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「……行って来たよ」
酒場に戻ったミュゼは中に入るなり緊張の糸が切れたかのように荷物から手を離し、扉を背にしてずるずると座り込んだ。疲労が頂点な上に一晩寝ずに動いていたせいで眠気が酷い。心身ともに酷使されて、顔色も良くなかった。
同じく寝ていないだろうマスター・ディルはまだカウンターにいる。ミュゼの帰りを待っていたであろうアクエリアもカウンター席で茶を飲んでいた。
怪我は無いようだが服が変わっている。清楚さを紡いで衣服に仕立てたような暗色のシスター服だが、
「ミュゼ」
「……ただいま」
座り込んだミュゼに、早足でアクエリアが近付く。もう一歩も動けない、とばかりに床に張り付くが如く落ちた腰を支えて立ち上がらせた。
背に負うようにミュゼを担いだ後は、何も言わず階段に向かう。二人分の体重で軋む階段の音は、二人が二階へ着くまで鳴っていた。
ジャスミンもアルカネットも、疲労で既に眠っている。
先に二人に今回の依頼料を払おうとしたにも関わらず「後からにしてくれ」と言われて部屋に行かれた。金より疲労回復の方が大事だなど、ジャスミンはともかくアルカネットにしては今まで無かった事態だ。
ディルとしても疲れていない訳では無い。昔ならいざ知らず、今となっては依頼以外では必要最低限の動きしかしていない。削げ落ちた筋肉は簡単に戻らないし、少し過激に動いただけですぐ体は疲労を訴えて来る。
まだディルが起きているのは、ミュゼの帰りを待っていたからだ。
心配というのは柄では無いが、一人にだけ余計に無理をさせた自覚は有る。それも、自分の子孫という自称を聞いては放っておいていられない。
アクエリアはそれを知らないが、ミュゼが特別な存在であるので帰りを待っていた。そしてディルに対して牽制するかのように、自分で彼女を部屋まで運んでいく。
「……玄孫か」
改めて口にすれば、何とも言えない感情が湧き上がる。
血の繋がった存在はこの世に居ないと思っていたが、幾ら薄れているといえど未来に繋がる自分の血族がいると聞いて沸いた感情は、過去に失ったものだと思っていた『喜び』。
妻と自分が未来へ繋いだという女は、今は少々不可思議な目に遭って重い感情の男に囲われているけれど。
――そういえば、ミュゼを育てた男は妻の事を知っていると言っていたな?
ディルの疑問はふと今湧いた。
ひとつだけ分かっているのは、ミュゼの育ての親はこの時より六年以上前から未来の先まで生きている人物だということだ。でないと妻から惚気話を聞ける訳が無い。
「………、……」
ディルの視線が泳ぐ。
ミュゼの育ての親とやらに、たった一人だけ心当たりがあったからだ。
妻が惚気を飽きることなく話した男で、そしてディルの玄孫が生まれるような未来まで生き続けられる種族。
子孫達の面倒を見ようという気が起きる程に関係があり、生活能力があって戦闘能力も高く、さまざまな事をミュゼに教えられるような人物。
その心当たりである男は今、ミュゼを連れて階段を上って行ったばかりだ。
「無理をしすぎですよ、ミュゼ」
二人が辿り着いたのは、朝日差し込むミュゼの部屋。
咎めるような声を出すアクエリアは、ミュゼを寝台に運ぶと有無を言わさず転がして毛布を掛けた。「風呂入る」「お腹空いた」と抗議する声も弱々しく、髪さえ解く体力もない様子で目を閉じる。
「風呂はもう沸いてませんよ我慢なさい。食事なら後から持ってきますから今は寝なさい。体冷やすんじゃありませんよ」
「……体が藻臭い気がする……」
「明日毛布も全部洗ってあげます。寝ないと病気になりますよ、後からマスターにも文句言っておきますから」
二人はちゃんとした約束を交わした訳では無いが、体の関係を結んでいるのは周知の事実。しかし今のアクエリアの言い方では恋人というよりも保護者にしか聞こえない。
今回の件では自分をほっぽって留守番役に回っていたのに今更優しくされてもな、と思いながら眠気で霞む視界にアクエリアを収めたミュゼ。輪郭こそ不鮮明だが髪の色である青紫がしっかり見えた。
「……ますたー、には……いいよ、言わなくて……。私が、自主的に、やったこと、だし」
「俺を差し置いて他人の心配とは、良い根性してますよね。これだけ長く離れておきながら、俺に再会の抱擁もしないのだから」
「たかが、四日じゃん……。藻臭い女に抱き着かれてよろこぶの……?」
その青紫が、瞼の向こうに消えていく。
温かい。暖かくて、優しくて、ずっと好きだった男の声を聞きながら睡魔に誘われる。
「……だきついたら、どーせ、おこるんでしょ……」
「怒りませんよ」
「……おこるの、しってるよ……。むかしっから、そうじゃないか」
「昔っから……?」
眠気に負けてふにゃふにゃと何事か語るミュゼの言葉は、既に聞き取りにくい口調になっている。
「……わたしがいたずら……しても、おこるもん……。がんばって、きたんだよ……もっとやさしくしてよ……えくりぃ」
その口調の中で、確実に自分の名前ではないものを聞いてアクエリアが固まった。
他の男の名前で呼ばれるなんて考えたことも無い。これまでそんな経験が無かったせいで、見開いた目が元に戻らない。
すぅ、と規則的な寝息はすぐに聞こえた。
「ミュゼ」
時々、懐かしそうにその名を紡いでいた事を知っている。彼女の育ての親がその名である事も。
今はもう顔も見ていないというアクエリアにとって見知らぬ相手の筈なのに、声に滲む信頼を感じ取ってしまって急に胸が痛んだ。
痛みは同時に不快感になる。この女の中を、自分一人が占めている訳では無いという事実を改めて突き付けられる。
「俺は、アクエリアですよ。ねぇ」
ミュゼが起きる気配は無い。自分が寝ろと言ったのだから当たり前だった。
呼吸の度に上下する膨らみの少ない胸元に手を当てて、心臓に直に苦しみを分けたかった。
「俺だけ見てくださいよ、ミュゼ」
自分はそう出来ない癖に、人にばかり押し付けて。
ミュゼが起きていたらそう詰ったかもしれない。詰らなくても思うはずだ。そうして不満を持たれて、アクエリアはその時だけそれで安堵する。
最低なのは自分だけじゃないと。
二人で一緒に、最低になると約束した。
心が振り回されているのは自分だけだなんて思いたくなかった。
アクエリアが一階に戻った時、ディルは変わらずカウンターの中に居た。いつものように椅子に座り腕と足を組み、それまで微睡んでいたようだが階段の軋みを聞くと瞼を開いている。
「……寝ました」
「そうか」
掠れたディルの声にも疲労が滲んでいた。それなのに部屋に戻っていないのは、アクエリアを待っていたからだろう。
ディルは黙って並べてある酒瓶のひとつを手に取った。蓋さえ開かずアクエリアの前に置く。一緒に並べたのは木製の酒器。
「こんな時間から飲めって言うんですか?」
「少し話をせねばならぬ。……場所を変えよう」
は、とアクエリアから驚いたような声が漏れる。聞かれてはいけない話であれば厨房奥に行くこともあるが、今は店も開いていない時間だ。
他に誰が聞くというのだ。それとも、今から話されるものは完全なる私情か。心当たりに辿り着いた時、アクエリアが自嘲の笑みを漏らした。
「……ミュゼの話でしたら、あまりしたくないですよ」
「ミョゾティス? 何故」
「違うんですか。俺が、ミュゼの事ばかり気にするから釘刺そうとしてるんじゃないんですか?」
笑みはディルにも向かう。
ディルにだってミュゼに対して他の面々に向ける以上の感情があるのが分かっている。
その感情が何かを知らないアクエリアは、恋愛感情、或いはそれに近しいものだと疑った。
だって、外見はあんなに似ているのに。何も思う所がないなんて、嘘だ。
「……釘を刺したい? 別に、汝があの者を好ましく思っているのなら好きにすれば良いであろ。捨てるとなれば話は変わるが、責任取れぬ女を汝が囲うとも思わぬ」
アクエリアが考えていたものとは違う答えが平然とした顔から言い放たれて、身構えていた心が拍子抜けする。
「………違うんですか。俺がミュゼを側に置いてるのが腹立つとか、そういうんじゃないんですか?」
「腹が立つ……とは、また異な事を言うものだ。腹が立ったことは無いが、汝とあの者が二人並んでいると時折妻の事を思い出すくらいだな」
「……あの子と似てるミュゼに、何の感情も、抱いていないと?」
「抱いた方が良かったか」
何の臆面も無く問い掛けるディルの姿に、アクエリアが声を詰まらせた。
問い掛けた方も、自分で言ってから改めて言葉に首を傾げる。
「……何の感情も、というと少し変わって来るな。恐らくは、汝とは違う意味合いでミョゾティスの事は『大事』なのやも知れぬ」
「……」
「『大事』。……ああ、昔の我であったなら、気にも留めぬ感情だったろう。此の酒場を棲み処とし、たった一人を妻に迎えるまでは。あの者が守って来たこの酒場を、我が守ろうとしている。いつか死して妻に逢うことが出来た時、善く耐えたと労って貰いたい一心だった」
ディルはアクエリアに出した酒瓶に手を伸ばし、栓を開けた。
酒器に注ぐ量は並々としていて、紫髪の男が眉を顰める。これでは飲みにくいが、ディルは人に酒を振る舞った事が無いから分からないのだ。
「アクエリア、此処で告げる。ミョゾティスと懇意にしている汝なら、既に聞いている話かも知れぬ」
「……」
「妻が、生きている」
ディルの言葉に、アクエリアは酒器を手にした。
一滴も零さぬように気を付けながら口に運ぶ。最初の一口を啜るように飲んで、それから器の半分の量を一気に喉に流し込んだ。
「……知って、います。ディルさん、貴方こそ知っていたんですね」
「ミョゾティスが初めて此の酒場に来た時、聞いた。だから、力を貸せと。あの者の命に関わる事柄だと聞いていたが、今なら理解出来る」
「命に……? あの子が生きていないとミュゼが死ぬんですか?」
「……」
ディルも、どこまで話していいのかが分からない。
全部伝える事は簡単だ。けれどそれをミュゼが望むのか。
少し考えただけでは答えは出ないから、それに答えは返さない。
「アクエリア。もしも、妻を奪還する時にも汝が此の酒場に所属しているというのなら。……助力を求めたい」
「……それは、勿論。あの子が本当に生きているのなら、一言言ってやらないと気が済みません。俺だって、あの子が戦死したって聞いて、どんな思いだったか」
「助かる」
話を逸らされたのは不満だが、それ以上は本人から聞けばいいかと思い直し再び酒を煽るアクエリア。
口を離すのを待たないまま、ディルは続けた。
「部屋を移ろうとしたのは、マゼンタやオルキデに聞かれない為と思っていたが……あの二人は朝から下に下りて来ておらぬようだ。アクエリア、汝は何か知っているか?」
「……。あの二人ですか?」
空になった酒器を置いたアクエリアは階段の方向へと視線を向けた。
「あの二人なら、暫くお暇頂きますって事で外泊ですよ。何か用事があるんですって」
「二人でか。行き先は聞いたのか」
「行く場所は同じって言ってましたよ。俺以外居ないんだし、たまにはゆっくりしてくださいって見送りましたけど……場所は聞いて無いですね」
「あの二人に、『二人で向かう場所』となると」
ディルが瞬いた。
滅びた国の種族であるプロフェス・ヒュムネの王家の二人に、行く場所と言ったら限られている。
二人で単なる旅行をするのならそれで良し。そうでなかった場合、何処へ行ったというのか。
「……王城にでも向かったか」
それはただの予感で、確証があるものではなかったが。
二人の背景を知っているディルには、二人同時の不在が歓迎されるようなものではないような気がしていた。