142
「はーん、そんな事がねぇ」
「アルカネットさんは大変だったみたいです。傍から見ても気を揉んでましたよ」
次の日の正午、開店していない酒場の中は平穏一色だった。
マスター・ディルは完全には不調が抜けきれておらず部屋から出て来ず、オルキデとマゼンタがいるので食事は頼めば出て来る。客もいなければヴァリンも暁もいない、静かな時間だ。
ギルドメンバーの仕事は全員今は無い。アルカネットも自警団の仕事に出ていて、他の面子は昼食に下りてきていた。思い思いの席に着き、魚介のパスタを堪能している。今日の具はイカとアサリだ。
「んでも、初日は安全に終わったならいいんじゃない? また例の彼女が来るか分からないけど、その調子でアルカネットには頑張って欲しいものだねー」
「そんな悠長に構えていていいんですか。対策講じる必要があると思いますが。でないとアルカネットさんが手詰まりになった時、もしかしたら駆り出されるかも知れませんよ」
「対策って言っても、そういうの得意なのそっちじゃないか。アクエリアならさぞ有効な対処方法が思いつくんでしょうねー」
軽口から感じられる仲の良さをひけらかしているのはミュゼとアクエリア。
昨晩の事を世間話のような雰囲気で話すマゼンタの言葉に乗っかった二人の会話を聞きながら、別卓についているジャスミンが複雑そうな顔をする。
このような会話をしつつ、夜も同じ部屋で過ごしている二人は恋人同士ではないという。そんな関係を選んだミュゼはそんな愛の形もあるのだとジャスミンに伝えたが、伝えられた側にしてはそれでいいのかと問いかけたい光景だ。
アクエリアも、ミュゼも、互いを見遣る視線が他と違うのだ。瞳に灯る優しい愛情は、他の者には決して向かない。
それを、ミュゼは本当に分かっているのだろうか。
「対処方法、って訳じゃないんですけどね。私、アルカネットさんに言ったんです。好きにならせてこっぴどく振ったら、もう寄り付かなくなるかも知れませんよ、って」
「ええ……? マゼンタ、ちょっとそれえげつない……。乙女の純情で遊んだら天罰が下るんだぞ」
「冗談ですよ、アルカネットさんがそんな器用な人だと思いませんし。それに、そういうの得意にしてるのってアクエリアさんの方でしょうしね」
「俺ですか?」
「………」
話を向けられてアクエリアが心底嫌そうな顔をするが、同時にフォークを咥えてジト目でアクエリアを見るミュゼもいる。
恋人関係にないとはいえ、ミュゼの恋慕はアクエリアに向かっていた。対するアクエリアがどうかと言えば、それは二人のみぞ知る話で。
「アクエリアさんには今ミュゼさんいますから、それも出来ないって話もしたんですけどね」
「……別に、私がいてもいなくても、それが仕事上必要な事なら私に文句なんて言いようが無いよ」
「……ミュゼ、眉間に皺が寄ってるわよ」
ジャスミンの横槍に、ミュゼがフォークを咥えたまま両手で眉間を抑える。不機嫌そうな表情を隠さずに、変わらずジト目でアクエリアを見ている状態で。
そんな視線に気付かない訳がないアクエリアは、面倒な話を向けられたとばかりに溜息を吐いた。
「俺は、恋愛の仕方なんて忘れてしまいましたからね。心にもない口説き文句を適当に並べるくらいなら出来ますが……、それより俺は、取り繕わない俺そのものを想ってくれる女性に向き合いたい。そんな仕事なんて来ても蹴りますよ」
ミュゼ以外の女性陣は、それをミュゼへの愛の言葉と受け取った。マゼンタは冷やかす気満々の笑みを浮かべ、ジャスミンはその糖度に他人事ながら顔を染める。
「……」
ミュゼだけが、表情が浮かない。
「……ごちそうさま、食器下げとくよ。もう少ししたら外に出るから、閂は開けといてくれると嬉しいな」
「あら、ありがとうございます。お気をつけて」
いつもならアクエリアの食事が終わるまで待っている筈なのに、今日に限っては食器を片付けた後、誰よりも先に階段を上る。
アクエリアも様子の変化に気付いていて、その背を見送るだけだ。食事を進める速度が少しだけ上がった。
「珍しいですね、ミュゼさんが先に上がるなんて。いつもアクエリアさんを待ってるのに」
「御馳走様でした、すみません食器置いていきます」
「ええ、構いませんよ」
足早に階段を駆け上るアクエリアは、焦っているようにも見える。
二人が去った後、マゼンタとジャスミンが視線を交わす。
「どうしたんですかね、あの二人」
「……ミュゼ、この前言ってたんです。アクエリアさんとは、恋人同士じゃない……って」
「ああ」
マゼンタは耳にした言葉から察せる内容に、つまらなさそうに肩を落とした。
「つまり、ミュゼさんは『自分が恋人じゃない』から、『アクエリアさんの分かりにくい愛の言葉を自分のものじゃないと思って機嫌を損ねた』訳ですか?」
「だと思います。どう考えても自分の事でしょうにね」
「当の本人は分からないのかも知れませんよ? ……はー、そういうとこも含めてあの人本当先代に似てる」
「先代って……マスターの奥さんだった人ですか?」
「馬鹿みたいに恋愛面での自惚れから縁遠い人でした。相手が初恋だか何だか知りませんけど、見てて飽きなかった代わりに時々苛々してたんですよね。先代とは曲がりなりにも交流があったから、生暖かく見ていられたんですけれど」
マゼンタの視線が、憎々しげに階段へと向く。その瞳の色はジャスミンには、負の感情を纏って濃くなったように見えた。
「……ミュゼさんは、先代とは違う人ですもん。ギルドの事が有りますから邪険にはしませんが……先代と似た顔で、似た態度で、けど別人で、そんな人がこの酒場で居場所を確立していくのを見るのは……正直目障りです」
「……」
ジャスミンは薄々気付いていた。マゼンタが、この酒場の中では自分の姉以外に特別な感情を抱いていないことくらい、少し長く関りを持っていれば分かる。マゼンタはそれを自ら隠そうともしていなかったから。
姉妹の複雑な立ち位置については、この酒場に身を寄せるようになってから少しだけ聞いていた。滅びた国の生き残りで、生きて行く為に祖国への矜持を捨てさせられて一般人として暮らしていると。だから、ジャスミンもある程度の距離を保ちつつ関わっていた。
「マゼンタさんって、……ミュゼさんのこと嫌いなんですか?」
「嫌いですね」
言い切ったマゼンタの声を乗せた吐息に躊躇いは無い。同時に、階段を見ていた視線と同じものでジャスミンを見る。
その瞳の冷たい紫の輝きに、ジャスミンが思わず息を詰める。
「……私、片付けに戻りますね。ジャスミンさんも、食べ終わったら食器そのままにしておいてくれて大丈夫ですから」
冷たかったのは一瞬だけで、貼り付けたような余所行きの笑顔を浮かべたマゼンタが背を向けて厨房に向かう。
ジャスミンは、手にしたフォークをもう一度口に運ぼうとする気は失せてしまった。
――私のことも嫌いですか。
問いかけようとして出来なかった言葉が、食事の代わりに飲み込まれた。
フォークを下ろしたジャスミンは席を立ち、ミュゼ達と同じように階段に向かう。
綺麗さっぱり無くなってしまった食欲は、その日一日戻る事はなかった。
「ミュゼ」
その頃二階では、ミュゼの部屋の前で立ち尽くしているアクエリアがいた。
突然機嫌を損ねた相棒の様子が気になっての事だが、中にいる筈の部屋の主からの返事は無い。
入室の合図をしたアクエリアの拳が、握られたまま解かれない。入ろうとしても鍵が掛かっていて、誰の侵入も拒んでいるようだった。
「……外、行くんでしょう。買い物だったら荷物持ちに俺も付き合いましょうか」
機嫌を取るように譲歩した声を投げてみても、返事は無い。それでもアクエリアは、ミュゼの顔が見られるまでその場を動かないつもりだった。
「ねえ、ミュゼ。俺は、こういう事に不慣れなんですよ。一方的に拒まれたら、話も出来やしない」
世間のそれと比べれば少し歪な形ではあるが、二人の間に生じた情は決して軽んじられるものではないと思っている。確かな関係を表す言葉の代わりに交わした互いの体温も、アクエリアにとって不愉快なものではなくて。
だからミュゼを部屋まで追った。こうして扉の前に立って、彼女の言葉を待っている。もし不満をぶつけられてきても、それが特別理不尽なものでない限り怒るつもりもない。
少し粘ったら、扉は勝手に内側から開いた。顔を伏せたミュゼが、扉の向こうに立っている。
「ミュ、」
彼女を呼ぼうとしたアクエリアが、その愛称を呼び終わるより先に言葉を詰まらせた。いきなり胸倉を掴まれ部屋の中に引きずり込まれるのを、転ばないように体勢を整えるのに精いっぱいだったから。
そうして扉が閉まり、部屋の中の壁に押し付けられた状態でアクエリアがミュゼの頬に伝う涙の跡に気付く。
「何も聞くな」
絞り出された声はミュゼのもの。
「そんで、何も言うな。今は聞きたくない」
「ミュゼ、何があったんです。俺、何か失言しましたか」
「何も言うなって言ったろ」
ミュゼはそのままアクエリアの胸元に縋るように身を寄せ、苦い吐息を吐き出した。
アクエリアは腕を回してその背を宥めるように擦るが、それでミュゼの機嫌が向上することも無くて、暫くそのまま。
「……私だって、無理なことくらいあんだよ。分かってんだ、私がアクエリアを最低な男にしてることくらい」
「ミュゼ……?」
「黙って。違うことくらい分かってる。私が、一番最低なんだ」
愛していると言え、と言えば、アクエリアはきっと言ってくれる。
ミュゼだってアクエリアに遠回しながらも想いを伝えて来た。けれど、アクエリアには決して言わせない。
縛りたくないからと、彼の事を考えているようで自分本位な頼みに、アクエリアは今まで付き合っている。
それでも、頼みを振り切って自主的に愛を囁いてくれれば、きっとミュゼだって嬉しくなってそれを受け入れるだろう。自分の立場を忘れて。
「ごめんなぁ、アクエリア。私なんかが、好きになって、ごめんな」
八十年の先に生を受ける筈の自分が、今この時にアクエリアの側に居ること。
それを知らない誰もが二人の関係を歪だと謗っても、ミュゼには堪え切れない想いがあった。
ずっと好きだった。
ミュゼの知らない顔で、知らない姿で、知らない他人と知らない関係を築いていた。それでも好きだった。ミュゼの知らない筈の、知っている男に、二度目の恋をした。
真実の全てを伝える事を許されないだろう相手に。
「ミュゼ、何を」
尚も問い質そうとするその唇を唇で塞いで、言葉を止めさせる。ほんの数秒だけ塞がれた唇は、ミュゼが離れてももう何かを言おうとしなかった。
「少し、出て来る。頭冷やして来るだけだから、心配しないで」
追ってはいけない雰囲気を感じ取ったアクエリアが腕を掴みたい衝動を抑えて、揺れる金の髪を見送った。階段を下りる音が聞こえても、その場を動けずに座り込む。
ミュゼの普段の生活に、酒場を裏切るような行動は見受けられない。けれどそれでも彼女は尚も不審だった。本当なら、酒場に身を寄せて間もない彼女の行動は今でも監視されていて然るべきだ。
なのにミュゼを追えなかったのは、彼女がアクエリアを裏切る筈が無いという慢心と、男として追う資格が無いという負い目の二つが理由。
アクエリアはミュゼと体を重ねた今でも、消えない面影を追いそうになる女性が居るから。
そんな心の揺れを、彼女は感じてしまっているのかも知れない。だから愛の言葉ひとつさえ欲しがらず、関係を確かなものにしようとしない。
「……二人で最低になろうって、約束したじゃないですか……」
今だって、昔の恋人とミュゼが並んで、どちらを取るかと言われたらどちらかに即決できる自信が無かった。
襲い来る自己嫌悪は、平然とした表情を作ってミュゼが戻ってくるまで、アクエリアを圧し潰していた。