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 もうすぐ日が昇るという時刻になっても、オリビエには時間の感覚が無く一人で震えているだけだった。

 ディルから指定された橋の下、川の中に入らないと視認できない階段を見つけた時は助かったとさえ思えたが、秋の深夜の空気はオリビエの体温を奪っていく。

 避難場所とするだけあって、そこは出入り口から特殊だった。横開きの煉瓦の扉を最初は開け方すら分からず途方に暮れた。徒労感に寄りかかったら僅かに開いたそこに指を差し入れ、開け放った中は埃っぽくカビ臭い。

 小さい空間だった。オリビエが使っている寝台を二つ入れたらそれで埋まってしまいそうだ。其処には寝台は無く、あるのは高い場所に用意されている収納棚くらい。夏の豪雨でこの場所まで水が来たのか、すえた悪臭がそこかしこから漂っている。

 全身ずぶ濡れになってしまった体をどうにかしようと中を探ってみると、収納棚に辛うじて使えそうな燐寸(マッチ)が蝋燭や巻き煙草と共に入っていた。煙草は葉も紙も大分昔のもののようで、最近誰かが吸ったような形跡は無い。

 床は橋と同じ石材で出来ており、一先ず蝋燭に火を点けた。暖を取るのに不十分だが、他に薪の類は無い。あったとしても生乾きだろうし、煙が出たら場所がばれてしまうから使えない。

 他に何かないか、と探していると、棚のひとつから外側がやや錆びた鉄箱が出てきて、中には薄い服が一着入っていた。

 オリビエの踝まで丈のある薄茶の下履き(ズボン)。そして、黒の細身の長袖と、苔を思わせる色をした袖の無い胴着(ベスト)。靴もあったが、オリビエの足では大きくて履きこなせそうにない。

 寸法は明らかに女性用だった。この場所は最近使用された形跡がないのに、服だけは綺麗だ。

 有難くそれを着させてもらう。濡れた髪と体を拭くのに適したものは無いが、服が乾いたものになるだけでだいぶ違った。


「……」


 座る場所を確保するために、濡れた自分の服で床の僅かな箇所を拭く。借り物の服は使う気になれなかった。

 その間もぽたぽたと、髪から川の雫が垂れ落ちる。

 毛布も無く、かび臭い場所で、夜の寒さを我慢するのは辛い。

 仕事で外に出て、悪臭立ち込める場所で張っていた事もある。けれどそれは使命感と、どこか正義の味方めいた高揚感があったから耐えられた。

 今は追われる立場になって、自分の為にディルが傷ついてまでも逃がして貰って。

 自分の身に降りかかった出来事だというのに、どこか現実味が無かった。


 夢だったらいいのに。


 やっと床に腰を下ろしたら、落ち着いた代わりに押し寄せた疲労感と寒気をいつまで耐えればいいのか不安になってくる。本当に助けが来てくれるのか。もしかしたらこのまま死んでしまうかも知れない。

 乾いていた筈の首筋から、髪から垂れる雫で濡れてきている。

 歯の根が合わない。お腹も空いて来た。なんだか眠くなってきた気もする。

 一人きりで、辛くて、こんなの悪夢以外の何でもない。

 なのに、目が覚める気配は無い。


「……怖い……」


 ぽつりと漏らした弱音は、誰に聞かれる訳でもない。

 家に帰りたい。仕事は残っている。やり残したことは山ほどある。生きて来た世界での未練は数えればきりがない。

 こんなに長い夜は初めてだ。寝る前に見えた光を追おうとしなければ、こんな事にはならなかったのに。

 でも追ったのは自分の意思だ。その結果がこれだ。堂々巡りの自責は、オリビエの瞳に涙を浮かべる。


「たす……けて」


 言っても誰も聞いていないのに、誰が助けてくれるというのか。

 この場合の助けは何を示すのか。

 元の生活に戻れるようになることか。


 『命が惜しかったら、これまでの生活を忘れろ』


 ああ、もう無理って言われてたじゃないか。


「……なんで。……なんで、なんで……!!」


 何を恨めばいいのか。自分の不運か。それとも浅はかさか。

 このまま惨めに死ねばいいのか。殺されてしまうのか。

 誰も今のオリビエに寄り添わない。

 救助なんて、本当に来るか分からない。

 だって彼らは。


 オリビエを処分しろと、確かに命令されたのだから。


 声を殺して泣くオリビエに、寒さは無遠慮に圧し掛かる。今感じている全てが苦痛だ。

 閉鎖的で不潔な空間にいることで、気分は更に落ち込んでしまう。

 いつまで待てばいいのだろう。眠気でオリビエの瞼が完全に塞がってしまう直前、何かの音が聞こえた。


「……?」


 外で扉を開けるのに四苦八苦する声が聞こえる。ふん、とか、ぐぐ、とか、力を込める女性の声だ。

 助けが来たのかと立ち上がろうとするオリビエの足元がぐらついた。慌てて扉に駆け寄るが、それを開いていいのか不安が再び訪れる。

 助けだと決まった訳じゃない。

 何も考えず開くことで、また命の危険があるかも知れない。

 不安が、オリビエの指に躊躇いを引っ掛ける。その重さで、オリビエは扉の前まで来ているのに指を下へと下ろしてしまった。


「……オリビエ」


 名を呼ぶ囁きが聞こえたのはその時だった。


「ミュゼだよ。ごめん、開け方分かんない。中にいたら開けてくれないかな」


 最初に話した時のような口調ではない。安心させるように、砕けた柔らかい話し方だ。


「毛布と着替えと、あと食べられるもの持ってきた。寒かったろ。私もここの事さっきまで知らなくてさ、しかも川渡らないと行けないとか聞いてなかったよ。お陰で私も結構足元濡れてて……あ、荷物は濡れてないから大丈夫」


 ミュゼの体も濡れている。それを聞いたオリビエの指が反応した。


「オリビエも寒かったよね、ごめんね。本当、マスターってば色々言葉は足りないし扱いは荒いし……こんな手段以外に何か無かったのかって言いたいけど……実際、多分、無かったんだよね。オリビエは頑張ってくれてるのに、無理ばかりさせて本当ごめん」


 ディルに代わって謝罪する、ミュゼの声は温かい。


「顔、合わせたくないなら荷物ここに置いて離れとくよ。出来るなら日の出前に移動したいけど、頭の整理出来てないならまだここに居て貰っても大丈夫。私、声が聞こえる場所で待ってるから」


 荷が階段に置かれる音がする。

 ミュゼだって濡れてる筈だ。寒いだろう。なのに、待っていると言った。

 オリビエの心に余裕は無いのは当然だ。そんなオリビエの心を察し、優しく尊重するミュゼ。

 指が扉に掛かった。僅かな窪みに指をかけ、横向きに力を込める。


「……あ」


 夜の闇の中に佇むミュゼは丸腰に見えた。手には何も持っていない。髪は酒場に戻ってから別の紐で括っているらしく、一つ結びの金髪が見えた。

 濡れたのは足元だけと言ってたのに、太腿付近までずぶ濡れだ。濡れて張り付いた服の布地は彼女の体温を奪っていっているようで、体が震えている。

 そんな状態で待つと言ってくれた。

 オリビエに向かって微笑を浮かべた金の髪の女性が、神の使いのように見える。


「……みゅ、っ。ミュゼ、さぁんっ……!!」

「……中、入っていい?」


 荷物を再び持って、オリビエを中に誘う。

 内部の余りの環境の悪さに顔を顰めたミュゼだが、扉を閉めてからオリビエの服が別のものに変わっているのに気付いた。

 ぐすぐすと啜り泣くオリビエにその服の出所を聞くと、棚の中から出てきたという。


「………。そう」


 下履きの裾を一回折っている所を見ると、オリビエの体より少し大きめの服だ。彼女自身がミュゼもそうと言いきれてしまう程身長が小さいので、もしかしたらミュゼと同じくらいの身長の持ち主のものかも知れない。

 そしてまだ着られる程度の保存期間。となると、この場所を使うような仕事をしていた人物で該当するのは僅か一人。

 ディルの妻だ。


「この服も、着て貰って嬉しいだろうよ。服は着られてこその価値だからな」

「でも、私、勝手に」

「いいんだよ。……服の持ち主も、オリビエの助けになるならそっちの方が良いってきっと言う」


 根拠は無いが確信できた。オリビエもその一言で安堵したように息を吐く。

 一先ずこの避難場所を出る準備を始める事にした。まずはオリビエの頭を拭く布を渡して、着替えはミュゼが自分で使うことにした。川を出た後でしか着替えられないのでそのままにしておく。

 寒さをしのぐための毛布をオリビエに肩から掛けてやり、そこまで終わってから食料を渡す。水筒に入れて来たお茶は温くなっていたが、飲めば今の寒気と不安を紛らわす程度に役に立ってくれた。

 すぐこの場所を出たい一心で詰め込むように食料を頬張り茶で胃に流し込んだオリビエ。ミュゼもその期待に応えない訳にはいかないと、軽く茶を飲んでから周囲を確認した。

 オリビエが元から着ていた濡れている服は後から取りに来ればいい。川の水量はミュゼの太腿付近、となると川を渡る方法はひとつ。


「……あそこにゃ河原があったから直接川進めれば良かったんだけど、無理だろうなぁ」

「あそこ?」


 アルカネットと話して出た目的地は、二人に縁がある場所だった。

 五番街の孤児院。アルカネットの出身院であり、その妹フェヌグリークがシスターとして暮らしている場所。

 七番街の娼婦街も悪くは無かったが、逃げる場所がどうしても七番街でなければいけない理由は無い。それならば身の安全を確保出来つつ、多少の無理を通せる場所がいい。

 そこには河原が近くにあるが、オリビエを連れて水の中を突き進むのは無理だろう。何としても人々が起き出す日の出前に孤児院へと辿り着いていないといけない。


「よし、オリビエが荷物を背負ってくれる? 軽いから多分大丈夫だと思うんだけど」

「は、はい」


 言われてオリビエが毛布を畳んだ。荷物入れの中に突っ込むとそれを背中に担ぐ。そして同時に考えた。

 ――じゃあミュゼは何を持つんだろう?

 別に、命の恩人の為なら荷物持ちのような雑務くらい平気だった。これで川を渡るのも、命があることを引き合いに出せば反論の余地は無い。

 ミュゼは丹念に準備運動をし始める。足もそうだが、肩回りや腰を丹念に伸ばしていた。

 今から何をするのかな? と、悠長な面持ちで見ていたオリビエだが。


「んじゃ、オリビエ」


 ミュゼが出入り口の扉を開く。

 そして階段を下りた。二段ほど下に下がった所で、徐に段に腰を下ろす。


「乗って」

「………ええ!?」

「声大きい」


 乗れ、と言われたのはミュゼの体だ。

 それも背中ではない。

 肩。

 子供相手ではないというのに、オリビエを肩車しようというのだ。


「濡れちゃうよ。もう寒いの嫌だろ」

「……それは、そう、ですけど」

「準備が出来たら急いで。私だって、体力が無尽蔵って訳じゃない。川を上がるまでだから、少しの間我慢して」


 有無を言わさない状況で、オリビエに許されたのは口答えでも躊躇いでもなく、ミュゼの背を辿って肩に足を乗せる事だけだった。


「……よっ……し」


 立ち上がるミュゼはその時だけ多少のふらつきがあったものの、立ってしまえば足元はしっかりと地を踏んでいる。

 性別を疑う程の雄々しさだ。


「んじゃあ、行くかね」


 自身の恋愛観もはっきりしたものがないというのに、オリビエはこの時ばかりはミュゼに惚れそうになっていた。



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