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「マスター!!」


 倒れ伏したまま動かないアルカネットが身動きもしないうちに、ミュゼとジャスミンが走って来た。

 やっと追いついた、と息を荒げている二人はアルカネットの姿に驚きもしない。

 二人は、こうなる事がなんとなく理解出来ているようだった。痛々しい顔をするのはジャスミンで、特に危機的状況ではないという表情のままミュゼはアルカネットに駆け寄った。


「待て、ミョゾティス」


 ディルがミュゼを制止する。

 え、とミュゼが声を漏らすが、何かを察したように動きを止めた。

 周囲の気配を察知するように、振り返らないままミュゼが視線を動かした。


「……先程まで遠くから、暁の人形の一体がこちらの様子を窺っていた」

「人形って……さっきのラドンナって奴?」

「違う。我と因縁のある、もう一体だ。今は姿を消したが、未だ近場にいるやも知れぬ」

「だから動かないんだねアルカネット」


 伏したままのアルカネット。しかし呼吸は控えめだがしっかり出来ており、ディルの刃を受けたというのに血溜まりが出来ている様子も無い。

 問題はディルの方で、彼の左腕からは絶えず血が流れている。指の先まで真っ赤に染まり滴るそれを見て、ジャスミンが沈痛な面持ちを隠さない。


「……ヴァリンさんと、同じことをしたんですか」

「………」


 既にジャスミンは、ユイルアルトの死亡証明の時に出した血液がヴァリンのものだと気付いている。


 アルカネットには傷は一切無い。血で汚れている部分は全てディルの血だ。アルカネットを斬ったと思わせておいて、その実傷付けたのは自分の腕。

 オリビエも同じで、服は裂いたが肌に傷はついていなかった。それを隠すために、ディルが自ら傷付けた腕で血を染み込ませた。

 川に落とす直前、ディルはオリビエに耳打ちをしていた。

 『此の橋の下には、以前使用していた仕事の際の避難場所がある』

 『多少汚れているやも知れぬが、僅かな期間身を隠す事は出来る。救助が来るまで其処を動くな』

 上手く潜り込めただろうか。今はオリビエの身体能力を信じるしかない。


「止血を」


 血を滴らせるディルを見かねたジャスミンが申し出るが、ディルはジャスミンを見ようともしない。


「要らぬ」

「血が止まりません」

「止まらぬならば死ぬだけだ。……死なぬ傷なら何れ血も止まろう」

「ですが」

「触れるな」


 その声は強くもなく、必要以上に咎めるでもなく、ただ窘めるだけの語気しかない。

 いつものような無気力という訳でもない優しいほどの声色を、今までジャスミンは聞いた事が無かった。


「……此のような手段しか、取ることが出来ぬのだ。妻の……生を……確信するに至る、情報を齎した……オリビエを、我は安全な方法で守ることが出来なかった」

「……」

「一切が我の責だ。だが汝等では責を問えないであろう。であれば、傷は放置で構わぬ。汝の手は、他の者を癒すために使われるべきだ」


 そうして背を向けるディル。


「もう人形の気配は無い。起きて構わぬぞアルカネット」

「………」

「一時帰還、其の後にオリビエを橋の下から救助せよ。暫くは一人で持ち堪えられる筈だ、着替えと食料と……毛布くらいはあれば良かろう」


 言われて起き上がるアルカネットの顔は浮かない。服に染み込んだディルの血の臭いで気分も悪い。

 ディルは不器用な男だが、アルカネットがそれを嘲ることは出来ない。アルカネットだって不器用で、今までずっとディルを嫌い抜いて生きて来た。今だって別に好きじゃない。


「……待てよ」


 それでも、引き留めてしまう。


「あいつが、本当に生きてるのか。今回の事で、それが分かったってのか。なんでだ」


 ジャスミンが、話の内容を飲み込めずに二人の顔を見比べた。

 ミュゼはジャスミンとは逆に俯いている。


「……今回の情報を、整理すると単純明快だ」


 肩越しにしか振り返らないディルは、足を止めて視線だけを寄越した。


「我が妻に手向けた花は、他の誰も所有できぬ。あの人形は、今回の事を窃盗ではないと言った。人形が偽りを弄することは無い。真実しか言わない。ならば、窃盗でなくなる条件の者は三人しか居ない。手向けた我か、墓を管理する墓守か。それとも」


 前者二人には心当たりが無く、残るは一人だけ。


「我が妻が、自らに手向けられた花束を欲したか」

「………」

「不思議なものだ。我が想いは、未だ届いていたか。言葉でなく形だけでも、二度と届かぬと思っていた」


 花束を持って行かれた事には不愉快しか無いが、その届け先が妻と思えば怒りは解ける。


 妻が、生きている。


 今すぐにでも、逢いに行きたい。

 心の奥底から求め続けた、たったひとり。

 もし何も責任を負わずに済む立ち位置にいたなら体ひとつで暁の住まいがある王城に乗り込んだろう。けれど、今はそうではない。


「……戻ろう」


 守るべき者が居る。

 今の立ち位置で、不満もあろうに従ってくれた者達だ。ディルがこれまで態度で報いようとしなかったが、それでも今は共に暮らしている。

 彼女が守ろうとしていた酒場だけは守りたい。ディルの決意は、今も変わらない。


「やるべきことはこれで終わりではない。情報提供者の身の安全と……そうだな、今回の騒動が完了したとなれば報酬も払わねばなるまい。墓守の元へ荷を引き取りに行く用事もある、未だ今日は眠れぬが、各々体調に異常は無いか?」

「………は?」

「え?」

「……え?」


 ディルを除いた三人が、己の耳を疑った。

 これまで一切他人の体調など気遣ったことのないディルが、今回に限り人の様子を伺ったのだ。

 アルカネットは開いた口が塞がらない。ミュゼは目が点になり、ジャスミンは彼に熱でもあるのかと疑っている。

 あまりに失礼な三人の様子に、表情こそそこまで変わらないがディルが不愉快そうに眉を顰める。そして歩幅も大きく帰路を先に進んだ。


「……似合わぬ事を言うものでは無いな。忘れろ」

「ちょ、ちょっと待ってよマスター。ごめんって。急にそんな事言うものだからびっくりしただけなんだって」

「あの、マスター、帰ったらお薬出しましょうか。熱があるなら解熱剤を」

「忘れろ」

「……お前はやっぱり分かりにくい事を言うくらいで丁度良いのかもな」

「忘れろ」

「忘れない」


 早足に付いて行く三人。その中でもアルカネットはわざとらしく肩を揺らして笑う。初めて聞く、義兄の不器用な優しさがくすぐったくて面白かった。


「お前の嫁に、これまでのお前の様子を聞かせないといけないだろ?」

「……ふん」

「こっぴどく叱って貰え。この六年の不摂生、ちゃんと聞かせてやるからな」

「あの者は我に怒ったことは無い」


 その言葉に、今まで聞かせていたような冷たさはない。


「我が妻は、我を愛していたからな」

「……うぇ」

「ひゃー」

「……うわぁ」

「………。………………」


 聞き手がヴァリンであったなら、茶化すどころか「何言ってんだ俺がソルに向ける以上の愛なんてあるものか」と無駄に張り合ってくるのだが、それさえ無くただ返答に困っている様子を見るのは久し振りだった。

 世間一般では、自分が言ったそれが惚気と呼ばれる類のものだとディルは知らない。


「ふん」


 アルカネットも、ミュゼも、ジャスミンだって、こんな風に鼻を鳴らして足早に去るディルの姿にはこれまでの様子から思い当たる感情があった。

 それはきっと本人も、きちんと理解していない感情かも知れない。

 照れているのだ。とても分かりにくいとしても、関わっていく間に気付いてしまった。


「……マスターって、意外と分かりやすい人なのかもね?」


 ジャスミンが思わず口にした言葉は、ミュゼの耳には届いている。

 アルカネットは相変わらずディルをからかうために速度を早めて彼に近付いていて、二人は既に早歩きを通り越して走っている。

 ミュゼは二人の姿に呆れの苦笑を浮かべていて、ジャスミンの言葉に肯定の頷きを返した。


「私もね、最初はなんだこのクソジジイって思ってたけど、案外話は通じるし悪い男じゃないんだなって思ってた」

「クソジジイ……?」

「ジジイで充分だよ、マスターなんて」


 ジャスミンにとってもディルはジジイという嘲りが似合う年に見えないが、ミュゼは変わらず言い切る。ミュゼだって彼とそこまで年齢が大きく違う訳でもないだろうに。


「……マスターの奥さんって、どんな人だったのかしらね」

「………ジャスミンは知らないんだっけ?」

「これまではイルとも予想で話していたのよ。あんな人だもの、全部包み込むような慈愛に溢れた優しい人だったんじゃないか、って。……でも、今なら違うな、って分かるの。なんとなくだけど」


 もし、彼の妻が本当に生きていて。

 もし、ジャスミンと知り合うことがあったなら。

 彼を引っ張っていける程の快活さと、彼を愛し抜いた純真さと、少し彼を困らせるような跳ねっ返りな性格にジャスミンも惹かれたかも知れない。

 あの酒場で、彼女が気怠そうに店の開店準備に精を出し、時折怒鳴り声までもが響く賑やかな場所でジャスミンは生きていたかも知れない。

 そして彼女はジャスミンが起きて来ると鈍い銀色の髪を靡かせ振り返って言うのだ。――おはよ、ジャスミン。と。


「……変かな。なんだか、マスターの奥さん、知り合っていたら友達になれた気がするの」

「………、……ううん、変じゃないよ」


 彼女が酒場に居ない現実では、全てはジャスミンの妄想でしかない。

 なのに、その一瞬を鮮明に想像できてしまった。自分を呼ぶ彼女の声が、先程ミュゼが髪を下ろし振り返った時と同じもので聞こえる。


「変じゃ、ないよ」


 ミュゼはそう伝えるので精一杯だった。


「ありがとう、ジャスミン」

「……どうしてミュゼがお礼を言うの?」

「さあ?」


 彼女が居ない穴が、こんなに大きい。 

 彼女は酒場に戻ってきた時、この穴を埋めてくれるだろうか。 

 誰も彼もディルを誤解して、あまりに暗かった酒場に光を齎すだろうか。

 ミュゼには現在から辿る未来の形は分からない。でも、皆にとって望ましい形になればいいと思っている。


「ジャスミン。二人とも走って行っちゃったし、私達も急ごう?」

「また走るの……? もう私疲れちゃった……」

「手は引っ張っていけるよ。あと少しだけだから頑張ろ」


 望ましい形を保つため、暁の思い通りになる訳にはいかない。

 ジャスミンの手を取ったミュゼは、少し速度を緩めながら酒場への道程を走り始めた。



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