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「あの女が窃盗犯って訳か!?」
「俺が知るか!」
女とディルを追っているミュゼとアルカネットは、息切れしながらも状況伝達している。
普段重量の軽い武器を扱うミュゼとは違い、アルカネットの普段使いの武器は大剣と言って良いほど大きい。標的を追う仕事には不釣り合いのものなので、今回は丸腰で走っている。
「あの女、足早ぇな」
「ディルより早いんじゃないのか……。っあ、ディルまた剣振った。当たらないな」
「実況は良いから! 私も体力に限界ってのがあんだよ!」
夜空の光だけで確認できる状況は、ディルには旗色が悪いらしい。
ミュゼが光を視認したその瞬間、ミュゼの足が縺れた。足を止めかけるアルカネットに、ミュゼが手でスカートをたくし上げて己の太腿に滑らせる。
そこに括り着けられている棒は三つに折りたたまれていた。棒の片方の先には刃が付いている。
「アルカネット!」
その棒を、投げた。
「使え!!」
確実にミュゼよりアルカネットの方が足が速いので、随行より先行しろ、という思いを込めて吐き捨てる。察したアルカネットが三つ折りの棒――ミュゼの愛用の槍――を受け取った直後にミュゼを置いて速度を早めた。
アルカネットだって足は速いが、ディルのあんな化け物じみた足の速さを、ミュゼには理解出来ない。確かにミュゼの体には彼の血だって流れているのだろうが、随分前の世代の血だ。朧げな幼い頃の記憶から父と母の姿を思い出してみるも、両親はあんな化け物じゃないと頭を振る。
彼の血は薄れた。同時に、希薄な人間味も。彼を『人形』でなく『人間』に落としたのは、紛れもなく妻の存在だろう。
「ミュゼ、大丈夫?」
「うお!?」
ミュゼの思考は、ジャスミンの声によって掻き消される。思わぬ時に掛けられた声に、全身を震わせた。
「ジャスミン、なんでここに」
「何で、って……皆、墓地の中をずっと回ってたのよ。気付いて無かったの?」
「え、……あ」
確かに、ミュゼは墓地を出ていない。街と比べれば広くないそこをいつまでも走り回っていたなら、ジャスミンが追い付くのは当然の事だった。
今居る位置を確認しようとするも、ミュゼは今まで来た覚えのない場所だった。この数日で祈りに回り切れていない所らしい。
「ここは墓地の一番奥に行く道の途中よ。もう少し奥は昔、引き取り手のない遺骨を一纏めに埋葬していたそうなの。皆はそっちに行ったみたいね」
「……随分詳しくなったんだな」
「薬草探してたら、自然とね。奥には合同埋葬の石碑もあってそれ読んだだけで、詳しいって訳でもないんだけど」
物音は遠ざかって、秋風に紛れて聞こえなくなる。ジャスミンはミュゼの肩を支えるようにして立ち上がらせ、その場を見遣る。
「どうしてこの周囲だけでしか逃げないのかしら? ……花束はもう持ってるみたいなのに、ここから離れようとしないのよね」
「……妙だけど、なんとなく分かるかな」
「分かるの……」
「ココから出て足取り掴まれたく無いんだろ。完全に引き離せないんじゃ、帰れもしないだろうから」
それで同じ場所を回り続けるのはどうなのか――ジャスミンは思ったが、他にも理由があるのだろう。息を整えるミュゼは道の先を見ながら、ジャスミンの手首を掴む。
「え!? ミュゼ!!?」
「走るよ。こうなったら、ジャスミンにも来てもらおう」
「どういうこと!? え、ちょっと待って!!」
強引ではあるが、普段の足の速さを考えたら手助けした方が良いようで、そのまま夜の墓地を駆け抜ける。
もし幽霊なんてものがいたなら墓地の静謐な雰囲気に何かを垣間見る事も出来たろうが、それも二人には無縁の話で、走る二人の速度はついにディル達の居る場所まで届いた。その頃にはジャスミンは息も切れ切れだったが、アルカネットの息はもっと荒かった。
「ミュ、」
名をきちんと呼べない。肩で息をするその先の手に握られたミュゼの槍は、疲労の為か震えている。
少し前方ではディルと女が対峙していた。これまでアルカネットも加勢していたから、これ以上逃がさないで居られているというのがありありと分かる。
ミュゼは整わない息のまま、アルカネットの手から槍を掠め取った。慣れ親しんだ手触りが戻ってくると同時、軽やかな身のこなしで女に肉薄する。
最初は刃は使わず、横薙ぎ。女は地を這うような体勢になりながら避けた。
「マジでただのシスターじゃねえなぁオイ!!」
ミュゼにも、女への見覚えは無い。顔はよく見えないが、出で立ちからして覚えが無い。
恫喝にも一切の動揺を見せない女は、胸元の花束を守っていた。これ以上散らさないようにと、両腕でしっかりと抱いている。だから反撃もまともに出来ない。
「ミョゾティス、邪魔はするな」
「邪魔しねぇ程度に手伝ってやるよ、マスター。今なら当たれば袋叩きし放題だ」
「必要以上に苦痛を与える方法を我は好まぬ」
「そーか、よっ!!」
ディルが左側から、ミュゼが右側から女を仕留めに掛かる。合図も何もなしに息の合った二人は、女の姿を捉えた。
ディルの刃が右腕、ミュゼの切っ先が左足を突き刺した。しかしその感触は柔らかいものを貫くものではなく、寧ろ、ミュゼの槍は表面を上滑りするだけで宙に放り出されてしまう。
「ぬ、なっ!?」
驚愕に大きくなるミュゼの声。体勢を崩してそのまま地に転がってしまった。
ディルの刃も、女の腕を捉えた者の切断には至らない。阻まれるかのように腕の途中で止まっている。
女からは血の臭いがしない。暗色のシスター服では視認できるものではないが、血が流れているようには見えなかった。現に、ディルの刀身に雫は伝わない。
「……予定時刻、超過。現段階で、マスターからのお叱り確定」
「随分狭量なのだな、暁は」
「は……? この女、暁の関係者なの?」
暁の名が出た瞬間に、ギルドメンバーの表情が強張る。腹に一物隠している男だと思っていたが、一物と言うには大きすぎるもののようだ。
女は大きく腕を振り払う。同時に食い込んでいたディルの剣が離れ、女は身軽に宙を舞い四人の傍から離れていく。
「方針変更。範囲を墓地から街内に拡大。異常発生報告」
その声は誰に告げるでもなく、自分一人で報告を完了しているようだった。
すると女は自らの懐に手を入れ、何かを取り出し着地と同時に空中へと放り投げる。
――途端、閃光。日光と比べるとそれ程ではないにしろ、灯りの無い墓所では目立つ光が解き放たれる。連絡用の魔宝石だというのは、投げられた後に気付いた。
「アルカネット、連絡係が外に居る! 逃げ道を塞げ!!」
「ん、な、事言ったってよ!!」
ディルの命令に即座に対応できるほど、アルカネットの体力は戻っていない。床を転がっていたミュゼも復帰に僅かにだが時間を要し、女の走り出す速度に追いつけない。
この際とばかりに、ディルは剣をその場に放り出し女を追いかける。攻撃力より速度を優先したようだ。擦れ違いざまのアルカネットに「拾って持って来い」と言い捨てて。
ジャスミンは置いていかれてしまった。けれどアルカネットの背を擦る事は出来る。ディルの剣を持とうとしたが、非戦闘員である医者の細腕では重量のあるそれを持ちあげる事が出来ずによろけてしまう。見かねたアルカネットが剣を手に取るが、初めて感じるその重量に顔を顰める。
「……あいつ、こんな重いの扱ってるのか」
「お、重い方なの? 私、よく分からなくて。皆こんな重さの扱ってるなら、凄いなって」
「そんな訳あるか。……自警団じゃこんな重さのものなんて扱わない。持って動くだけで疲れるようじゃ、捕物の時に不利だからな」
言いながらアルカネットがジャスミンの腰に手を回す。それはまるで、親しい女性に寄り添い先導するように。
え、な、と単語にすらならないジャスミンの声が漏れるが、アルカネットはそれに気を回してなんかいられない。そのまま横抱きにすると、宣言を聞かせた。
「走るぞ!」
「え、待って、え、えええええ」
駆け出すアルカネット。ジャスミンは自分で足を動かすよりも早い速度で移動している。ミュゼから手を引かれた時もそうだが、自分一人では出しようがない速度に目を白黒させていた。
速い! 速い!! と、声に出せないジャスミンの不安は普段の男性恐怖症を遠ざけてしまった。抗議して本当に速度を緩められてしまっては、望ましくない事になると分かっていたから。
「我慢しろ。……悪いとは思ってるよ」
ジャスミンがアルカネット個人ではなく男性自体が苦手だと知っているから、アルカネットは罰の悪い顔でそう囁く。しかし本当に苦痛に思っているのはそっちではない。
不格好な二人は、墓場の外まで他の面々を追いかけるために同じ体勢で走り抜けた。
墓所の外は、死というものを忌避する者が住居を構えることは無い。暫くは空き地が広がり、そこでは遮蔽物になるようなものは無い。
直線を走る女とディルは、速度ではほぼ互角だった。俊足を誇る筈のディルが、離されることはなくても追い付けないでいる。ミュゼは引き離されてしまったが、何とか二人の姿を見失わないよう粘っている。
流石にディルの息も上がりつつある。対する女は暁が作成した人形であるためか速度は落ちていない。ぐ、と食いしばる歯が音を立てた。
何があろうと、取り逃がす訳には行かない。妻に繋がる手掛かりになるかも知れない人物を何としても確保したい。手荒になろうが構わなかった。
道の上にぱらぱらと落ちた枯れた葉が、ディルの靴に踏まれて音を立てる。枯れた愛の形になど、もう見向きしている余裕も無い。
女はあと少しで曲がり角に差し掛かる。そこで見失ってしまえば、この数日の張り込みも無駄になってしまう。また来月この女が花束を回収しに来るかどうか、こんな荒事になってしまった今はもう分からない。
待て、とディルが心中で願う。
願ったって叶えてくれる神はディルにはいない。なのに、声に出すことのない思いが胸に渦巻いた。
逃がしてしまえは、きっと、もう。
走り続けるディルの目の前で、曲がり角に差し掛かった女が突然身を翻した。
それは曲がり角に対して逆方向に。再び花束が大きく動いて花弁を散らす。
「わぁ!?」
その声は女が発したものではない。無論、後ろを走るミュゼのものでもなくて。
減速しないディルの視界に、曲がり角の向こうから声の主が姿を現す。
「びっくりしたぁ……。……大丈夫ですかお姉さん?」
紛れもなく、オリビエだった。
「あれ、その花束って」