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生きている世界が一変する。……なんて言葉を、オリビエは聞いた事がある。
それは家族の死別だったり、住んでいる環境の変化だったり、恋に落ちたりという現象で。
オリビエの世界が最初に変わったのは、城下で新聞記者として働き始めてから。
アルセンの田舎で牧畜を生業としていた実家から出て、一人で暮らし始めて、自分だけで生活をするようになって、それまで当たり前にあった家族のぬくもりとか、有難みといったものが身に染みて理解出来た。
家族とは関係は良好だった。やりたい仕事があると言った時も、快く送り出してくれた。
そんな家族は、今、こうして命の危険と隣り合わせだと知ったらひどく驚くだろう。
親は泣くかも知れない。オリビエの二度目の世界の一変に、自分はなんて親不孝なのだろうと思い知った。
今こうして、男に手首を掴まれて夜の街を走っているなんて知られたら。
「オリビエ、大丈夫か」
前を走り続けるアルカネットの手首の力は緩まないが、気遣う声が掛けられてオリビエは小さく肯定の声を返す。
二人だけになって暫くして、時間は無いが心の余裕は少し生まれた。どうやら人殺し集団と言われた彼らは本当にオリビエを生かそうとしてくれているらしい。
「どこ、むかってる、んですか」
「あ? ……あんまり気乗りはしないが、七番街の知り合いが居る所だ」
アルカネットから返される言葉は端的だった。けれどその知り合いとやらが気になってしまうオリビエに、嫌々ながらアルカネットが発言を繋ぐ。
「七番街には娼館通りがある。そこ、各館の責任者は商売敵でもあるが女の為に手を組んでいてな。身の危険がある女なら基本的に誰でも匿う保護施設もあるんだ。自警団の仕事してると、事件に巻き込まれた女の身柄を預ける事もある。今回は、犯罪の瞬間を見てしまったが非番の俺に助けられて逃げて来たって事にしてくれ。何を見たか聞かれたら、俺から口止めされてるから言えないって伝えろ」
「ほご、しせつって……まさか、わたし、そこで働く事になったりしませんか?」
「働きたいなら口を利くが、そうじゃないなら大人しく保護されてろ。手伝い言いつけられる事もあるらしいが、大抵はちょっとした飯の用意か風呂掃除って聞いたぞ」
女の身で娼館に行く――ということは、そういう仕事を押し付けられることにならないか。オリビエの不安はアルカネットが即座に解消した。
アルセン城下は女性の立場が余所と比べて高い。単純な力の差で男に勝てないなら、そういったものにも負けないよう組織を作って権利を守る。
女として生まれただけ、それだけで不利は生じる。そんな不利をものともしない女なんて、アルカネットの知っている限り一握りだ。
「……」
その一握りの中の一人が、アルカネットの義理の姉。
彼女がもし生きてこの場にいたとしたら、オリビエを守ろうとしただろうか。ディルのように回りくどい言い方でギルドメンバーを誘導したりせず、暁に正面から歯向かっただろうか。
どうにもならないことを考えているとオリビエを導く手に力が籠る。
「ある、か、ねっと、さん、痛いですっ」
「あ、ああ。すまん」
不注意を謝罪したアルカネットは力を緩めた。どうも気が逸れてしまっていけない。
本当に、オリビエを逃がしていいのだろうか。ディルは本当に、逃がせと意思表示したのだろうか。反抗期の年齢はとうに過ぎたというのに、彼を信じる為の勇気がアルカネットには無かった。
マスター・ディルのあの口が、これまで非情な事を言ってのけた。アルカネットに下した指令の中には、オリビエに聞かせられないようなものが山のようにある。
今更信じろと言われても、という背を向けるアルカネットと、出来るなら悪くない関係でいたい、と思うアルカネットが心の中で同居していた。
「いいか、俺が今言った事を忘れるなよ。間違っても家に戻ろうとしたり、さっきの事を記事にしようとしたりするな。命が惜しかったら、これまでの生活を忘れろ。運が良ければ実家には戻れるだろう」
「……」
「……どうした?」
これからの心構えを説こうとしている最中、オリビエの速度が弱まった。つられてアルカネットも失速する。
今居る場所は、あと少しで七番街との境になる川と、それに架かる橋が見える。今はまだ建物の間にある細い小道を進んでいた。
アルカネットの視線は、今はオリビエの顔にある。暗くてよく見えないが、その表情が良くないものに染まっているのは雰囲気で分かった。
同時、嫌な予感がアルカネットの体を突き抜ける。それは悪寒とも言っていい。
今の状況で、もうすぐ逃げ切れる筈だというのに、オリビエがそんな表情をしているということは。
「……」
アルカネットが、道の先を見る。
橋は見える。川は、水面自体は見えないが地面との境目で何処にあるかが理解出来る。
問題は、橋の中央だった。
「嘘だろ」
橋の境は夜遅くとも道が見える程度の明かりが灯っている。観光地だけあって七番街はそこ自体がいつも明るい。
だから、アルカネットの視界にはそれがはっきりと見えてしまった。そして同時に理解する。
白銀の髪を持つ長身の男の姿。
その手に握られている、光を放つ剣の刀身。
今、何故周りに人がいないのかが不思議な程だ。
他に衆目があったなら、その刃の輝きに曇りが出るかも知れなかったから。
「――」
『遅かったな』
ディルの唇の動きが、アルカネットにはっきり見えた。
アルカネットも、ギルドの依頼を受けるようになってから両手でも数えきれない程の命を奪ってきた。
しかし、橋に佇む銀色の死神はアルカネットのそれを遥かに超える。戦場という、公に称えられる生と死の狭間で彼は生き残ってきた。
ミュゼの言葉を信じてディルの傍に寄る事を躊躇っていると、ディルは掌を上に向けてそっと出す。そして、指だけ二回折り曲げた。
来い、と。
そう言っている。
「……アルカネット、さん」
アルカネットの躊躇いと同時に、オリビエにも恐怖が訪れていた。小さな背、それを支える足が震えている。
信じろと。
ミュゼとジャスミンは、あれを信じろと言った。
そんな事、アルカネットには出来る訳が無い。
普通の者ならあれを敵意無しと判断する方が難しい。
しかし、アルカネットは一歩を踏み出した。
この一歩は、何かが変わる一歩だと信じた。
見える景色はどんな形に変わるだろう。世界が変わる訳ではない。変わるのはアルカネットの方だ。
アルカネットは、ディルを信じる訳では無い。こんな短時間で気持ちは変わらない。
信じるのは、己の目だけ。
ディルの側に近付く自分の中にある、信念の軸を揺るがさないために。
「アルカネットさん!?」
「ここから先、大声は出すな」
オリビエが悲鳴を上げる。真正面からディルに近付く恐怖から逃げたそうに腰が引けている。
手首を掴むアルカネットの手は、逃走を許さない。
話が出来る程の距離を詰めると、ディルは剣を手放さないまま口を開いた。
「……遅すぎる。別方向から来るかと思っていたが、此方で待っていて正解だった」
「………そうかよ」
「アルカネット」
ディルは視線を別方向へ一瞬だけ向けた。冷えた灰色の瞳が一瞬逸らされたのを見て、アルカネットが違和を覚える。
一瞬だけ逸らされた視線は、再びアルカネットの黒を射抜く。その視線から、何かの意図を読み取るのは難しい。
「暁の人形は、もう一体居る事は覚えておろう?」
「……、………ああ」
「汝は、命令違反など起こさぬ者だと認識していた」
ディルの剣が、アルカネットに向いた。
「汝が、ユイルアルトの二の舞に成る事を残念に思っている」
「………」
「差し詰め、我はアールヴァリンの役回りか。……汝が謹慎のみで済むよう、取り計らおう」
その言葉を、アルカネットは苦笑で聞く。
ああ、本当にわかりにくい男だ、と。
こんな生き方しか出来ない男を、あの女は文字通り死ぬ程愛した。
「……この男の何処が良かったんだよ、……『義姉さん』」
一度として本人に伝えた事の無い呼称だ。今だって、本当の意味で姉と思っているのか問われると疑問が浮かぶ。
けれど、確かに家族だ。育ての親が一緒だっただけだけど、彼の優しさに触れた時間は彼女に向けた甘えを生じさせた。
彼女が居なくなって分かった。
彼女が存在していて当たり前だった日常で、アルカネットが過ごした時間は嫌いじゃなかった。
「オリビエ、もう俺達は何処にも逃げられない」
アルカネットは、そっと手首を掴んでいた手を離す。
「死にたくなかったら――ディルの言う事、ちゃんと聞けよ」
そして、そのままディルの元へと走り出してしまった。
「ただでやられると思うなよ!!」
「……その意気だ」
無手で元騎士隊長に歯向かうなど自殺行為に等しい。それでもその姿は、オリビエを守ろうとした自警団員だ。
正面から向かってくるアルカネットを、一度はギリギリの所で躱して距離を取る。きつく握りしめた拳が、ディルの視界に入った。
拳ひとつで、武器を持つ者に勝てるなんて誰も思っていない。現に。
「――遅い」
再びディルに挑もうとしたアルカネットは、胴に刃を受けてしまう。
「っ……!!」
その呻きはどちらの声だろう。オリビエの視界では、貫いたのか、それとも横から刺さっただけなのか分からない。けれどアルカネットの胴に並んでいるディルの剣から鮮血が流れている。大声を出すな、と言われたオリビエは自分の口を両手で覆い、掠れた高音が僅かに漏れるばかりとなっていた。
どさり、アルカネットが地に崩れる音がする。返り血なのか、ディルの剣を持つ逆の手が血で濡れていた。
地に滴る血液は赤に見えず、黒ずんだものに見える。
「……、………。残るは、汝だけだオリビエ」
「っ……あ、い、……っい、いや、です」
「逆らえば、要らぬ痛みを伴うだけだ。……痛みは、万物のものが忌み嫌うとされている。汝もなのだろう?」
血に塗れた刃を持って、ディルが距離を詰める。その足取りは緩やかで、オリビエは恐怖に震えているしか出来ない。
ふと、ジャスミンから受け取った毒瓶の存在を思い出した。借り物の上着のからそれを出し、手に取る。
「っ……」
中のものを使えば、逃げられるかも知れない。何処に逃げればいいかももう分からないが、この場でディルに殺されるより僅かでも長く生き延びられる。
瓶を握る手が震えてしまう。蓋を開けるのはきっと簡単だ。それを、ディルに投げればいい。
「其れは、未だ持っておけ」
中が何かも見透かされている。オリビエの手は動かない。
今まで、人に向かって武力を行使したことなんてない。一方的に恐怖を味合わされているのに、誰かを傷付けようなんてオリビエは思わなかった。
助かりたい。けど、心は揺れている。
皆が信じろと言ったこの男を、今もまだ信じて良いのか。
それから起きたのはまるで一瞬のうちの出来事のようだった。
肉薄したディルが、オリビエの腕を掴む。それから腹を剣先で撫でるように裂いた。
たった一瞬。
肌を曝け出すように破れたオリビエの腹部を腕で覆ったディル。
その場所からは血が滲み、生暖かい感触がオリビエの腹に感じられた。
「……、あ、……。あ」
オリビエの目が見開かれる。そのまま担いだディルは、次に橋まで足を運ぶ。
ディルは一瞬だけ目を閉じた。そして、祈りの言葉でも口にするように何かを述べる。
オリビエの体が、もっと高い所まで浮かんだ。ディルが力を込めて抱き上げ、それから橋の上から川に落とす。
重い物が水に落ちる音。ディルは暫く水面を見ていたが、オリビエの体は浮かんで来なかった。それを確認したディルが、視線を四方に巡らせた。
「………」
ディルの腕からは、まだ血が滴っている。