでな」

「姉様、何故こちらに?」

「たまには私だって、妹達と食事を摂りたくもなるさ。それでなくとも二人とも酒場で毎日忙しいから、こっちに泊まりなんてもう何年も無かった」


 話をしながらもオルキデとマゼンタが席に着くと、それを見計らって配膳係が三人の前に食事を運んで来る。

 自分で作っていないのに温かく、片付けもしないでいい食事など久し振りな二人。それでも意地汚くがっつく事もせず、遠い過去に教わった通りの作法で食べ始める。


「……ねえ姉様、今日は何時からだっけ?」


 話を切り出したのはマゼンタだ。

 王妃は記憶を手繰るように、少し視線を逸らす。


「私がこの後政務だな。昼食は私はいつもの場所で摂ることになるだろうし、今日の会議は紅茶の時間と一緒になるかもな」

「えー? 紅茶飲みながらあんな話するの? 美味しくなくなるからヤだなぁ」

「今日の茶菓子はロベリアが用意するそうだ」

「…………」


 それまで文句を言っていた筈のマゼンタが、とある名前を聞いた瞬間口を噤んだ。

 瞬きを繰り返しながら固まる妹の顔を見ながら、オルキデが水の入ったグラスを手に取る。


「お前、あいつが居るならどんな場所でも良いって言ってただろ。紅茶の不味くなる話くらい我慢できないのか」

「っな、そんな!! だって、ロベリアだって仕事があるでしょ!? 今日も参加するの!?」

「あの者も、我等が同胞だからな」


 同胞、とは種族がプロフェス・ヒュムネである事を示す。マゼンタはロベリアの名を持つ者に普通の同胞に向ける以上の感情を持っているので、途端に挙動不審になった。

 こんな風に名前だけでいつもの余裕を保っていられないのだから、先代の酒場マスターの事を言えないな、とオルキデがグラスを置く。


「同胞、とは言いますが……その割には同胞で無い者も参加しますね」

「暁の事か?」

「私は、あの者が得意ではありません。何を考えているか分からないのはディル様以上です。あの張り付いたような笑顔は、見ているだけで不安になる」

「私もだ。……しかし、そう言うな。あの者の一族とアルセン王家は、似たような罪を背負っている。我等が暁を城へと招き入れた時から、あの者達を無下に扱えないのだよ」


 王家と階石家の関わりを、オルキデとマゼンタは知らない。聞かない方が得策か、と思って食事に向き直る。

 しかし話が終わった訳では無かった。


「ところで紫廉。酒場に、件の新聞記者とやらが来たようだな?」

「え? あー、そうね。込み入った話をしてたみたいだけど、どうでもいいから気にしてなかった」

「その新聞記者に処分命令を下したと暁が言っていた」

「へー……。そうなんだ」


 何があってそんな判断が下りたのかも、マゼンタにはどうでも良かった。

 オリビエが持ってきた話で、自分の花束を窃盗されたとディルが息巻いたのだ。その後の話なんて心底どうでも良かった。そんな認識。


「ま、マスターや他の皆が今更情に絆されるとは思わないけど。可哀相にね、楽に殺して貰えたらいいね」

「ディルに斬られ川に落ちたところまでは、スピルリナが確認したそうだ」

「へー」


 じゃあもう死んだねぇ、とマゼンタが皿の上の野菜の欠片を突き匙(フォーク)で弄ぶ。刺しきれない程に小さなそれを、もう口に運ぼうとも思わない。

 普通の者であれば食欲が湧かなくなるような話であるのに、三人の顔色は変わらなかった。人ひとりの生き死に程度では、胃に何かを収めようという気分が揺らぐことは無い。


「それで……という訳では無いが、紫廉。二つほどお使いを頼めないか」


 用意された食事を食べ終わったマゼンタが、そろそろ退室を考え始めた頃に王妃が頼み事を持ち掛けてきた。

 姉である王妃の言葉に逆らう気はないが、どうも面倒臭そうな予感を察して顔を顰める。


「……何?」

「そう難しい話ではない。件の新聞記者が七番街の橋から川に落ちたのに、死体が上がっていないそうだ。お使いの道中、川を確認してくれないか。大まかで構わないから」

「道中、って言うのが気になるわ。七番街から下まで行かなきゃいけないの?」

「目的地は五番街。……お前から報告があったろう、五番街に同胞がいると」

「ああ、フェヌグリークさんの事? 彼女に向けた御用事?」

「この城まで連れて来てくれ」


 王妃の妹二人が顔を見合わせた。


「……と、いうことは、我等の側につかせようと?」

「望むなら零番街に住むことも許す。話を聞く限り、ギルドに所属する男の妹分だとか? だがそれも、今は仲違いをしていると」

「そうね、円満な兄妹とは言えないねぇ」

「ならば此方側へ付かせるのも悪くないのではないか。ロベリアに向かわせる事も考えたが、同性の方が良いだろう。顔見知りなら話もし易いだろうしな」

「………」


 その話を聞きながら、マゼンタは生温い笑みを浮かべていた。

 面倒だし、正直嫌だ。けれどどうせ拒否権は無いし、同族が味方になるというのだけは単純にマゼンタも賛成。

 どうして私が、と思う心と、フェヌグリークだったら別にいいかな、と思う心が同居して、結局頷くしかないのだ。


「はいはい、分かりました。いつ行けばいいの? 後からでいい?」

「早ければ早い方がいいな。今日の会議に間に合えば有難い」

「今日の会議に参加させるの? いつもの顔ぶれしかいないのに?」

「ついでに、色々聞いておきたくてな。聴取も私の出席は叶わなかったし、すぐに終わってしまったろう? 葉緑斑も少ないと聞いている。もしかすると本当に我等に近い血統かも知れんな」


 大きな溜息を吐いたマゼンタは、それから少し言葉を交わしてから席を立つ。

 やや投げ槍に了承したが、気分が乗らない。

 

「あーあ。……仕方ない行ってきます。この城にやっと来れたって思ったら、こういう事で時間が消えていくのね」

「許せ」

「……酒場に帰りたくないな。またあんな陰気な所に戻らなきゃいけない時間が近付くなんて、最悪」


 それは単なる愚痴に過ぎない筈だった。言った本人さえそうだと分かる、子供のような我儘。


「帰らなければ良い」


 けれどその我儘を、王妃は肯定する。


「……え?」

「そろそろ、計画の日取りも決めねばなるまい。そうなれば、お前完全な自由を手にする日も近い。酒場に関わっている時間も、これからの計画によっては邪魔になろう?」

「………」


 まさか、本当にそれが叶うなんて考えてもいなかった。

 酒場の生活は悪くなかった。けれどそれは昔の話で、気に入った女が死んでからは退屈で気分も落ち込んで、苦痛の方が強くなっていた。

 楽しくも無い生活を強要されるのは嫌だったけど、仕事自体は嫌いじゃなくて。そんな矛盾した思いを抱えながらこの先も酒場でやっていくのかと思っていた。


「………そっかぁ!!」


 でも、もう我慢しなくていいのなら。


「分かった。もうあんな所には戻らない! 私はこのまま居座って良いんだよね?」

「居座る……とは、何とも不穏な言葉よな。酒場よりも快適な生活を約束は出来るが、傍若無人に振舞って貰っては困るぞ?」

「それで充分よ。もうあの酒場の皆の食事の準備もしなくていいだけでも楽になる。もう頼まれたって戻るものですか、どれだけ酒場での生活が辛かったか!!」

「……お前がそこまで嬉しがるなら、もっと早くに撤収させていれば良かったのかもな?」


 それは本当に我慢だったのか、もうマゼンタには分からない。

 城に来ていいと言われたマゼンタの胸には、確かに喜びとは別の感情があったのも事実だ。

 けれどもう、それが何なのか知覚できない。


「じゃあ、用事済ませたらすぐ戻ってくるから。絶対、さっきの嘘にしないでよ?」


 ひとつだけ確かな事は、未練は一切無い事だ。

 気分よく部屋を出るマゼンタの背を視線で追ったオルキデは、扉が閉まると同時に自分も食事を止めた。


「……御馳走様でした」

「なんだ、もう良いのか?」

「この状態で食が進むほど、図太くはありませんので」


 自分だけ繊細を装おうとしている妹に、王妃はわざとらしく微笑んで見せる。

 笑みを深くされて、それを見るのが嫌でオルキデも目を逸らしたが、無言で退室できるような性格もしていない。


「……姉様は、紫廉で国の元首が務まると思いますか」

「ん? そうさな」


 王妃は答える時も、表情を変えない。


「正直な所、あの性格の女王であったなら私は即座に見限るだろう。身内の贔屓目で見てもあれは厳しい。国は興すのは難しいが崩すのは簡単だ、元首に馬鹿を据えればいい」

「でしたら、何故」

「紫廉は愛国を豪語する老いぼれ共より『元』次期女王として教育を受けた。その矜持を捨てさせるのは私でも無理だったからだ」


 それではもしこの先プロフェス・ヒュムネが国を興しても、滅んだ祖国であるファルビィティスの二の舞になるのではないか。

 オルキデの問いかけは、既に答えが分かっているものだった。だから、言葉をそのまま飲み込んだ。味など無いはずなのに、下ではなく胸の奥に苦味を感じた気がする。


「……昔に戻れたら、いいのにな」


 王妃の呟きが示す具体的な時代を、オルキデは聞けないまま食事の時間が終わった。

 王妃として君臨する前のミリアルテアを、オルキデは殆ど知らない。


 けれど今更過去に戻れない事は分かっていた。

 時間の理を捻じ曲げるなんて事は、プロフェス・ヒュムネでもそう簡単に出来るものではなかったから。




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