146
「運ぶ荷は此れで全てかえ」
朝から酒場一階は、外泊用の荷物で卓が一つ占領されている。先代店主の月命日から三日の短距離出張に巻き込まれたミュゼとアクエリアの荷物だ。
酒場『J'A DORE』はディルたちの不在中には店を開けないが、足の早い食材が消費しきれなかった為に厨房担当のオルキデと接客担当のマゼンタ、それから外泊を面倒臭がったアクエリアを除いた全員が墓守の所に行くことになった。
アルカネットは、窃盗犯が義姉(本人はその関係を認めていないが)の墓荒らしだからという理由で無理矢理駆り出される。その日彼は日中は自警団の仕事というので、夜から合流する手筈になっている。
ミュゼは、かつてシスターとして働いた事もあり突然の一般人の来客があっても不自然ではないから。
ジャスミンは渋ってはいたものの、見張りの目は一人でも多い方がいいという理由で連れ出される。
「全部全部。運んじゃってよマスター」
ディル個人としての依頼になる、墓守居住地への宿泊。
マスター・ディルを含めたこの四人が、わざわざ隣の街だというのに泊りがけで墓場を見張るのだ。
依頼という形でその話を全員に通達した時、前払い金と達成報酬を合わせて提示された金額は、一か月遊んで暮らせる金額だった。
一番最初に食いついたのはミュゼ。アルカネットも金額に不満は無かったようだがディルからの依頼ということで難色を示し、アクエリアは反応こそしたものの居残り組に編成されていたから諦めた。ジャスミンは、金額や依頼主よりも依頼内容に不安そうな顔をした。
依頼内容は『窃盗犯の捕縛。抵抗するなら武力制圧も止む無し』。
例に漏れず物騒な話を持ち掛けられたにも関わらず、ジャスミン以外の全員が普段と変わらない表情で話を聞いていた。
ジャスミンだって分かっている。命のやり取りが、このギルドの常なのだと。
武器を持つ仕事をしなければ命が安全だとは言えない。実際、それでジャスミンの親友は死の危険と出くわした。
戦闘能力がない故の危険は常日頃から感じている。だからと、戦闘の依頼が常であるミュゼやアルカネットのようになれる自信は無い。
こうして出発の時刻になって、ミュゼとジャスミンの泊りの荷物を両肩に全て担いでしまったマスターのようには絶対なれる訳がない。
しげしげとジャスミンがディルの背を眺めていると、視線を感じたのか彼がふと振り返った。
「……何だ?」
「い、いえ。別に何もないです」
ディルだって、不愉快で問い掛けた訳ではない。用があれば聞こうとしたのだが、ジャスミンは頭も手も横に振ってしまう。肩越しに振り返ったディルの顔は、年齢相応でありながらも衰えることのない、温度の感じられない美貌を備えていた。
ディルが苦手、という訳ではない。ジャスミンが生きていける場所を提供してくれた恩人の一人だ。性別でも職でも、何に関しても容易に蔑んだり貶めたりする人格の持ち主ではない。同時にそれは無関心とも言われるものだが、ジャスミンにとってそれは気が楽になる話だった。
無関心で、無感情なディル。
それが今、亡き妻の事で活動的になっている。
「――思い出した」
ディルが酒場の扉を潜る直前、もう一度ジャスミンを振り返る。その灰色の瞳をあまり見据えることが無かったジャスミンは、その瞳の色彩を改めて思い知った。
輝き少ない、雪の日の曇り空を思わせる灰色。凍える気温を思わせるその色に見られて、ジャスミンの背が自然と伸びた。
「はいっ!?」
「暁が先日、薬を引き取りに顔を出した。また後日、アールヴァリン経由で回収すると」
「ああ……あの薬ですね。はい、用意は出来てますが……ヴァリンさんからも何も言われてないですよ?」
今の今まで忘れていたならば、いっそこれからも忘れていればいいのに、とジャスミンが思う。
乗り気ではない依頼へ向かうというのに、今気が重くなるような事を言わないで欲しかった。
「あ、そういえばヴァリンさんって今回の件、来るんですか?」
「来ないであろ。話したが、あのような場所に寝泊まりなど冗談ではないと。我等が居らぬ間は酒場にも顔を出さないそうだ」
「……まぁ、王子殿下様が墓所に宿泊って、悪事が露見して追放されたみたいな悲愴感がありますからね……」
苦笑いしているジャスミンが、ほぼ無意識に服の中に手を入れた。膝丈まである上衣の衣嚢の中で手が触れたのか、金属が触れ合うような固い音がディルの耳にまで届く。
硬貨とも違う、硬質な音。
「……」
ディルはその正体を聞くことも出来る。しかし音が出た事に気まずそうにしているジャスミンを横目に、何を問うことも無く外に出て行った。
音を立てたのは護身用の薬入れだったのだが、音の正体を聞かれるかもと半分ほどは思っていたジャスミンは呆気に取られながらも、自分も出て行くはずの扉を見ながら暫し固まっている。そんな彼女に近付いたのが、今回一緒に行くミュゼだった。
「ジャスミン、どーした?」
「え? ……う、ううん。何でも……ない」
ジャスミンは、ミュゼにも見せない。ただ服の中のそれを触りながら、同行者の顔を視線だけで見る。
「……そういえば暁さんに、薬を頼まれたんだけど。今回の薬って、私用のものらしいのよね」
「私用? 確かに、生きている以上薬使うこともあるか……。そんで、あいつどんな薬頼んで来たんだ? 私用っていうからには自分で使うんだろ」
「……薬自体は普通の痛み止めなの。頭痛や怪我の時にも使えるし、無茶な飲み方しなきゃ害がある事はない筈なんだけど……」
「けど?」
医者は、軽率に患者や依頼人の情報を漏らしてはならない。
職業上の不文律というものは山ほどあれど、ジャスミンは寧ろ今まで黙っていたことを褒めて欲しいくらいだ。
「……聞かれたのよね。『幻肢痛にも効きますか?』って」
「幻肢痛って……?」
「……身体のある部分を失ったにも関わらず、その失った部位に痛みが出ている気がする症状よ。……私自身は幻肢痛の患者さんの診察をしたことがないんだけど、イルはあるって言ってた。それで、……イルが知ってるどんな痛み止めも、効果が無かったって聞いてるの。暁さんにそれ言っても、試してみたいから用意してくれ、だって」
「効かないの!? ……あぁ、でも痛んでる筈の部位がないからそうなのか。効きそうなものだけどなぁ」
薬効と身体の関連にぶつぶつ言いながら考え込むミュゼに、ジャスミンが苦笑を浮かべた。
「暁さん、誰に飲ませるのかしらね」
「――」
「幻肢痛なんて、身体のどこかが無くならない限り出ない症状よ。暁さんは見た所欠損していない様子だし……お身内に、そんな人がいるのかしら」
今度はジャスミンが呟き始めたが、ミュゼはその言葉に視線を彷徨わせるだけ。
ミュゼから見て一番近しいのは人形と王家である暁が、身体欠損のある人物と関わりがあり、その人物に薬を飲ませようとしている。
暁の身内を全員把握している訳ではない。しかし、ミュゼに言いようのない焦燥感が襲っている。
「私に声を掛けるってことだったら、きっともう他の医者にはかかったんでしょうし……駄目で元々で私に薬を用立てさせたのかも知れないけど……ミュゼ?」
「……」
「ミュゼ、どうしたの?」
ミュゼの中でも、嫌な予感が確信に近付く。
「顔、真っ青よ」
顔色を案じたジャスミンの声に、やっと歩を進め始めたミュゼ。
足が向かう先はマスター・ディルの背中、そしてその先の目的地だ。
墓所へと向かう道の途中で、ディルは花屋に向かって花束を買う。それは、ミュゼもいつか見た大きな花束。灰色と緋色の二本のリボンを巻いた、華麗で豪奢な出来栄え。
花は店員に見繕わせたもので、渡した金額に見合う美しさを備えていれば問題は無かった。その花自体には、ディルも何にも思い入れはない。
ただ、花を捧げる相手への想いを、他の手段で表すことが出来ないのだ。
「ようこそ、おいでくださいました」
墓所と酒場は街こそ違えどそう離れていないということもあり、日のあるうちに到着した。
整然として静かに墓石が並ぶ石畳の道を奥へ進むと、墓守が住んでいる小屋がある。暫くの間拠点となるのはこちら側だ。
二階建ての建物は古めかしく、扉を開閉するだけで音が鳴る。床板も、ディルの体重で軋む音を立てていた。
墓守は普段一階で暮らしているらしく、女性二人は二階に向かうことになる。多少埃っぽくはあるが、掃除はしたようで暫く過ごすには不便はない。
二階にディルから受け取った自分達の荷を置いてきた女性二人が一階へ戻ると、ディルは既に狭い卓に通されて茶を出されていた。二人もそれに倣い、茶を出されるのを待つ。
「静かすぎて、退屈でしょう? まさかディル様以外にもいらっしゃるとは思っていなくて、お恥ずかしい」
「いえ、静かなのは慣れていますから。酒場もいつも静かですし」
運ばれてきた茶器には取っ手も無い。客に出すにしても質素すぎるそれを片手で取ったミュゼは慣れた様子で口に運んだ。
ジャスミンも両手で覆うようにして飲む。紅茶とは違う薬草に似た風味が口の中に広がり鼻を通った。覚えのある味に目を丸くしながら唇を離す。
「薬草茶ですね」
「おや、御存知で?」
「仕事柄取り扱いがあるもので。まさかこの場所でいただけるとは思いませんでした」
「墓地の隅に生えているのですよ。手間もかかりますがそのまま処分するよりお茶にした方が副収入になりますので」
「生えてるんですか!?」
ジャスミンの目が光った。薬の材料のものの話になると、普段とは違う意欲的な態度を見せる。ユイルアルトが居た頃は彼女がその役回りだったが、親友である二人はやはり似ていた。
「早めに来てよかった……! もし良かったら生えてる薬草、幾らかお譲りいただけないでしょうか!」
「ええ、どうぞどうぞ。ついでに草むしりしていただけるのであればそのまま持って行ってください」
「承知しました!」
話に入れないディルとミュゼは茶を傾けたまま成り行きを見守っている。この場所に来た理由を忘れられていないかと眉間に皺が寄っている。
「……そろそろ、妻に花を手向けたいと思うのだが」
ディルの言葉を受け、墓守がああ、と声を漏らす。
「其処な医者への場所案内は任せる。我は、向かう場所がある」
言うとディルは空の茶器を置いて立ち上がり、部屋の片隅に置いていた花束を手に小屋を後にしようとした。
なんとなく居心地が悪くてミュゼはその背を追い、ジャスミンは墓守の道案内で薬草が生えている場所に案内される。