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墓所の中でも表から見えやすい場所は、墓に入れる際に身内がそれなりの金額を用意できた遺体が眠っているという。
ディルの妻の墓も、墓所に多額の金額を渡したので金額なりの立派な姿をしている。勿論、その地に埋まっているのは持ち帰れた左腕だけだが。
敷地内は墓守の小屋より更に奥へ進む道もあるが、そちらを進むと身内がいなかったり身元が不明な遺体のある墓ばかりが並んでいるらしい。
ミュゼがこの墓所に来るのは二回目だ。その時も、ディルと一緒に来ている。連れられて、か、着いて行って、の違いはあるが。
「あのさ、マスター」
墓までの道すがら、ミュゼが長身の背に声を掛ける。振り返られはしないがそのまま話を続けた。
素っ気ない態度は変わらない。けれどこれでも関係は悪くない方だった。
「マスターから見たアイツって、どうだったの」
「……どう、とは?」
「私もアクエリアも、アイツがマスターをどう思ってたかっての聞いてるからさ。その逆は無いなぁって話をこの前しててね」
「我等の話を寝物語にするな」
「寝物語言うな。日常会話だ」
足元は石畳。感触は固いが砂が舞うことも無く歩きやすい。所々生えている木々が、歩く二人を気まぐれに影に隠している。
足取りは変わらない。ミュゼが話しかけている間でもディルは腕に花束を抱えて背を伸ばし、真っ直ぐ前を向いている。
「……まぁ、私達も分かってるよ。今でもこうして花を捧げて、アイツの居ない酒場を守って。今でもアイツの話が出来る誰かを求めてて、そんで」
木漏れ日の間から降る光が眩しくて、ミュゼが目を細めた。
「アイツが居た証を汚す誰かを、許さない」
「……」
「その感情に付ける名前を、私は知ってる。きっと、それが『愛』なんだ。私の『愛』とは少し違ってるけど、それぞれの姿形が違うように、それでも『愛』って呼ぶんだろうね」
「……不揃いな形でもか。店先に並ぶことのない、或いは叩き売りされている歪な形の果実のように?」
「その歪さを気にしない奴だっているだろ。食っちまえば味は一緒とか言ってさ」
「して、貰い手が見つからず時期が過ぎると腐り果てると。道理だな」
「その言い方、自分の事言ってる? あんまり自分をくさすもんじゃないだろ、嫁が怒るぞ」
「……あれは、我に向かって怒りはしない」
やがて二人は墓石の前に辿り着いて足を止めた。風化の速度はどれだけ年月を掛けても緩やかで、まるでエルフの混じりである彼女そのもののようだった。
刻まれているのは、二人にとって思い入れのある者の名前。一度だけ、小声で彼女の名を呼んだディルが片膝をついて花を置く。
「今も側に在る事が出来たなら、我への怒りに身を震わせる妻を見る事が出来たろうか」
「……」
「聞きたいのか。我が妻をどう思っていたか」
汚れも苔も無い、用意されたその時の姿を保っているかのような墓石。その表面を指先でなぞりながら、ディルが口を開く。
「本人にも聞かせた事の無いものを、汝が聞く意味は?」
「無いね。無いけどさ、名前のつかないものって不安じゃないか。こっちが勝手に予想して話してはしゃいで、それでそっちに不満が無いならそれでいいけど」
「はしゃぐ……?」
「人の色恋沙汰ってのは楽しいからね。ジャスミンだって本当は興味津々なんだぞ」
「寝物語の次は茶請け話か。摘まむのは菓子だけにするがいい。オルキデが毎日作り置いているであろ」
「菓子なー、オルキデのも勿論美味いけど菓子ならマゼンタの作った方も美味いんだよなー、ってそうじゃなくて」
二人の会話は和やかだ。
ここ半年間で知り合った仲であるなどとは、ディルを知る者であれば信じないだろう。ディルが軽口を許すことなど、数少ない者にしか無いというのに。
関わった年月以外の何かがあると思わせられる光景。それが、死んだと思われている妻の墓前で広がる。今墓前に立つ女は、ディルの妻と似た顔をしている。
二度目の不思議な光景だ。六年も側に居ない女を、ミュゼといると鮮明に思い出せる。そして同時に、既に褪せ始めた妻の姿に心が痛む。褪せないのは感情だけだ。
愛している、と、伝えられなかったから褪せないのだろうか。
「……ミョゾティス」
他に誰も呼ばなくなった名を呼ばれて、ミュゼが小首を傾げた。
立ち上がるディルが、ミュゼに正面を向ける。
「問おう。偽りは許さぬ」
「……何だよ」
「汝は妻の血縁と言った。其の関係は何という?」
「………」
「あれに姉妹は居らぬ。親にも戸籍に登録された兄弟姉妹も居らぬ故、従妹という訳でもあるまい。其の上、汝の戸籍を国中で探らせたが終ぞ見つからなかった」
「……ヴァリンにでも調べさせたの? もう少し早くに気付いても良かったんじゃない?」
茶化すような口調に、ディルの表情は変わらない。
「汝の口にしたウィスタリアとコバルトという姉妹の名、それからエクリィ・カドラーという人物は、此の国には存在せぬ。ウィスタリアという知人に心当たりは有ったが、其の人物は他国の者で男だ」
「……そうか。そうだろうね、無いだろうね」
指摘された事柄に関しては、ミュゼも動揺しない。
その名を持つ筈だった二人の名前が、今は違う事を知っているから。
「汝は、エイスが手を回した者か?」
ディルの問いは簡潔で、だからこそミュゼの目が見開かれる。
酒場の先々代マスターであるその名の持ち主を知らないなら反応はしない筈だった。ディルの視線が険しくなる。
「……そこで、何でその名前が出て来るの?」
「エイスが死んだと聞かされた。然し、我は死体を見ていない。其の死には不審ばかりが募る一方だ。……其の折に、妻の身内を名乗る者が現れて正体は不明。成らば、奴が生きていて関与していると考えるのが道理であろう」
「あと五十年は聞かなくて済むって思ったんだけどなぁ、その名前。私をあんな奴の小間使いになる訳ないじゃん。私、アイツ大っ嫌いだから」
具体的な年月がミュゼの口から出て来るが、ディルは眉間を寄せるだけで終わった。
エイスの事は知っているのだ。なのに、抱いている感情はディルの妻とは正反対の様子で。
その名を知っているということは、今も何処かで生きているのか。そちらも知りたくなったが、今は横に置いておくことにした。
「何故? 我が妻はあの者に育てられて恩義を感じて」
「アイツの事聖人とでも思ってるの? ……時間が経てば、どんなに美味しい果物でも腐るんだよ。収穫早すぎたら熟れれば食べられるものも毒を持ってたりする。同じように生き物の善悪も倫理観も、移ろうモンなんだよ」
二人が絡ませる視線には、親愛の情は無い。
「私だって、どうして自分が今こんな状況に置かれているのか分からない。毎日日常生活送るのに不便してるし、馬より早い足は無い。アクエリアはいるのに、エクリィがいない。マスターがいるのに、アイツが居ない。これだったら、まだアイツが生きてるって状況に置かれた方がまだマシだった」
「……何の話だ?」
「私はな。エクリィから、マスターが死んだ過去の話しか聞いたこと無いんだよ」
会話が、世界の時間ごと止まった気がした。
ディルの目の前で語るミュゼの表情は、嘘を言っているように見えない。なのに、信じるには荒唐無稽な話で。
ディルはこうして生きている。自分が一番分かっている。なのに、死んでいるとはどういうことだ――。
「……ひとつ、誤魔化していたことを謝るよマスター。私は、アイツと……マスターの奥さんと直接面識がある訳じゃないんだ。身内ってことでアイツ呼ばわりしてたけど、面識ないから親しい訳じゃない。でも、血は繋がってる。少し遠くて、文字通り時間も掛かるけど、私から辿る事は出来る」
その話を、どう信じろというのか。
「今から言う所の六年前の戦争で、死んだのはマスターの方だって聞かされた。私の育ての親は、私の小さい頃からずっと変わらずにその話ばかりを聞かせて来たんだ」
「小さい頃……? 六年前に、汝が其処まで幼かったとは考えにくいが。そもそも、生きているのは事実我で」
「……そこが私にも分からない。エクリィが……育ての親がそこを間違える筈ないんだよ。でも、実際言って聞かせたのはアイツの惚気話だった。マスターが死んだ後の世界。ファルミアで、愛する妻を生かす為に命張って死んだマスターが居たこの国の話」
その荒唐無稽さは、ディルの心にある蟠りに熱湯をかけたように胸を焦がした。
ずっと、ずっと、長い間、ディルが出来ていたならそうしたかった話だ。妻が生きる世界で、ディルが死んで、それでも彼女が自分を想っていてくれる世界。
二人の個別の永遠がひっくり返った世界を、ミュゼは知っているという。
「生き残ったアイツは酒場を切り盛りしながらギルドを運営していた。死ぬその瞬間まで、アイツはマスターを愛していて、愛し続けて、他の誰とも再婚しなかった。そして、私は」
ミュゼは自分の胸元に手を滑らせた。僅かに主張する膨らみを撫でるように、掌は左側へ位置付いた。
「この体に流れる血は、確実にアイツのものが混じってる。私から辿って、シャスカ、ゼクス、ウィスタリア。そしてその次に、アイツに辿り着く」
心臓が位置付く場所で、拳を握る。
「私はね、マスター。アイツの玄孫なんだ。……この意味、分かる?」
「玄孫、?」
孫の孫であるその言葉は、ディルには馴染みは浅いが知っている言葉。五十年そこいらしか生きていられないヒューマンでは、曾孫の顔を見る事すら滅多にない事だ。
偽りと決め込んでミュゼごと斬り捨てる事は出来る。けれどディルは、話の続きを聞きたかった。
ディルの覚えのない、知らない話を。
「同時に私は、マスター……、ディル。貴方の玄孫だ。二人の間に生まれる双子の片方の血を継いだ、遠い時間の先から何の因果かここに居る子孫だよ」
ミュゼの言葉に、何も言う事が出来ない。
双子の話も耳に届いている筈なのに問い返せないのは、それだけ衝撃を受けたからか。
「だから、あの戦場で生きてて貰わないと困ったんだ。アイツにはマスターとの間に双子を産んでもらわなきゃ、私は消えてしまうから。マスターの為じゃない、私の為の理由だ。死ぬのは怖い。そして、生まれてこないのはもっと怖い。私が存在しない世界で、私を育ててくれた男が私を知らずに生きて行く世界が凄く怖い」
「……」
「フュンフ様にも、この話をこの前したんだ。……重大な事を話そうとすると、体、消えかけてさ。あの人も見てたから、確認取れるよ」
ディルにとって因縁のあるその名を出した途端、目に見えて不快そうな顔をされる。
妻の生存を感じ取っていながらも、あの運命の日に死地に取り残したフュンフを今でも許す気にはなれないのだ。
「あの者とは二度と顔を合わせる気は――」
「無い、の?」
心を見透かすような翠の瞳が、灰色を見据えた。
色こそ違えど、その顔は妻に似ている。側に居ない愛しい人に、それが本心かどうかを問われている気になってしまう。別人と分かっていても、否、『自分の子孫』だからこそ、今の自分の罰の悪さに目を逸らしてしまいそうになる。
逸らしたら、ディルが折れた事になる。それだけは自分で許せそうになかった。
「本当に、無いの? あの人は今でも、マスターとアイツに後悔の念を抱いているよ。もしかしたら二人が力を合わせれば、アイツを取り返すのもそう遠くない話じゃないかも知れない。アイツ、多分暁の所にいるだろうから」
「……汝も、暁の事を疑っているのだな」
「汝も、って事はマスターも? ……だよな、一番怪しいのあの男だもん」
ミュゼが踵を返す。墓での用事は終わっているのだ、これ以上長居する気もない。彼女はこの土の下にはいないのだから、天での幸福を願うことも無い。
暁を語るミュゼは肩越しに振り返る。その先にある灰色の瞳は、妻ではなくミュゼを映していた。
「ジャスミンに頼んだ薬、痛み止めだったって。幻肢痛にも効くかって聞いて来たそうだよ。効かないって言ったけど、試したいから用意してくれってさ」
「幻肢痛? ……失った筈の四肢が痛むという?」
「暁、五体満足だよな? んでアイツってば、左腕は確実に無いんだろ?」
「……我が妻に使う、と?」
「確証はないけどね。あの暁が他の人間に、懇切丁寧に薬用意してやるか? ……って、考えたらさ。それは無いかもな、って思って。まぁ私が見た暁は、だけど」
帰りは歩み出すミュゼの背をディルが追う形になる。
数歩進んだ所で、その背に口を開いた。
「――以前より、暁は不審な部分が多々あった」
後に続く言葉は、自戒のような言葉だ。ミュゼに聞かせているようで、自分に再認識させるための。
「焦るな。……六年も経ったのだ、今更直ぐにあの者の命が脅かされる訳ではあるまい」
「よく平気だね」
「平気なものか」
ミュゼは気楽に問いかけたが、返って来る言葉の圧に思わず唇を噤む。けれどそれも一瞬で。
「其の時が来れば、暁の首は我が跳ねる。邪魔立てはするな」
「しないよ、そんなこと。……でも」
その圧は、育ての親から同種のものを掛けられていたから慣れたものだ。
「よく私の話、疑わずに聞いてくれたね」
「……ふん。完全に信用した訳ではない。有り得ない話を持って来られて、簡単に信じろと言われる方が無理な話だ。だが」
「だが?」
ディルはそれまでミュゼに向けていた圧を消し、少しだけ柔らかい表情を見せた。それはいつもの無表情とさして変わらないのだが、顔に籠っている力が抜けている。
「……汝が、我が子孫という話を聞いて。最初に訪れたのは安堵だった」
「安堵って……どうして?」
「我は今まで、何も残せなかった。偶像として祀り上げられていた時も、騎士としても、妻との結婚も、全て。……だが、あの者の血が後世まで残るというのなら、我が今まで生を繋いで来た意味が在るように思えた。……今は。今だけは、汝の発言が狂人の与太話であろうと」
その顔は、妻が側に居た頃の表情と同じで。
「我は未だ、妻の幻を見ていたいのだ」
「……」
ミュゼは想いの強さに俯いた。この男とあの女、どちらが生きていた世界の方が良かったのか分からないから。
どちらにせよ、残された方はずっと愛する者の不在に心を痛めることになるのだけど。
「結局信じてないんじゃん」
ディルの気持ちが分かる気がして、胸を過る切なさを誤魔化すために責める口調になる。
それから二人は振り返らずに、小屋までの道を歩んだ。