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墓守の小屋を訪れて最初の夜が来る。
ジャスミンは墓地探訪から帰って来た時、背には墓守の仕事道具であろう籠を背に負い、その中に山盛りの薬草を積んで来ていた。爛々とした瞳の輝きは大豊作の証。
早めの夕飯を済ませて一階で薬草の選別をするが小屋中が特有の青臭さで充満してしまい、ミュゼは避難とばかりに二階へ逃げてしまった。換気と採光用に取り付けられている木扉しか付いていない木枠の窓を開け放ち、枠に腰掛けて足を置き墓地の様子を見張っているディルは外気を取り入れながら耐えるしかない。墓守も苦笑しているものの、臭い自体には慣れている様子。
そこへ表の仕事を終わらせたアルカネットが訪れたから哀れなものだった。顔全体で臭いへの感想を述べているかのようなしかめっ面で、泊まりの荷物を部屋の隅に避難させる。
「……なんだこの臭い……。酒場の部屋でもこんな事してるのか」
「ちょっと臭いの強いものばかりになってしまって。じきに慣れますよアルカネットさん」
「平気でいられる奴がいるってのも不思議なもんだな……」
薬効も有難みも分からないアルカネットにとってはただひたすらに不快。ジャスミンも手早く区別を済ませ、それらを別々に纏めて逆の部屋の隅に行く。笊に広げて干し始める頃にはアルカネットもなんとか呼吸が出来るくらいには慣れていた。
ディルは窓際、墓守は卓。アルカネットも卓に着き、作業中のジャスミンと二階のミュゼも合わせるとこれで全員揃った。
「アルカネット」
「……んだよ」
「汝には今から日付の変わるまで、あの墓石の見張りを此処からして貰う。以降は我が行う。起こせ」
「はぁ? お前、いきなりな命令ばっかり……おい、話を聞け!!」
言い終わると同時にアルカネットを無視しそのままの体制のまま目を閉じたディル。見張れ、と言われても小屋内の灯りで外が鮮明に見える訳でもなく。今は日の沈んで間もない時間だから良いとしても夜中は見えないだろう。嫌いな相手の命令でも、律義に聞いてやろうとするアルカネットは貧乏籤を引きやすい男だった。
「今日は早めに室内の灯りを落としますかね」
「……そうしてくれ」
こうなるとディルは起きていたとしても梃子でも反応しない。ジャスミンはそれは困るとばかりに手を洗いに向かい、手元だけを照らす蝋燭を用意した。それに火が点るのを見届けて、墓守が小屋にある灯りの全てを消した。
静かな室内で、未だ目を開けている三人が顔を見合わせる。墓守とアルカネットはほぼ面識が無く、ジャスミンに至っては墓所内を案内して貰ったといえどこの日が初対面。気まずくなるのは当たり前で。
「……今更だけどな。その花束の盗人が出るのって月命日から三日後なんだろ。今来る意味ってあったのか」
「私達の地理の把握と、花束の状況確認も必要だかららしいです。窃盗でなく野鳥や動物の悪戯という可能性もあるからって」
「鳥か……悪戯するような鳥って夜には来ないんじゃないのか……」
アルカネットの視線は墓地を向いている。ディルが邪魔な事この上ないが、言っても無駄なのは分かっていた。
秋の夜、鳥の囀りは無く。作業を終わらせたジャスミンは手元の灯りを見張りの邪魔にならない場所に置いてからアルカネットの側に寄った。時を同じくして、湯を沸かした墓守が二人に茶を持って来る。
「梟なら時々見ていたのですけどね。ですが最近は鼠もあまり出て来なくなりましてね、今年はそのせいか梟の羽音も聞かない気がします」
「鼠が出ない? 殺鼠剤でも撒いたんですか」
「いえいえ、そんな事はしていません。……鼠が居ない土地は災害が近いというじゃないですか。少し、不安でしてね」
「……」
アルカネットは二人の会話に耳を澄ませている。視線を向ける先を変えないまま、二人が途切れ途切れの会話をしているのを聞きつつ時間は経つ。
自警団の夜番よりも楽ではあるが仕事帰りの体に疲労は溜まるもの。動かずに出来るとはいえ退屈に押しつぶされそうになる。
やっと日付が変わる頃になって、ディルは誰が何を言わずとも目を覚ました。
「……」
ジャスミンもアルカネットもまだ起きている。墓守は既に一階の隅にある、古い寝台で寝入ってしまっていた。
ディルは目覚めたばかりにも関わらず、少し目を閉じていただけだったかのように平然と床に靴裏を下ろす。起き抜けの態度はいつもと変わらないが、それが彼の目覚めの良さを示している。
「交代の時間か。変わりは無かったか」
「……ああ」
「汝等も寝るが良かろう。日中はミュゼとジャスミンが見張る、汝は我と夜の監視だ」
「……分かった」
短い伝達が終わってすぐ、アルカネットは自分の荷物から毛布を引っ張り出し、部屋の階段側の床で包まって横になった。ディルは椅子を持ち出して変わらず墓地を見ている。
ジャスミンは、まだ起きている。その気配を感じ取ったらしく、ディルが視線もくれずに声を掛けた。
「寝ぬのか?」
「……はい。もう少しだけ、起きています」
「体に障るぞ」
「薬作る為にイルと夜通し起きていた事もありますから。……もう少ししたら寝ますから、大丈夫です」
ジャスミンだって、ディルが気になったのだ。これまでの共同生活未満の同居で知ることが出来たマスターの姿は、不愛想で生活感の無い独身男。結婚していたことも妻が死んだことも知って尚、この男の外見以外の何処が良かったのかとさえ思える程の自堕落振り。
そんな彼が、亡き妻に無作法をした者に対する怒りは感じ取れた。だから滅多に外出さえしない男がこうして外に寝泊まりしてまでその正体と目的を知ろうとしているのだ。
「……マスター」
ディルは振り返らない。
「奥様って……どんな人だったんですか?」
「……知る必要が、汝にあるかえ?」
「気になるんです。大体の事は話には聞くけど具体的にどんな感じだったのかなってミュゼとも話してて」
「……あの者も昼間そう言っていたな」
人というのはどうしてこうも他人の色恋沙汰が好きなのだ。要らない所に首を突っ込んで来て、ディルの思い出にべたべた触ろうとする。普段は擦り切れないよう必死に守って大切に仕舞い込んでいるというのに。
他の誰かだったら、話す必要はないと素気無く拒否をしていたかもしれない。けれど相手は、妻の遺した酒場に住むギルドメンバーの一人だ。妻の事を知らずとも、もしミュゼが言っていたような違う世界があったなら彼女と住居を共にしていたかも知れない人物。そう思うと、無下に扱う気は消えてしまった。
「……阿呆な女だ。人の世話を焼きたがり、率先して荒事に首を突っ込む。居るだけで場が華やいだ……と言うよりも騒がしくなった。敵もいたが、圧倒的に味方の方が多かった。直情的で、嘘が吐けない。我慢強くなく、怒ると口と同時に拳が振り上げられ、鉄拳の餌食になった者は数知れぬ」
「そんな人が奥様だったんですか……? マスターと随分性格の違う人ですよね」
「妻としてはこの上なく最良の伴侶だった。……我に向かって『好き』だの『愛している』だのと宣った唯一の女で、我に足りないものをほぼ全て持っていたように思う。側に居るだけでいいと、互いに思っていた」
声には普段の突き放すような棘は無くなっている。ジャスミンはそれだけで、ディルの愛の深さを感じてしまった。妻を語る彼の声は饒舌で、とても優しい。
「ヴァリンさんが以前イルに言ってたのを聞いただけなんですけど……ミュゼに似てるそうですが、本当なんですか?」
「ミョゾティスに? ……ああ」
確かに似ている。妻の面影は確かに子孫に残っていた。何故似ているのかという話を聞いた今となれば、共通点があって当たり前だという感想しか出てこない。彼女の血が未来まで伝えられているというのなら、ディルはそれに僅かな喜びを抱く。
結局、ディルが感情を揺さぶられるのは、今も昔も彼女の事ばかりだ。
「似ている……な。仲間内で見せる笑みも、気取ったかの如く澄ました顔も。酒を飲む時の仕草も……髪を結んだ時の横顔も、髪を下ろした時の俯いた顔も。他人である事は理解出来ても、我の中の不明な何かが類似点を見つけては此処は違うと粗探しをする。ただ、やはり妻の方が美しいとも感じている」
「そんなに綺麗な人なんですね」
「一時期は王子であるアールヴァリンの婚約者候補の一人だった時もある。……当時の我には其れが何故か耐えられなかった。今となっては耐えられぬ理由など明確で、胸に宿っている此の感情を伝えられなかった事ばかりが我を苛む」
そっと胸を押さえた掌を、ジャスミンは見る事が出来ない。
階段を下りる音が聞こえる。ミュゼが起きて来たのだろうが、ディルは言葉を止めなかった。
「愛している、と、もし一度でも目を見て伝えることが出来たなら……妻は生きていたのだろうな」
「……」
「後悔は尽きる事が無い。だが、妻が居なくとも此の想いが消えないと確認出来た事は喜ばしいのかも知れぬ。……誓い合った永遠を、我の心とやらは違える事が無かった。此の先も、命が続く限り我はあの者を愛し続けるのだろう。其れが望ましい事柄であるかどうかは、今の我には不明だ」
階段を下りる音が止まった。そして今度は、音を立てないようにして階段を上っていく気配がする。
ディルの独白が終わる頃には、アルカネットの瞳も開いていた。だが、それは本人以外誰も知らない。
「昔話は此れで終いだ。……ジャスミン、もう汝も寝るが良い。汝の仕事は、明日の朝からだ」
「じゃあ、……先に寝かせて貰います。おやすみなさい、マスター」
ジャスミンも心地いい静けさを帯びたテノールを聞いて、少しばかり眠気が訪れたらしい。ディルの二度目の勧めに大人しく従った彼女は休む為に階段を上って行った。
起きているのは一人だけになった小屋の一階で、ディルは変わらずに妻の墓がある方向を見つめ続ける。
そこにあるのは左腕だけだとしても、彼女の肉体である事には変わりないから。