144
オリビエは言われた事をこなす律義さがあり、知人であるアルカネットの関係者からの頼み、ということもありディルの依頼は早々に達成される。
無礼なディルにオリビエが怒鳴った三日後、彼女は夜の酒場に連れを伴ってやって来た。
赤毛のチビと形容されるオリビエは、生成り色の上着に濃い灰色で纏めた衣服。連れの男は、膝まである茶の上衣に黒の下履き。足元は脛までを覆う長靴だ。
逢引には見えなかった。男はディルの年齢さえ大幅に飛び越えたような外見をしている。どちらかというと来店したその二人は親子のように見えた。
けれど酒場の者達はそれに血の繋がりはない事に気づいている。
その男こそ、墓守だった。
「お久しゅうございます、ディル様」
「ふん」
男はカウンター席に通されると、座るより先に深々と店の主に頭を下げる。その隣で、マスター・ディルが様を付けて名を呼ばれたことに目を丸くするオリビエ。呼ばれた側のディルは相も変わらずカウンターの中で腕を組んで座っている。
二人が席に着くと、注文より先にマゼンタが茶を持ってきた。温い茶ではあるが、墓守はそれで唇を湿らせる。
その場からマゼンタが離れていくのは、注文を二人から受け取ってから。と言っても軽食と酒なので、悩む時間も少なくてすぐ厨房に入って行った。
「お聞きされたい内容でしたら、オリビエより事前に伺っております。奥方が亡くなって、もう六年になりますか……時の流れは早いものです」
「未だ、六年だ。……此の年月は、我にとって余りに長すぎる」
二人の話に影が差すのを、オリビエは黙って聞いていた。手元には筆記具が置いてあったが、それが動く気配はない。
ディルの妻について初めて聞くであろうオリビエは、興味より先に気まずさが買ってしまったらしい。まだ中年というような年齢でもなさそうなディルが既婚で、その妻も亡くなっているというのも初耳の様子だ。
「お話しするのを躊躇っていたのはあります。件の女性が墓に来るのは、決まってディル様が訪れた三日後になります」
「三日後……」
「水も無く、萎れかけるそれを、女性は持って行くのです。最初私も、墓参りの片づけをしに来たのかと思っていたのですよ。けれどどうも、その花束はディル様が持ってきたものらしいと……気付いたのはここ一年の事です」
「いつ頃から、其の女は来ている」
「見かけるようになったのは三年前ですかね。修道女の服を着ていますが、六番街のシスターにはいません」
墓守が語る女性の姿を、ディルは脳内で思い描いてみた。
「茶髪の、緩く波を打つような長い髪で」
その髪を持つ姿に、ジャスミンと同時にもう亡いソルビットの姿が思い浮かぶ。しかしジャスミンは髪が長い訳では無いので、浮かんだ姿が朧になった。
「黒の瞳で」
浮かんだ二人の人物の姿が掻き消えた。同時に、架空の存在として女性像を作り上げる。
長い茶髪で、黒の瞳の持ち主。記憶の中で該当する人物はほぼ居ない。
「背は……そうですね、女性にしては高かった記憶があります。私と同じくらいです」
「立ってみろ」
促されて墓守が立ち上がる。墓守も身長としては並程度の男性くらいだ。オリビエが並ぶと、墓守の胸上に顔が来る。ディルも立ち上がると、墓守の目元が顎に来るくらいの身長差だ。
成程、と納得する。ディルの知っている女性の中で、それほど身長の高い女はいない。記憶の中に存在しない知らない誰かだと確定した。
ディルが座ったのを見て、墓守もオリビエも座り直す。その頃にはマゼンタが生温い笑みを浮かべながら酒と軽食を運んできた。
墓守とオリビエの前に並べると、離れた場所に向かって歩き出す。急ぎの注文がある訳でも無かったので、三人の視界に入らない位置で話を聞くつもりだ。
「それから……なんとも不思議な方でしたね。……いえね、一度だけ、話しかけた事もあるんですよ。ですが、話が通じているのかいないのか分からなくて……最初は国外から来た移住者か旅行者か、とも思っていたのですが、どうも違和感はそういうのではなくて……平坦、でした」
「平坦?」
「話している間も、帰っていく時も。表情が変わらないし、瞬きをしない。口も僅かに開くくらいで、にこりともしない。声にも抑揚が少なく、何と話しているか分からなくなりました。……あれは、あれではまるで」
墓守は言い辛そうにしていたが、ディルの視線を受けて口を開かない訳にはいかなくなった。
それまでの文脈から、その場にいるオリビエ以外の殆どの者が続く言葉の先に気付いている。それが、過去のディルが言われた嘲りと同じものだということも。
「あれは……人形のよう、でした」
「人形……?」
オリビエだけが聞き返すことが出来た。静かな店内で、他の誰も言葉を発しない中に女性特有の声だけが聞こえる。
ディルの表情が更に険しくなるものの、自分の事を言われている訳ではないので墓守自身に怒りを抱いている訳ではない。
「その……人形? みたいな女性、いつもシスター服なんですか?」
「いつもだよ。……と、言っても、姿を見かけたのはそれが最後になってしまった。それからというもの、警戒されているのか私が墓にいる間は現れなくてね。それからも、いつも、ディル様の花束だけ、決まって三日後に、私が片付ける前に無くなっている。他の花になんて、目もくれないんだ」
ディルの用意している花束は、普通の墓に手向けるのよりも高価なものである自負がある。安らかな眠りを願うと同時、永遠の愛の誓いを保つためのものなのだから。
しかしその花が萎れる前に持って行くならともかく、枯れる直前の頃合いに持って行くのが不思議でならない。
片付ける時を見計らって、せめて短い間でも手元に置きたいと思ったのか。ディルの買い付ける高価な花が、窃盗という手段を選ぶのに躊躇わない程に好きなのか。
現場を見てもいない者があれこれ考えた所で、答えが出る訳も無く。
「ディル様、奥方の月命日ももうすぐですね」
「………」
「もしディル様さえ宜しければ、墓にある私の住居にお越しになりませんか。件の女性も、私が外に出なければ来るかも知れません」
墓守の提案に、ディルは否定もせずに押し黙った。
オリビエは、話を聞きながら何の事か分かっていない顔をまだ続けている。
「奥様の月命日? もしかして奥様って、その英霊の騎士様と同日に亡くなったんですか」
「……ここまで匂わされてまだ気付いてないのか。ディル様、奥様の事をお話ししても?」
「構わん」
墓守がオリビエを憐れむような視線で見る。元々の察しの悪さなのか、それとも『騎士』という先入観が齎すものか。
「その英霊となっているのが、ディル様の亡き奥方なのだよオリビエ。そして今お前の目の前にいるディル様も、騎士団『花鳥風月』の中の先代の『月』隊長だ」
「へ」
「この建物自体が、奥方の持ち物だ。彼女が亡くなって、ディル様が後を継いでいる」
「えええ!?」
こんな場末の酒場で無気力に店に居るだけの男が、かつて騎士であった――なんて、何も知らない人間が聞いたら馬鹿な冗談だと思うだろう。実際、オリビエだってそうだった筈だ。墓守の口から聞かされなければ信じなかっただろう。
憮然とした様子でディルが腕を組み直した。寄せられた眉間の皺が嫌に凄みを持つが、今のディルは無意識化の行動である。
「英霊の騎士様って話だったから、私はてっきり男性かと思ってたんです……! それが女性だったなんて!!」
「……」
「え、英霊様の旦那様……い、いえ、その、マスター、ディルさん、様は騎士様でいらっしゃいましたか。その、知らなかったとはいえ、無礼を」
「……元、だ。今となっては、騎士としての権力など持って居らぬ」
その気になれば口封じと称して、この場にいる赤の他人全員の首を狩ることも出来るでしょうけどね――と、話を聞きながらマゼンタがせせら笑った。
あからさまにオリビエの様子がしどろもどろになった所で、墓守が自分の酒を空にする。軽食もその頃には無くなり、オリビエも気付いて焦ったように注文したものを口に詰め込んだ。
「ではディル様、我々はお暇させていただきます。直接お越しくださって大丈夫ですので、一考ください」
「……ああ」
墓守が代金を出そうとするのを、ディルが掌を見せて制する。今回の注文はディルが持つ、という意思だ。
墓守はそれを受け入れ、そのまま酒場を後にする。オリビエも必死にその背についていくが、退店の時にディルに向かって頭を下げた。
「ふん」
オリビエも、これでディルが向けた非礼について理解しただろう。妻の墓に不調法をする不届き者の話を聞けば、不機嫌になるのは当然の事。それでもディルは形だけでも礼儀を通そうとした。
妻の事が、他人から見て過去になったという実感はあった。年々、墓に供えられる花の数は減った。彼女の名を耳にすることも減ったし、彼女の煩い声を覚えている者だって少ないだろう。
それでも。
ディルの中で、彼女と過ごした時間は過去になりきれていない。
彼女にとっては『完成された』永遠。
ディルにとっては『崩れ去った』永遠。
それはこの先も続いていく時間を誓ったのだから。
「……本当に行くんですかぁ? ということは泊まりですかね、いつ来るかも分からないんじゃ張り付いてなきゃいけないでしょ」
片付けに来たマゼンタは、食器を下げながらディルに問い掛ける。
ディルは返事をすることもなく、無言のまま席を立った。それから、各部屋に郵便物を割り振る為の私書箱の側に寄る。部外者に見られないよう、カウンターの奥に置いてある。
近くに備え付けてある筆記具で、紙片に伝言を書いてそれを一か所に入れた。それは全員に回覧させる書類がある場所だ。用事が済んだら、そのままディルは部屋に戻って行った。
「えー、無視ですかー?」
不服そうなマゼンタだが、ディルがわざわざ私書箱を使った理由は分かる。一度で済む説明なら、同じことを何度も通達しない性格だ。紙に書いて全員に伝わるように触れを出すということは、つまりマゼンタの答えがこれに書いてあるということだ。
マゼンタだって見る権利はある。権利というよりはこの酒場に在籍している以上最早義務だ。紙片を手にして、誰にも見られないようカウンターの中に座り込んで折り目を開く。
「………わぁ。……へぇ」
短文で綴られた指令はマゼンタに驚きの声をあげさせた。
記憶するに容易な文章を脳内に叩きこんで、また同じ場所に戻す。客席の仕事に戻ったマゼンタの表情は、その時には既にいつもの接客用の顔に戻っていた。
『j'a dore所属全員に通達する』
書き出しからやや悪筆なディルの文字は簡潔だ。
『我が妻の墓に盗人が出た。捕縛するまで店を閉めた上でその他の案件を全件停止する。手伝え』
今ある仕事を全部放棄して、盗人を捕まえるのに協力しろ、と。
これまで無気力を貫いてきたディルが、妻の事になると活動的になるのは今に始まった事ではない。
それが『手伝え』とまで来たものだ。
ディルは本気だ。浅い付き合いしかないマゼンタだって分かる。
その様子が、昔跳ねっ返りが妻として側に居た時の事を思い出させるようで、一瞬だけ接客用とは違う素の笑顔を浮かべさせるのに充分だった。