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「え?」


 漏れたオリビエの声は気の抜けた、状況の分かっていない声。

 いきなりオリビエは手を引かれ、女の胸元に背中を引き寄せられる。そして花束を持っていない左の腕で胴を固定された。


「停止要請。追跡拒否」


 人質を取られ止まれと言われれば、ディルだって速度を緩めない訳にはいかない。まだ女は動かない、それだけが救い。

 失速した足は地を踏んで止まる。暫くして、肩で息をしているミュゼが追い付いてきた。


「……人質を取ってまで窃盗をしたとなるならば、其れは強盗と成る。責任は暁に問えば良いか?」

「強盗とは前提として窃盗を未遂既遂に関わらず行った場合にのみ成立します。私は窃盗していません」

「未だ宣うか」


 人質、の言葉に状況を理解し始めたオリビエは震え始めた。膝が笑って立っていられないだろうに、女は座る事を許してくれない。

 オリビエにとって一度見かけただけのミュゼが槍を持って立っている事も、不安を煽る一因となっていた。外面を取り繕って淑女を演じていたミュゼの今の格好が本来の姿なのだ。


「……不味いな」


 ミュゼが舌打ちした。武器を持っている所をオリビエに見られたとなっては不利益しかない。記者の奴らはどんなことも新聞のネタにする――とはアルカネットの言。ミュゼも概ねその通りの事を思っていた。

 ちらりとディルの顔を斜め後ろから窺うが、この男の考えている事は子孫であるミュゼでも読めない。視線はそのままオリビエに向けて。


「オリビエさん、どうして此処に? こんな時間に出歩いていたんですか?」


 優しく聞いたつもりだったが、勝手に棘のある声になってしまう。肩を震わせたオリビエは、震える唇で語り始めた。


「……ねよう、って、おもって、たんです。けど。窓の外から……光が見えて。何かあったんだって、直感して、記事になるようなことなら、って」

「それで、外に?」

「わ、わたし、いやです。こんな、怖い……」


 荒事を積極的に調査していた筈のオリビエは、これまで持ち前の素早さと運の良さで生き延びていた。こうして捕まってしまうのは初めてのようで、一般の世に住む女性と変わらず非力な彼女は震えているだけだ。それも、人形相手となれば逃げ出せもしまい。

 戸惑いと恐怖に怯えるオリビエは、既に恐慌状態一歩手前だった。ディルも無言で二人を見ている。

 しかしミュゼは気付いていた。隙を窺っているだけだ。これでもし女の注意が少しでも逸れたら、オリビエの身の安全など気にも留めずに捕縛するだろう。

 緊迫した空気はいつまで続いただろう。まだアルカネットもジャスミンも来ていない。だからそんなに時間は経っていない筈だ。

 その場に響く、別の者の声が聞こえるまで膠着していた。


「腕を離してあげなさい、ラドンナ」


 鼓膜に張り付くような粘っこさを持つ声。

 思わずミュゼは顔を顰め、ディルは声の主を探した。

 声の主は悠然と、曲がり角の向こうから姿を現す。いつものように、赤で縁取られた闇に紛れる黒の服と、ディルのそれより白く細い髪の毛先を揺らしながら。


「――マスター」


 現れたのは暁だ。

 命令されて、ラドンナと呼ばれた女が腕の力を抜く。


「オリビエ、大丈夫か……っ!」

「動くな」


 地面に座り込んだオリビエは、抜けた腰で地を這いずるようにミュゼの方へと近づいた。ミュゼもミュゼで、ラドンナを抱き起すために駆け寄る、つもりだった。

 暁の声が冷たくミュゼに向けられる。そう言われてしまっては、足を動かす事が出来ない。

 ミュゼの停止を舐め回すような視線で確認した後、夜闇の中で暁が満足げに笑みを深めた。

 その頃には後続のアルカネットとジャスミンが追い付いて、不穏な気配を感じると同時に抱きかかえられたままだったジャスミンが地に下ろされた。


「これはこれは皆さん。こんな夜によくもお揃いで。はてさて、今はどんな状況でしょうねぇ」

「……貴様の人形が、我が妻に手向けた花束を窃盗したのだ。其処な女を人質にしてまでな。此れでは強盗ではないか」

「強盗。ほう。ウチの人形が強盗したと? これはすいませんねぇ。なにぶん、ラドンナは製作してから月日の浅いもので、まだ世間様の常識というのが理解出来ていないのかも知れません。誉れ高きアルセンが誇る人殺し集団の皆々様の血で汚れた御手を煩わせるなんて、申し訳ありませぇん」


 大仰な手振りで、口先だけの謝罪を聞かせる。ディルの怒りはそれで収まる訳も無く。

 暁は分かってやっている。そして再び唇を開いた。


「――墓守に金でも握らせた方が話が早かったですねぇ?」

「貴様……!」


 今、ディルの手に剣があったならそれを躊躇わず振っていただろう。

 しかしディルの苛立ちを余所に、オリビエが驚愕に満ちた顔を全員に向けていた。


「……アルセンの……人殺し集団……?」

「おやぁ?」


 暁の笑みはオリビエに向いた。


「覚えのない顔ですねぇ? こんな初心なお嬢さんを誑し込んだのはディル様ですか? それともアルカネットさん? よくないですねぇ、お二方とも大切な方が他にありながら……って、ディル様の方はもう鬼籍に入られてるんだから関係ありませんかね! あはははっ!!」


 人を苛立たせるのにかけては天性の才能を持つ暁の声に、アルカネットさえ険しい顔を向ける。

 自分の言った事がそこまで笑えたのか、暁は自分の目に浮かんだ涙を拭う素振りさえしてみせた。しかし、顔を上げた次の瞬間には冷酷なギルド監査役としての指示を出す。


「ギルドの人員でない部外者に、ギルドの情報を知られた以上生かしておく訳にはいかない。『j'a dore』所属各員に告ぐ。その女を処分しろ」


 暁の命令に背ける権力を持つ者はこの場に居なかった。

 ディルを除く全員に衝撃が走ったが、それがこのギルドの常なのだと嫌という程知っている面々は無言で俯き、そしてオリビエを見た。


「ひ、」


 声にならない悲鳴もオリビエのもの。他の全員の視線が自分を向いている事態に、死の恐怖が再び目の前に訪れたのだと悟る。

 ディルも。

 アルカネットも。

 ミュゼも。

 ジャスミンも。

 その瞳には、オリビエだけが映っていた。


「っあ……ぅあっ、そんなぁっ、いや。嫌、いやっ……!!」


 何に手を出そうとしていたのか、今更理解する。

 アルカネットに止められた時に、止めておけば良かった。

 もしかしたら、オリビエが追っていた事件の犯人が彼らの内の誰かなのかも知れない。けれど今の状況で、心の天秤が重きに傾いたのは事件の真相ではなく自分の命だ。

 風を切る音がして、ミュゼの槍がオリビエに向いた。

 アルカネットはディルに剣を渡している。

 ジャスミンは肩を窄めていたが、視線はオリビエの動向を捉えていた。

 あまりの恐怖に、オリビエはその場で背を向けて駆け出してしまった。声も出せず、夜道を走る。


「っ……」


 ギルドメンバーは躊躇っていた。

 暁の命令はギルドマスターであるディルのものより優先順位が高い。これまで殆ど飾りのように長の位置についていたディルではなく、暁の命令に反論など血統も立場も上のヴァリンでしか不可能なことだ。

 アルカネットが走り出すか否かで足に惑いが生じている。ミュゼだって同じで、ジャスミンは追いかける考え自体が無いように胸の前で手を組んでいる。

 市井の者に手を掛けるのは、本意ではない。アルカネットはこれまで暗殺の経験が浅かった時に数度だけあったが、女を殺せと命令されるのは初めてだった。

 どうすればいい。足は止まったままだ。


「聞け」


 ディルの声が耳に届いたのは、その時だ。


「此れより各員散開せよ。ミュゼはジャスミンと左舷より回れ、アルカネットはあの女の背をこのまま追え、我は右舷より追跡する。見つけ次第仕留めよ。……あの者が向かった道の先は七番街であるな」


 声はいつもの冷徹で、冷静なマスターの声だ。


「七番街に入られたら、()()()()()()()()()


 観光地として比較的開かれている七番街は人の数も段違いで、隠れられる遮蔽物や施設も六番街より多い。それらを虱潰しに探していては逃げられる可能性が高い――という三人にとっては蛇足のような言葉の裏に、三人は別の意図を感じていた。

 ミュゼとジャスミンは、これまでの付き合いから冷たいだけでない不器用な人となりを知っている。だからこそ、そんな言葉に『オリビエを七番街まで逃がせ』という裏を感じた。

 けれど、アルカネットは違った。


「……ちっ」


 舌打ちを返事とし、アルカネットが拳を握る。

 ディルと関わった年月は一番長い。問題はその密度と関わり方で、アルカネットは今でも複雑な心境である上でディルを完全に信じ切れていない。

 だから、アルカネットは二人が感じられた裏に気付かず、言葉通りに受け取ってしまう。

 『殺せ』と。

 そう命令されてしまえば、アルカネットに考える余地は無い。これまでそれを主な依頼として受けていたのだから。


「……じゃあ、俺はこのまま追うぞ」


 素手でも、人は殺せる。

 オリビエのような小柄な女なら、首を折るのでも難無く済ませられるだろう。

 一足早く走り出したアルカネットの背を見送った後、ミュゼもジャスミンも躊躇いながら走り出した。


「……暁」


 ディルはまだ残っている。


「貴様が余計な口を開かねば、あの女に聞かれる事は無かったのではないか」

「んん? えー、そうでしたかねぇ。すみませぇん、気持ちが昂ると知らないうちに不要な事まで喋り出しちゃうのはウチの悪い癖ですね。いやー、でもそうならいい手だと思いません?」


 悪趣味な笑みを浮かべた暁に、ディルの視線はもう向かない。


「ウチがぺろっと言った後に貴方達に殺せって言えば、誰も彼も殺害対象になるんですから」

「……下衆め。貴様の尻拭いをするために我等が居る訳では無いぞ」

「別に貴方が嫌ならいいんですよ。ギルドの権限をウチがそっくり頂くだけです。元々、あの方と結婚してギルドマスターになるのはウチだった筈なんで」


 暁の無駄口に、ディルの剣が光った。


「……此の場で貴様の首を飛ばす方が早いと思うが、如何か?」

「おお怖い。ラドンナにも随分手荒な真似をされたようですし、全くディル様を敵に回すのではありませんねぇ。どうです? 以前のスピルリナのようにはいかなかったでしょう。あの子も随分強く、硬くなりましたよ。今度手合わせしてみますか?」

「其の人形が我が手向けた花を盗んでいると知っていながら、何故放置した。貴様の命令ではないとの事だが」

「あー、その件ですかぁ? えーとぉ、話すと長くなるんで、また今度にしてくださいよ」


 言うが早いか、ラドンナと呼ばれた女の人形は花束と一緒に暁を抱える。肩に乗るような体勢で、足だけは固定された状態で暁が面倒そうに声を出した。

 逃げられる。直感で思ったディルは剣を握り直す。投擲武器を持つように柄を持ち、それをラドンナに向かって。


「『疾』!」


 踏み込んだ一歩、全体重を剣に込めるように投げ放つ。声に呼応した魔宝石が光り、空を裂く。

 しかしそれさえ分かっていたかのように、ラドンナの体は剣を躱した。けれど避けきれなかった花束の萎れた花弁が、切っ先を受けて更に散らばった。


「気が向いたらお話しして差し上げますよ。それではウチはこれで失礼します、せいぜいあのお嬢さんとの追いかけっこを楽しんでくださいねぇ。あははははっ!!」


 耳障りな笑い声を残し、暁が去っていく。軽く跳躍し遮蔽物を踏み越えて逃げるラドンナの速度は、先程と大差ない。

 投げた剣が無ければ、暁とラドンナを追っても倒せないだろう。ディルは収穫が無かったことに失意を感じながら、剣を拾いに向かう。


「……下郎め」


 その呟きを聞いたものは、誰も居ない。

 拾った剣先には花弁が、離れるのを惜しむかのように張り付いていた。



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