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期間超過というのに、ディルは残った三人に何も言わなかった。
その日はアルカネットに見張りの指示を出していないというのに、それまでと変わらず日付が変わるまで外を見ている。ジャスミンもミュゼも、採取した薬草の乾燥具合を見るだけで帰る準備をしていない。
ディルはそれを有難い事だと思っていた。アルカネットもディルを嫌いながらも、亡くしたと思っている義理の姉に向ける感情は反抗期の弟そのものだ。ジャスミンだってすぐにでも帰りたかっただろうに残ってくれている。ミュゼが残る事は少しだけ予想していて、彼女が此処に居る事で感情の重いアクエリアからは何か文句でも言われるだろうが――それは後から考える。
夜も更け、日付が変わる。アルカネットは動かずに見張りを続けていたことで軋む体を伸ばし、溜息を吐いた。その気配を感じたのか、それで目を覚ましたディルも背にしていた壁から起きあがる。
この日が最後だ。分かっていても、来訪がいつあるかも不明。ディルは足音も小さくアルカネットの側に寄った。
「……アルカネット、交代の時刻だ」
「分かってるよ」
不愛想に返しながら、座っていた椅子から立ち上がる。徐々に寒くなる夜の空気の中、アルカネットが毛布を求めて自分の寝床である床に向かった。
日中と夜とこうして別の仕事をして、今直ぐにでも眠れそうな睡魔が押し寄せている。件の犯人がいつ来るとも分からない中、アルカネットの疲労はそろそろ頂点に差し掛かる。
ごそごそと寝る準備を整え、いざ横になった時。
「……感謝している」
耳を疑うような言葉が、ディルの声で聞こえた。
「……は?」
思わず飛び上がるような速度で上体を起こし、ディルを見る。彼の視線は既に墓地に向いているが、アルカネットの素っ頓狂な声には気付いていた。
「我が依頼ではあるが、汝等を連れ出し此の依頼に従事させた現状。各々行うべき事は他に在るだろうに、苦労を掛けたと思っている」
「……何だよ、それ。別に、そんなの今更だろ。俺達がどのくらいあんなギルドで仕事してると思ってるんだ」
「其れは汝の話だ。我は――本来、汝をギルドに所属させることは反対だったのだ」
「反対……? 何で」
「汝は、あの者の弟であろう」
あの者なんて言葉が、彼の妻を示していることくらい分かる。今までそう思った事はないし、言われても突っぱねていた言葉だ。
弟、と言われて押し黙る。弟なんかじゃない。アルカネットが引き取られた時、既に彼女は城に仕えていた。ろくに顔を合わせることもなく、帰って来ればうるさいばかり。育ての親はアルカネットと共に暮らしても、彼女の事をいつも心配していた。
彼女が姉のように振舞った事も無い。血の繋がりも無ければ日常に大きな接点も無い。ただ、同じ男に引き取られて育てられただけ。
「血に塗れた手でしか生きられぬ、末路の決まったような我等とは違い、汝は未来があった。殺し殺されを当然の事として刃を振るう世界から縁遠い汝を、あの者とて引きずり込みたくなかった筈だ」
「……俺が決めた事だ。他の誰も関係ない」
「関係ならば、有る」
けれど、ディルはそんな人物が連れて来た夫だった。
お節介で、うるさくて、黙っていれば美人で、けれど恋愛沙汰とは縁遠くて。
「汝は、我の義弟になるであろう」
「っ……!?」
「アルカネット。もしも、の話だ。もしも、未だ我が妻が生きているとしたら如何する?」
「はっ……!? な、んだよそれ……!?」
「もしもだ。失ったのは腕だけで、実は何処かで生きているとしたら――」
椅子から立ち上がるディル。その背中をアルカネットは見ていた。
何も言えない。今まで、死んでいるとしか聞いていなかった。今の今まで、最愛のディルの所に一度も帰って来なくて、なのに生きているだなんて思えなかった。胃もたれするほど甘い彼女の愛を、アルカネットは酒場で一年見ていたから。
「生きているなら。何と引き換えにしたとしてもあの者を取り返そうとする我を、止めるかえ」
そしてその愛は、ディルを今でも縛り付けている。
「……止め、られる訳……ないだろ。でも、生きてるなんて、そんな、有り得ない話……信じろってのか」
「信じずとも構わぬ。……構わぬが」
その時、ディルが視線を窓の向こうから逸らした。そして、足は自分の荷物を纏めて置いてある部屋の隅まで進む。
お前、何を、とアルカネットが聞く前に、ディルが手にしたのは自身の愛剣。それを一瞬で引き抜くと、夜の僅かな灯りを反射するかのように剣が光る。その場で鞘を床に放り投げると、固い木が落ちて大きな音がした。
息を呑んだアルカネットだが、その刀身は彼に向かない。代わりに、何も嵌まっていない窓の桟に手と足を掛けるディルが居た。
「アルカネット、ミュゼを起こせ。ジャスミンは起きていたら連れて来い。墓守も起こせ、緊急事態だ」
「は!? 次から次に、何だってんだよ!」
「現れた」
唐突な単語にアルカネットが窓の外を見る。急に言われた所で、動揺している視界は肝心のものを捉えられない。
戸惑う義弟を余所に、ディルはすぐさま窓から外に飛び出た。地を踏む音が僅かに聞こえ、銀の長髪が動きに合わせて揺れた。
いつもは幽鬼のような男だ。しかし今だけは、幽鬼よりも性質の悪い殺意を肌で感じ取れてしまう。
現れた、と言われて、何が、と聞き返す事はしない。何が出たかなんて、この場所に来た理由を考えればすぐに分かるから。
「……ああ、ったく!!」
アルカネットが舌打ちするより前に、一か所を目掛けて駆け出すディル。
もう指示された通りに動くしかなくなって、アルカネットは全員を起こすために先に墓守の寝台に視線を向けた。
ディルは今まで、礼らしい礼を口にしたことが無い。
何を言わずとも他人からお膳立てされた生だった。無気力に生きていても、ディルは対峙する壁を乗り越えられるだけの能力も、育ての親の後ろ盾もあった。
フュンフと出逢ってから、ディルの足許に転がる小石は排除されてきた。
妻と出逢って結婚してから、妻はディルの為と言いながらあらゆる身の回りの世話を買って出た。
それが全て厚意と好意から来るものだと知っていても、ディルは御礼のひとつも口にすることは無かった。
感情を伝える事を不得手としていたディルは、普通の人間関係を築けたことが無くて。今だって、暮らしている酒場とギルドは妻から引き継いだものだ。
今、暮らしている基盤は。
その殆どが、妻が用意していたものだ。
だから。
妻の用意した世界のすべてを、守りたいと思った。
彼女が再び、傍に帰って来る時まで。
秋の空気に生気を無くしつつある雑草を踏み付け、ディルが駆けた。これほどの速度で地を走るのは、戦争の勝敗を決した戦闘以来だ。
風を切る速度を保ちながら、ディルが見つけた人影に肉薄する。
こんな深夜に現れた人影は、ディルの妻の墓の前に辿り着いた。墓石に正面を向き、指を組み合わせて祈りを捧げている。その祈りが終わると同時に、手に何も持っていないというのに身を屈めた。
その手が、花束に触れた。
労わるような手つきで、それを持ちあげる瞬間まで、ディルは見た。
次の瞬間、闇に隠れて見えなかったその人物の顔が、ディルの方を向く場面まで見えた。
「――『閃』」
ディルの唇が命令形の魔法行使を象った瞬間、眩い光が剣に嵌め込んである魔宝石から漏れる。当たりを一瞬だけ明るくしたその光で、互いは互いの顔を認識した。
知らない顔だ。茶の波打つ髪が、シスター服の頭巾から漏れている。両目は光を吸い込むような黒、遠目からでも分かる程の長身では容易に視線が合った。
横一線に振り抜くディルの剣は、彼女を仕留めるに至らなかった。
まるで曲芸師を思わせるような動きで、彼女はその場で後方に回転しながら身を下げたのだ。
ディルの体の勢いは、地の砂利の上を靴底が滑る事で何とか止まった。
「答えよ、何の目的で花束を盗む」
身のこなしは、ただのシスターとは思えない。かといって似たような手合いであるミュゼに同じ動きが出来るかと聞けば、恐らく無理だろう。
シスターと思わしき女は、萎れた花束を大事そうに胸元に抱えている。
「質問に不明点。盗む、とは即ち窃盗。私は窃盗はしていません」
女からの返答は、ディルの質問と齟齬があった。
今すぐ逃走しようという様子は見えない。今すぐにでも剣を振るいたいが、その衝動を抑え込めるだけの余裕は辛うじて残っている。
「窃盗だ。其れは我が妻に捧げた、我が妻の花束だ。処分は墓守に任せている、第三者が其れに触れる事は許されぬ」
「窃盗ではありません。私はこの花の所有者にお願いをされて、届けています」
「冗談は弁えるが良い。其の花の所有を、我は認めておらぬ。……もし、所有が許される者がいるとしたなら、此の世界には一人だけだ」
次は、外さない。
持ち上げた剣先で女に狙いを定める。その剣から滲む殺意は、女だって理解出来る筈だ。
「汝に窃盗を命じた者の名を言え。我が所有を認める者の名と一致すれば、命を助ける代わりにその者の居る場所まで案内せよ」
「なまえ」
女は変わらぬ口調で口を開いた。
「夫人に、名前はありません」
逡巡する間もなく紡がれた言葉を、ディルは黙って聞いていた。
「名が無い?」
「ありません。誰も呼びません。夫人も名乗りません。マスターも呼びません」
「……『人形のよう』と聞いて、不吉な予感はしていたが」
マスター、と言う呼称を聞いてディルの手に力が籠る。
「マスターというのは暁の事だな」
「肯定」
「暁の側に、その女がいると?」
「肯定」
「鈍い銀色の髪を持つ女であろう」
「……夫人の外見についての伝達許可は出ていません。回答を拒否します」
聞きたい事は聞けた。それでもう、充分だった。
一歩踏み出した足先に力が入る。縦に振り抜いた剣先は、女のシスター服の裾を大きく裂く。
女の反応が少しでも遅れていたら、裂かれていたのは女の体の方かも知れない。ばさり、と大きく動いた腕の中の花束が、枯れかけた葉と花弁を散らす。
「我が妻が、生きて暁の側に居り、此の花束を望んでいる――相違無いな」
「回答不能。夫人と貴殿の関係を私は知らない」
幾らか重量が軽くなってしまった花束を抱いて、女は向き合っていたディルに背を向ける。
「時間超過、帰還命令が出ております」
そのまま夜の墓所を駆け出した。ディルから遠ざかるように奥へと入って行く。
その背を追いかけるディルだが、単純な追いかけっこでは追い付けない程に女は早い。
「……人形風情が!」
ディルが駆け出すその背中の向こうに、小屋を出たミュゼとアルカネットが続く。
四人の駆ける音は、秋の風の音が掻き消そうにも出来ない程に大きくなっていた。




