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オリビエの来訪は度々あった。新聞記者の給金はいいのか、夕食を摂っては帰って行くだけ。
アルカネットが自警団の仕事で不在にしている時でも、彼女は一人で卓について、酒場内で特別な交流を取るでもなく食事をする。酒を飲むのは二回に一回。足元が危うくなるような飲み方をするでもなく、軽い酒を一杯だけ飲んで帰宅する。
アクエリアが住居の偵察に行くと、比較的安全な道を通れる六番街に住んでいることも分かった。だから少し遅い時間になっても、無事に帰れるのかと全員が納得する。
オリビエの件が周知されてから、一か月の時間が流れた。その間、ギルドメンバーの心境にも変化が訪れる。
時折来る問題児に酒場の秘密を知られないようにする、危険な遊びをしているような気分になっていた。
その遊びが失敗した際に奪われるものがオリビエの命だということを分かっていても、命のやりとりを含む仕事を受けているギルドメンバー達の心はもうとっくに麻痺してしまっていた。
そして一か月の時間が流れたその後。
オリビエの一言が、酒場に波乱を齎した。
「そういえばアルカネットさん、自警団の方でも何か噂についての話が出回ったりするんですか?」
その日もアルカネットがマスター・ディルからの指示でオリビエと同席している。オリビエもオリビエで、アルカネットが同席することに特に不審がる様子は見られない。
今日は酒を注文した彼女は、酒の肴としてチーズの盛り合わせを頼んでいる。癖の強いものも皿に乗っているが、オリビエは躊躇う事なくそれを一番に指でつまんだ。
「噂? ……随分ふわっとした言い方だな」
「あるじゃないですか。何処其処で不審者が出たー、だの、危険人物が何番街に出たー、だの」
「そういうのは噂じゃなくて注意喚起だろう」
「だから、そういう実際危険な話とかじゃなくて。なんでそんな話が、ってのが出回ったりするじゃないですか。ここ最近で言うと……『六番街墓地に来る女性』とか」
六番街墓地の言葉に反応したのは、いつものようなカウンター内部の椅子に座ったまま微動だにしない筈のマスター・ディルだった。とは言えど、顔を僅かに上げて聞き耳を立てているのを隠しもしないようになった程度だが。
「私ここ三年で城下に来たので知らなかったんですけど……、そちらには先の戦争で亡くなった、救国の英霊とされている騎士様の墓があるとか?」
「……死者が救国の英霊だなんて馬鹿げた話だな。救国できるのは生きている奴だけだ」
「随分否定的なんですね?」
六番街に眠る死者のうち、救国だなんだと持て囃されているのはこの酒場の先代マスターだけだ。
あの女が死んだのは、救国だなどという高尚な意思があっての事ではないことを知っている。アルカネットはそれを鼻で笑って、話の続きを促す。
「墓なんだから、花の一輪くらい手向ける奴もいるだろ。墓地に女が来るからって何なんだ」
「噂の女性ですね、その騎士様のお墓の前に来るそうなんですよ。それがシスター様っぽいらしくて、そんな服を着ているとかなんとか。毎月決まった日に来て、お墓に手向けられたお花を持ち帰るそうです」
「――」
アルカネットと、マスター・ディルが同時に目を見開いた。
死者に手向けた花を、第三者が勝手に持ち帰る事は許されない。持ち込んだ花は墓守が枯れそうになる頃合いを見て片付ける。今までディルはそうだと思っていた。
確かに彼女の命日付近になると他者からの花が手向けられている時もある。だから、件のシスターは花を手向けた他者から頼まれてそれを持ち帰っているか、自分で手向けた花を後日持ち帰っているか――そのどちらかだったら、良かった。
「そのシスター、花を持ち帰る月一回しか来ないそうです」
「……なんでそこまで知ってる?」
「墓守さん、知人なんですよ。お墓は人が生きた最期に辿り着く場所ですからね、お墓に眠る人の歴史を聞くために時々情報提供して貰ってるんです」
そこまでオリビエが語った後で、ディルが徐に立ち上がった。長い白銀の髪を揺らしながら、二人が座る卓まで近寄る。反応するだろうな、とは思っていたが予想とは少し違って、まだオリビエが店を去る前から動き出すディルの姿にアルカネットが慄く。
「其の月一回とは、何日の事か分かるかえ」
「え!?」
「どんな花を持ち帰る。花の種類は。包装の色は」
「え……っと、えっと、マスターさん……でしたよね? 何ですか、気になるんですか?」
「答えろ」
来店している他の常連客も、三人の会話を横目で見るような盗み聞いていた。六番街の救国の英霊を知っているから。そして、マスターがその英霊に向けて未だに注いでいる愛情も。
花のように美しく、雨季の川の濁流のように喧しい女騎士。
彼女に手向けられた花が、それが誰の想いであるかに因らず、勝手に持ち去られていい訳が無かった。
「……答えろって……言われても。だから、私もそういう話が聞きたくてアルカネットさんに聞いていて……」
「ならば、墓守を連れて来い。その不届き者に関する情報、我にも吐いて貰う」
「もしかして、マスターさんってその騎士様と関わりがあった人ですか?」
「今答える気は無い」
ディルの返答も変わらず冷たい。その温度に初めて直接触れたオリビエは、不安げに眉を下げる。
しかしディルは子供ではなく、かといって世間一般の相場というものを分かっているような人物ではなかった。一度カウンターに戻ったかと思いきや、およそ一日分の売り上げが入っているであろう革袋を持って来てオリビエの前に叩きつける。硬質な音をさせた袋は破れる事はなかったが、代わりにオリビエの瞼が裂けるかと思われる程に見開かれた。
「情報料は此れで足りるか。不足と言うのならば必要経費の仔細を提示せよ。最大限譲歩してやろう」
「……な、ん、です、これ」
「二日待つ。墓守を連れて来い」
「……ディル、お前が自分で墓守の所行けばいいだろ」
「墓守とは五年以上顔を合わせておらぬ。名も顔も覚えていない」
無茶苦茶な要求をし始めたマスター・ディルを睨むようにアルカネットが間に入るが、ディルはもう二人の方に視線を向けていない。
暫く何が起きたか理解しきれていないオリビエだったが、はっと気付いたような顔をすると袋をそっと卓の端に追いやった。
「……こんなもの、頂けません」
「額が不服か」
「そうじゃなくて! ……こんな額、頂く理由がないっていうか……その前に、何なんです。さっきから、急に命令したかと思えば理由を話してくれもしないで、その次は有無を言わさずお金って……失礼じゃないですか!?」
悪いなオリビエ、その男はいつもそんなだ――そんな慰めをアルカネットがかける義理も無く、黙ったまま怒り出すオリビエの横顔を見た。
顔は十人並みで、特別可愛い訳では無い。特にディルを見て何も思う所がなかったりするのを見るに、ディルが昔騎士隊長であったことを知らないのだろう。
このアルセン城下で女性が一人で生きて行くには、特別な仕事の才能か、特別目を引く外見か、どちらかが必要だ。オリビエは恐らく前者で、そして絶対に必要な『男に媚びない』という性質を持っていた。そんな女が不遜な態度のディルに噛みつくのは、有り得ない話ではない。
「理由があるなら、聞きます。必要な情報を私が持っているなら多少融通できますし、お手伝いが必要なら少しはします。でも、何がどうなっているのか聞かせて貰えないと、私だって何も出来ません!」
「……喧しい娘だ」
「喧しくて結構! 私の田舎の蛙の方がもっと煩いですからね!!」
自分を蛙と同列にする言いざまに、店内を忙しなく動いていたマゼンタが噴き出した。空気が悪くなっているのにも関わらず、常連達は面白い出し物でも始まったかのような顔でやり取りを見守っている。
辛気臭い酒場が、開店中に大声を許すなんて滅多にない事だ。それが例え仮初のものでも、昔の酒場のような活気を思い出させて。
ディルは不機嫌、アルカネットは傍観、オリビエはキーキー喚く。その三人に近寄って行ったのもマゼンタだった。
「申し訳ございませんが、他にもお客様がいらっしゃいますので声を少し落として頂けると幸いです」
「う……す、すみません」
「マスターの非礼をお許しください。以前からこうですので、私共としても深く追求せずにお願い事を聞いていただけると嬉しいんです。お詫びに、今日の食事代は結構です」
接客用の笑顔のまま、端に追いやられていた金貨袋を手にしたマゼンタ。今日一日分の売り上げが入っているそれを、幾らマスターとはいえ勝手に扱われては堪ったものではない。オリビエは回収された袋を一瞬だけ残念そうな視線を向けたが、自分の発言を覆す訳にはいかないと首を振って耐えた。
「……理由は、後からお話しいただけるんですよね」
「聞きたい、のなら」
「聞きたいですよ! そして記事として美味しそうな話なら是非記事に!!」
「止めろ」
アルカネットが脊髄反射のような反応速度でオリビエを止めた。しかしそんな彼女は鼻息荒く、ディルに詰め寄ろうとしている。
「その騎士様とのご関係は! 五年以上前に墓守さんにお会いしたということは、埋葬時点で騎士様と面識があったということでしょうか!? 救国の英霊様はどのような方でしたか!!」
「……質問が多い。そして、今は答える気は無い」
「ちょっと! 待ってください!!」
明らかに面倒臭くなった様子のディルは、そのまま踵を返して部屋のある廊下に向かって進んでいく。明らかに部外者立ち入り禁止らしい区域に入る事で、オリビエはもう追わなかった。
不完全燃焼になってしまったオリビエは、再びアルカネットに向き直った。
「アルカネットさんは、騎士様をご存じなんですか?」
「………。知らない、って言ったら嘘になるけど、俺よりディル……マスターの方が知ってる」
「やっぱり。ねえねえアルカネットさん、その騎士様ってどんな人だったんですか?」
「何も知らないのか」
「私、さっきも言いましたがこの城下に来たの三年前なんですよ。それまで、城下の様子とか騎士様達の話とかは村に一か月遅れで届く新聞を見る事でしか知ることが出来なくて。……戦争中には新聞なんて、届きませんでしたし」
「ああ……成程な」
戦時中の事は、アルカネットにもいい思い出になっていない。今では五番街でも気を付ければ女一人で外を歩けるが、あの頃は治安が最悪だった。まだ新人に分類される程度の経験しかなかったアルカネットからすれば、自警団の仕事と裏ギルドの仕事の両立で地獄を見た。
守る、と殺す、を違う時間帯の一日でこなしていた。正直に言うと、もう、思い出したくない。
「名前も知らないのか」
「全然。今の『鳥風月』の隊長と副隊長様のお名前でしたら言えますが、歴代のってなると無理ですね」
「……そうか」
「でも、亡くなったのは解体された『花』隊の隊長様と副隊長様っていうのは聞いています。知っているのはそれだけですね……なにぶん、これまでの生活になんら関係が無かったもので」
彼女は、既に過去の人物なのだ。
「そうか、……いや、そうだよな」
「……どうしたんですか?」
「何でもない」
何に、とは言わないが命を賭けて、その結果英霊と奉られて。
それが五年で、城下にやって来る新顔は功績を知ろうともしなくなる。生活に関係ないからと、真っ先に切り捨てられる歴史の一片。
このまま時間の塵に埋もれて、二度と出て来なくなる可能性だってあった。アルカネットだって、これまでこの国で起こった戦争で英霊となった人物たちのことを知らない。
「あいつも、死んでそんだけ経ったんだなって思っただけだ」
「あいつ……? 英霊様をあいつって言うなんて、やっぱりアルカネットさん知ってるんじゃないですか!!」
「はいはい知ってる知ってる。今日はもう帰れ。マスターの口から出る話の方が、お前だって満足できるだろうさ」
体よくいなして、その日はオリビエを帰らせる。酒の入っていた杯は、僅か二口ぶんほどを残すのみになっていた。
オリビエが持ってきたのは、ただの盗人で片付けられる話かも知れない。
なのにアルカネットの胸の中には、言い表せないような不快な感覚が渦巻いていた。知人である死者の眠りを妨げられた、汚された、と憤る感覚に近い。
アルカネットも頃合いを見て自室に引いていく。階段を上りながら、言い表せない感情を必死に言語化しようとしていた。
もし、彼女があの世とやらでこっちを見ていて、花を誰かが盗んでいっていると知ったなら――怒るだろうか。それとも、ディルの好意が無碍にされたと泣くだろうか。
持って行かれた花が、ディルが供えたものでなければいいと。
アルカネットが辿り着いた答えは、それだった。