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太陽が昇る直前、まだ朝焼けの光が空に現れ始めた頃。
五番街の孤児院の扉が、大きな音を立てて叩かれる。
まだ孤児院で飼っている鶏も鳴かない時刻だ。夜の番をしていた住み込みのシスターの一人が音に気付いて、休憩として寛ぐために外していた頭巾を付けて扉に向かう。
こんな時間に来客など有り得ない話だ。寝ている子供達が起きないよう注意を払いながら、シスターが扉を開けずに声を掛けた。
「どちら様でしょうか?」
頭巾の下から見える髪は黒。
「………ミュゼ、です」
躊躇ったように扉の外から告げられた名を、シスターは知っていた。
「……シスター・ミュゼ……?」
「……こんな時間に申し訳ありません。少し、事情がありましてお願いをしに来ました。勿論、無理にとは言いませんが……これは、私と、私の所属先の共通のお願いです」
扉の向こうのミュゼは、応対しているシスターがフェヌグリークであることに気付いている。
ヒューマンではない、プロフェス・ヒュムネ。人の世に混ざって生きている異種族。
アルカネットを兄として慕っていたシスター。
「……お願い、だなんて。貴方とアリィの事を、私達が無下に扱える訳ないのを知ってるでしょう」
声はどこか素っ気ない。アルカネットと彼女の間の交流は、殆ど途絶えていると聞いていた。
ともすればマスター・ディルに殺されそうになったのだ。ギルドから、そしてそれに関わる兄から逃げるように孤児院に戻って来たフェヌグリークは、それでも尚、ミュゼとアルカネットが送る寄付金を拒めなかった。
二人が、この孤児院の生命線。充分な金額を渡してくれる二人の機嫌を損ねれば、孤児ともども路頭に迷ってしまうことは目に見えていた。
「……どうぞ」
扉は開いた。フェヌグリークの浮かない顔が同時に見える。
「……お連れの方がいらっしゃるのですか?」
「そうです。……すみませんがシスター・フェヌグリーク。温かい飲み物をいただけませんか?」
「それは言われなくても……って、シスター・ミュゼ!?」
ミュゼの下半身はずぶ濡れだ。川を渡った後は着替えもすることなく、急いでこの孤児院までやって来のだから全身が冷え切っている。
オリビエは殆ど濡れていない。唯一変えてない靴は濡れているが、それでもミュゼの状態と比べたら何倍もマシだった。
「事情は後でお聞きします、早く奥へ!」
よく見れば体を細かく震わせているミュゼの唇さえ真っ青だ。
二人は案内されるがまま、奥の部屋に向かう。
応接室で毛布と着替え、温かい紅茶を出されて漸く生きた心地がしたミュゼ。着替えは相変わらずシスター服しか無かったが、着慣れたものなのでそれで落ち着いてしまった。
オリビエの足元も少しの高さがある黒の靴になった。今着ている活動的な服とは不似合いだが、替えがあるだけで有難い。
暖炉に火を焚いて貰って、空間自体も暖かい。フェヌグリークは二人の様子が落ち着いたのを見てから、二人が座る向かいのソファに腰掛けた。
「……それで、シス……いえ、ミュゼさん。何があったんです」
飲み物で指先の冷えも取れたミュゼは、毛布を肩に引き上げ直しながらオリビエと顔を見合わせる。
『私に口裏合わせて』と、この場所に到着する前から言われていた。
口を滑らせないようにと俯いたオリビエの様子を見て、ミュゼがやっと口を開く。
「貴女と同じです」
ミュゼの翠色の瞳が、フェヌグリークとその背後に見える窓を捉えた。
窓の向こうでは既に太陽が顔を出し始めている。明るくなる世界の外に比べて、室内は暗い。
その中でミュゼが言った言葉に、フェヌグリークは目を瞠る。
「……それって」
「貴女の時よりも更に性質が悪い。既に私達には厄介な上役から処分指令が下ってしまって、この人は情報上既に死んだことになっています」
「情報上……? 濡れて来た事と関係していますか?」
「関係はしているのですが、詳しくお伝えすることが出来ません。……シスター・フェヌグリーク。他のシスターにも私からお話しますので、どうかこの方の身柄を暫く匿っていただけませんか?」
詳細は言えない、と言われてもフェヌグリークだってこの件に関与すれば命の危険があるかも知れない。自分の一存で承諾できる事ではない気がして、考えるように頬に手を当てた。
「……他の方々は、この方がご存命なのを御存知なのですか?」
「はい。その上で私とアルカネットが、この孤児院なら身を隠すのに最適と考えました」
「アリィとも、話したんですね」
フェヌグリークにとって特別な意味を持つ名前をミュゼが口にして聞かせたら、彼女は自分の肩を抱くようにして俯いた。
二人はかつて兄妹だった。けれど血の繋がりもなく、精神的な繋がりも解けて接触さえ無くなった今、アルカネットの名前に彼女を頷かせる効力があるのかは分からない。
オリビエも、聞こえた名前には反応していた。けれど口を挟めるでもなく押し黙る。
「彼は私に、貴女の居る孤児院が一番良いって言って来たんですよ。……貴女を今でも、心の中で頼っているんでしょうね」
「……そう、でしょうか。あれから、一度も顔を見せに来ないのに?」
「長年の心の繋がりは、そう簡単に消えるものでは無いでしょう。今でも、彼はこの孤児院の為に危ない橋を渡っている」
ミュゼは良かれと思ってその言葉を選んだが、フェヌグリークにとって聞きたくない言葉だったのを次の瞬間身を以て知る。
「私がそう望んだ訳でも無いのに」
彼女が自分で抱いた肩に爪が食い込む。服の布地が強く握られて、手が震えた。
「……アリィは、勝手です。私が今でも、毎日、どんな思いで居るかも知らないんでしょうね。都合の良い時だけこんな風に思い出して、頼って、それで私が断れないの知ってて」
「……」
「アリィにとって私は妹でしかない。妹だから多少無下に扱っても良いって思われてるんですよ。私は、もうアリィの事を兄だなんて思いたくないのに」
震えているのは手だけではなかった。声も不安定に吐き出されて、苦悩が言葉に漏れ聞こえる。
ミュゼがしまった、とばかりに眉を下げる。彼の話題は、フェヌグリークにとって避けておきたいものだったかも知れない。
「……私ばっかり、辛い思いして」
けれどミュゼの不安は、心配していたものと少し違っていた。
彼女が吐き出す不満は、ミュゼにだって覚えがあるどうしようもない部分。
どうして自分ばかり、という想いから来る個人の感情だ。
「アリィはどうせ、素直に言う事聞いても私の事なんて気にしないのに」
ミュゼには、その想いに心当たりがある。自分だって、とある人物に思っていた。
ミュゼの育ての親は、ミュゼに命の危険が付きまとう事はさせるのに、尊厳に関わる事はさせなかった。
お前は何も知らなくていいと、そう言われ続けて阻害される不満と不安。
言われた事だけやればいいと言われて、後から何も教えて貰えない。
でも、ミュゼだって今になって分かった。そうしなければ守れないものは確かにある。
「……気にしない、なんて、そんな事ありません」
「嘘」
「……アルカネットは、貴女の事を心配しています。本当だったら、巻き込みたくなかった筈ですもの」
「嘘よ、そんなの」
フェヌグリークから言われる言葉は、ミュゼにとって苦手な言葉になってしまっていた。
嘘だと言い捨てられれば、ミュゼはそれ以上何も言えなくなってしまう。嘘にしたくないのに、受け取る側が嘘だと感じてしまえば覆すのは容易ではない。
エデンから言われた『うそつき』の言葉が思い出されて、再び胸が痛みだす。
嘘にしたくなかったのは本当なのに。
「オリビエさんの事をお預かりする件、承ります。ですがシスター……いえ、もう、シスターではありませんでしたね。ミュゼさん、貴女はもうお帰りください」
フェヌグリークの心を、ミュゼが理解出来てもその逆は無理だった。
「……ですが、私は他のシスターに説明を」
「私がします。大丈夫です。……ミュゼさんだって、他にすることがあるでしょう。この孤児院の事は、私がするので気にしないでください。オリビエさんはちゃんとお預かりしますから」
「………はい」
フェヌグリークの拒絶は、あの酒場自体に向けられたものだ。だから、ミュゼもその一員である以上同類。
少し前まではこの孤児院で、仲良くできていた筈だった。孤児院から去ったのも、フェヌグリークの為であるのが半分なのに。
恨み言はミュゼの口から出ない。恨んでいない、けれど寂しかった。要らないものとして扱われる、フェヌグリークの言葉が。
「宜しくお願いします」
見送りも要らないとばかりに、重ねて頼んでからすぐに応接室を退室した。
そろそろ他のシスターも子供達も起き出す時間だ。見られないうちに出なければならない。
ミュゼが出て行った扉を、フェヌグリークとオリビエが見ている。閉まったそこからミュゼが現れる事はもう無かった。
「……すみ、ません。よろしくおねがいします」
オリビエはそれからやっと口を開けた。一応の礼儀で口にした言葉だが、フェヌグリークはそれに冷ややかな視線で返した。
面倒、なんて口が裂けても言わないけれど、厄介な存在なのは確実だ。
他人を預かるなんて、断れるものなら断りたかった。
「……この孤児院に身を置いている間、手伝いはして頂きますから」
「はい……」
「自分の身の上を、あまり話されませんよう。分からないことがあったら、他のシスターに聞いてください。この場所で過ごす間は私達と同じ服に着替えて貰います」
ソファから立ち上がったフェヌグリークは、すぐに退室しようとした。
けれどその背を追うように、オリビエが気になっていた事を口にする。
「フェヌグリーク、さん? フェヌグリークさんって、アルカネットさんの妹なんですか?」
「――……」
「あの人、言葉少ないけど優しいですよね。不器用、って言うんでしょうか……でも、私アルカネットさんに助けられたんです。私が走れなくなっても腕を引いてくれて」
扉に掛けた手が止まる。
回し手を掴んだ指に力が籠る。
アルカネットはフェヌグリークを助けてくれなかった。
助けられなかった訳じゃない。でも、手を取って逃げようなんて言ってくれなかった。
命の危険を仄めかされても、彼はマスター・ディルの言いなりになるしかなかったのに。
どうして。
「……貴女がアリィの何を知ってると言うの」
振り返ったフェヌグリークの瞳の中は、怒りと失望が混ざり合っていた。
その視線で見つめられたオリビエは息を呑む。
「何も知らない貴女がアリィの名前を軽々しく口にしないで」
想いの重さが不均衡である事は前から分かっていた。なのに、彼は妹分である自分じゃなくて赤の他人の腕なら引くんだ。
失望が大きくなる。フェヌグリークはもうオリビエを待たずに廊下に出た。
残されたオリビエに出来る事は、酒場の面々の複雑な環境に肩を落とすだけだ。