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六番街の暗がりを、オリビエが走る。田舎では牛を追って走っていたので体力があり足が速い事が自信であったオリビエだが、気を抜くと誰かが追ってくるような足音を聞いて瞳に涙が浮かんでしまう。
逃げなきゃ。
でも、何処へ?
そんな自問自答が繰り返される中、時折身を隠せそうな場所を探そうとしても、距離を稼ぐ方が安全策に思えて走り続ける。
今聞こえる足音は誰のものだろうか。自警団をしていたアルカネットであればいいとも思った。けれど人殺し集団の一員であると聞いてしまえば、自警団員の持ち得る正義とやらを疑ってしまう。
淑やかな様子だったミュゼはどうだろうか。でも彼女だって武器を持っていた。人殺し集団が武器を持つ理由は一つだろう。
話し易かったジャスミンならどうだ。彼女が一番話が通じそうだ。もしかしたら温情を見せてくれるかもしれない。……けれど彼女が命令に背いたなら、彼女だって殺されてしまうのではないか。そうなると彼女だって死にたくない筈だから、やっぱり彼女も殺しに来るんじゃないか。彼女は武器を持っていなかったが、それが逆に怖かった。
ディルは一番無理だ。初対面時の会話からしてオリビエには不快なものだった。彼に命乞いをしても絶対に聞き届けて貰えない確信がある。彼に見つかったらいっそ、一思いに殺してくれと願う事しか出来ないのではないか。
オリビエの疑心暗鬼は無理のない話だ。あの四人とは特別な交流がある訳ではない。信頼なんてそれ以前の関係である人物達に恐怖を抱かないようにするなんて不可能。
左、右、真っ直ぐ、左、左。
進む道の曲がり角で、攪乱できるようになるべく曲がる。しかし、恐怖で縺れる足にはすぐに限界が来る。
「っ、あ!!」
建物が立つ小道に入って少しして、小さな段差に気付かず爪先が引っかかってしまう。勢いよく転んだオリビエの体が地に叩きつけられる。
痛みを堪えながら起き上がるが、上体を起こして座りこむ頃には足音の主がすぐそこまで来てしまっていた。
「――おい」
肩が無意識に跳ねる。やだ、と、怖い、が感情になって混ざりあうが、唇は閉じてしまって声にならない。
この声はアルカネットだ。足音もゆっくりになっているから、もう今から走っても逃げられない位置にいるのだろう。
「闇雲に逃げるな。それで俺達から逃げられたとしても、別の危険があるからな」
オリビエの心の中はぐちゃぐちゃになっているのに、耳に届く声は優しい。
声が背後から聞こえる。足音が、止まった。
「オリビエ。……お前が俺達と関わってしまった時から、お前の末路は決まってのいたかもしれない。だから言ったんだ、無茶な事はするなって。俺は、何も知らなかった訳じゃない。知ってたからこそ、お前に警告してたんだよ」
「………っ」
「もう、無駄になってしまったけどな」
アルカネットが真後ろに居る。
見降ろされるようになってから、オリビエの瞳から涙が瞬き無しに零れ落ちた。
「少し、加減して走ってたけど転ぶなんて思わなかった」
「………ん、……ですか」
「……」
「ころす、んですか。わたし、を」
震える声で、歯の根が合わない口で、オリビエが最後の抵抗のように問いかけた。
それに即座に返答できるアルカネットではない。今でも、心は揺らいでいる。女子供に手を掛けるなんて本意ではない。けれど命令に背いた末路は知っている。
ああ、俺もあいつと変わらず馬鹿みたいだ。
どっか知らない場所で果てて、今でも英霊なんて言われ続けている、死んだはずの女みたいに。
命令を受けて、この期に及んで、オリビエに死んでほしくないなんて。
「俺は――」
「アルカネット!!」
夜の闇の中で押し殺せなかった声が二人の耳に届いた。
ミュゼとジャスミンが追い付いたらしい。ジャスミンは肩で息をしているが、ミュゼにはまだ余裕があるようだ。
オリビエに駆け寄ったミュゼは、アルカネットの目の前で膝を付いてその背を撫で始めた。
今から殺すはずの相手に何をしている?
仕留めろ、との命令を受けたのは同じはずで、だからオリビエを追っていた筈だ。
心の中の疑問は口から外に出ていない。なのに、ミュゼは視線をアルカネットにちらりと向ける。
「……アルカネット、まだ、行ける?」
背を撫でられたオリビエは、不安と安堵が入り混じって嗚咽を溢し始めた。啜る音が聞こえて、それだけの恐怖を一方的に与えていたのだと今更心が痛んだ。
行ける、と聞かれてもアルカネットには理解出来ない。状況が変わった事に気づいていても、もとより鈍感な性格なのでミュゼの心を透かし見るなんて出来なかった。
「行ける、って、どこへ」
「はぁ? 気付いてなかったの!?」
呆れと怒りが混ざった声でミュゼが怒鳴り付けるが、時間と場所を改めて思い出して咄嗟に口を噤む。冷静さを欠いているのは彼女もらしいが、ばつの悪そうに視線を逸らすとアルカネットに顔を向ける。
その一瞬の表情で、死んだはずの先代酒場店主を幻視した。同じ男に育てられた、ディルがアルカネットの姉と言った女。顔の作り自体は元から似ていたが、まるで彼女そのもののような気さえして。
生きているかも知れない。
ディルから言われた言葉が頭から離れなかった。
もし馬鹿なあの女が生きているとしたら。
「……気付いてないって、何をだよ」
「マスターが言ってたろ、七番街まで逃げられたら見つけられないって。つまりあれは、七番街まで逃がせってこった」
こんな地獄みたいな現状と、離れられるかも知れない。
「……あいつが!? ディルがそんな意味で言ったってのか!?」
「分かってないのアルカネットだけだよ。ジャスミンだって気付いてた。わざわざ言わなくても分かるような事言うようなマスターじゃないじゃん。……そりゃ、私だって分かりにくいとは思うけどさ」
ミュゼの声はアルカネットを責めているようだった。
気付かない事にではない。
「マスターのこと、今でも信じてないんだろ」
「……!!」
二人が間に信頼関係を築いていないことに、だ。
「それでよく今までやれてたな……っていう話だけど、補助に回ってたアクエリアの苦労が偲ばれるよ。流石だよ、有能なのは昔からって訳だ」
「……だが、だからって、あいつが本当に逃がしていいって言った訳じゃないだろう……? もし暁の命令をしくじれば、身が危ないのは全員だろ」
「そこんところは、まぁ、オリビエに掛かってるわけだ」
再び話を向けられたオリビエは、縋るような瞳をミュゼに向ける。口調は以前聞いたものと違っている為に動揺も見えるが、今はそんな事を主な疑問として思考する余裕はない。
口に出さずとも生への渇望は視線に現れていた。死にたくない、と、震える唇が象る。
「……いいか、オリビエ。この三人の中じゃ、アルカネットが一番体力ある。んで、街にも一番詳しい筈だ。付いて行け。それで、言われた通りにするんだ」
「いわれた、とおりって」
「いいか。絶対に。絶対に、アルカネットに逆らうな」
念押しを続けるミュゼに、やっと息が整ってきたジャスミンが近寄った。そしてミュゼと同じように地に膝を付く。
自分の服の中に突っ込んだジャスミンの手は、出る時に陶器で出来ているような滑らかな曲線を描く筒を持っていた。蓋は中に入っているものが漏れないよう、きっちりと閉められている。
「オリビエさん、護身用です。これ、危険な目に遭った時は思い切り中身を相手にかけてください。かけた後は、相手の様子を観察しようとせずに、すぐに逃げて」
「……これ、なん……ですか」
「自家製の毒薬、です。自分もかかると危ないので、万が一触れた場合はすぐ洗い流してください。飲ませようとは思わないで。無事に逃げ切ったら見つからないよう地面に深く穴を掘って捨ててください」
捨てろ、と言われて体が強張る。
触れるだけで危ないという毒を作るジャスミンは、やはりこの集団の仲間だった。一番温和そうに見えていても、裏で何をやっているか分からない。
けれど、今は信じるしかない。
渡された毒薬を握り締めたオリビエは、震える膝で立ち上がる。その時にはミュゼが手を引いて補助をし、その手はゆっくり離れていく。
「生きろよ。……私達も、状況確認してマスターと合流したら追いかける。そうだ、これ」
ミュゼが自分に使っていた髪紐を解いた。それをオリビエの短い髪に括り、手持ちのハンカチで髪を大雑把に隠す。
無いよりはまし、程度の見た目の変化。同時にジャスミンが自分の茶色の上着を脱いで肩に掛けてやった。
即席の外見変更。これで何が変わるとも思えないが、オリビエは上着から感じるジャスミンのぬくもりに目を伏せた。
「……行くぞ」
アルカネットは、オリビエを無事に逃がすことくらいしか出来ない。不愛想にそう言うと、オリビエの手首を掴んで力を込めず引いた。
今、ミュゼとジャスミンの出来る事はこのくらいだ。あとはアルカネットとオリビエを見送ると、二人は顔を見合わせる。
「……これが王家にバレたら、私達どうなっちゃうのかな」
不安が隠し切れないジャスミンの呟きを、ミュゼは聞き逃さない。
どうなるか、なんてミュゼにも分からない。夜空を仰いだが、建物の間から見える空は小さくて、星のひとつも見えなかった。
「バレないように、どうにかするしかないよ。いつかのユイルアルトの時みたいに、死亡を偽造するか……それとも、温情を期待して馬鹿正直に報告するか。ヴァリンがいなくて気楽だったけど、いないならいないでこういう時困るんだな……」
「……そう、ね。ヴァリンさん……、もし居たらどうしたかしら。あの人が一番にレイピア抜いたりしないかな」
「どうだろう? ……でも殺さない気もするなぁ」
「どうして?」
ミュゼは不安を掻き消してやるために笑ってみせた。
「オリビエのあの髪も、赤に近いってったって茶色だろ? あいつ、茶色の髪の女には甘いから」
「もう、ミュゼったら」
「……こっちも、もう行こうか。マスターは右から来るって言ってたね、探しに行こう」
「………あの、ミュゼ」
「ん?」
「どうしてミュゼは、マスターが『逃がせ』って言ってるって思ったの?」
ジャスミンの疑問は、ここ半年程度しか関わりのないミュゼがそうしてディルの言わんとしたことを理解出来るのかだ。
度を越して人との関わりを不得手としているディルの言葉足らずは勿論、建前に隠れた本意さえ汲み取ることが出来て、普段からディルと普通に話が出来ている。
確実に、これまでアクエリアが酒場の緩衝材としてやってきた事が誰に言われずとも出来ている。それは天性のものなのか、それとも。
そんな疑問さえ分かっているミュゼは、また笑って答えた。
「他人じゃないからかな」
「どういう意味?」
「機会があったら答えるよ。でも、今はマスターを探そう。時間が無い」
ディルを探すために体の向きを変えた背中に、解けた髪が真っ直ぐ落ちる。
綺麗な金髪だ。親友であるユイルアルトの色より淡い金糸は、彼女の動きに合わせて揺れる。
金の髪だ。連想するなら親友が先の筈だった。
なのに一瞬、ジャスミンの瞳には夜闇に紛れているせいか、鈍い銀髪に見えてしまった。
「さ、行くぞジャスミン」
その声さえ、一瞬ミュゼとは違う誰かの声が混ざった気がした。
自分の目と耳を疑う。
知らない女性に見えてしまったのだ。
知らない女性の声が聞こえたのだ。
なのに、それらは以前より知っているもののように思えて頭が混乱する。
「……ミュゼ?」
「ん?」
「……ミュ、ミュゼ……よね。びっくりした」
「どうしたんだ、大丈夫か?」
「ううん、大丈夫」
過去の知己を思い出せないような感覚だが、鈍い灰色の髪色を持つ女になど出逢った事が無い。けれど、しっかりと聞こえた自分を呼ぶ声は、確実に記憶の何処かにあった。
少し低めの、掠れが入った女性の声。それから、背中に掛かる長い髪。不敵に笑う表情。
ジャスミンは頭を振る。今思い出そうとする時間さえ惜しかった。今は、ディルを探す事が先決。
「……行きましょ、ミュゼ」
出逢ったことのない筈の女性の姿を幻視するほど疲れているのか。
そう考えて思考を保留にしたジャスミンは再び夜の街を駆けた。