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オリビエの言葉に、咄嗟に返答できる言葉をアルカネットは持ち合わせていなかった。ほんの少しだけ視線を泳がせて、整合性のある知らない振りをしなければいけない。
自然に。当たり前のように。何も知らない振りで。綻びなどあってはいけない。
「――……。……足を洗ったのかもな」
「自警団から見てそう思えます? 犯罪してた人達が、ある日を境にきっぱり止めるでしょうか」
「……そんな心変わりも、あって悪いもんじゃないだろ」
「二番街に調査に行った時、怪しい人影が出入りしてるって所に行ったんですよ。そこには誰もいなくて、でも生活の痕はあった。……ううん、生活の痕だけじゃない、もっと、口にするのも気分が悪くなる光景だってあったんです。なのに、誰も居なくて。もし組織がいきなり散り散りになったのなら、一般の生活に慣れなくてまた足を踏み外す人だって出て来るでしょう? ……なのに、そういう話は、あまり聞かない。聞いたとしても、犯罪者として新規に手配書を書かれることになる人ばかりです。……アルカネットさんは、そういう組織が急に無くなることについてどう思います?」
オリビエは、続くアルカネットの言葉を待った。しかしアルカネットは考えるふりをして黙る。
何も言わないのが得策だ、と判断した。するとオリビエは、返答を待ちかねたのか自ら口を開く。
「対立組織がどうこうした、っていうのも考えましたし、城下外、或いは国外へ逃亡したのかも、っていうのも考えました。でも、変なんですよね。そんな怪しい集団が城下外へ出ようとするなら門番の人が大人しく通す訳は無いでしょうし……、組織ひとつ匿える程、更に大きな組織っていうのが城下で動いてるとも聞きません。そんな大規模な犯罪組織があったなら、先に王様がどうにかしてくれるでしょうし」
「……王様、……な。お前、あんなの信じてるのか」
「王様はこの国の最高権力者ですから。……確かに、王様が仕えさせている騎士様達にはお高くとまった人もいるし、下の街にもよく目をかけてくれるとは言えません。ですけど、肝心な時に守ってくれる方達だと信じています。……そこまで考えて、思ったんですけどね」
その声は小さかった。なのにオリビエの視界に届かない所で、マスター・ディルもマゼンタも、オリビエを注視している。
この小声が、届いている。アルカネットの背中に汗が伝った気がした。
「犯罪者たちがいなくなって、一番助かるのって……王様とかだな、って。でも騎士様達が治安向上に努めてくれるなら、どうしてそれを公表しないんだろう? って、思って」
灰色の瞳と、紫の瞳が、オリビエの背中を見ていた。
なのに彼女は気付かない。自分の話に夢中だから。
「……公表『できない』誰かが、犯罪者を取り締まってるのかな、って」
「それ以上は止めろよ」
思わず制止の言葉を投げかける程に焦っていた。
「……誰が聞いてるかも分からない。そんな話、こんな場所でするんじゃない」
「ここ、顔馴染みの常連さんしか来ないって聞きましたよ。だから私みたいな女が一人で行っても大丈夫だって」
「………アイツ……」
酒場の事を教えた同僚を恨んだのはこの件だけで二回目だ。女性に対しては口ばかり軽くなって嫌になる。
オリビエの表情は不思議そうで、アルカネットの制止が何故掛けられているか分かっていなさそうだ。まさに今、その危険な集団の巣にいる真っ只中だというのに。
もし、全てを見通してこの話をしているならとんだ策士だ。しかし、アルカネットの目から見た彼女はそうとは思えない。アルカネットの知る女性というのは馬鹿か、それとも女狐かのどちらかに二分されているようだがオリビエは間違いなく前者だろう。
本当に女狐だったら勘付いていることを匂わせるだけで帰るだろうから。
怒りでどれだけ酷い顔をしていたのだろう、アルカネットの顔を見たオリビエは肩を窄ませて俯いた。
「……分かりました、この話は止めます……。でも、アルカネットさん。貴方が自警団員である事を
前提にお願いがあるのですが」
めげない彼女は、端くれだとしても新聞記者だった。
「何だ」
「こういう事件がまた起こった時、情報提供して貰えません?」
「嫌だ」
「お願いしますよ!! 情報量もお出し出来ますよ、こう見えて仕事に困っていないので!」
「……これから困る事になるかも知れんぞ。危ない橋渡ってるような奴の片棒担がされる訳にはいかない」
商売魂とでも言うのか、アルカネットに情報提供を求める姿勢には呆れてしまった。
オリビエがアルカネットに関わろうとする度に、その足元は暗がりへ進んでいく。帰る道さえ見失う程奥まで来てしまったら、もう戻れない。
だからとアルカネットがそれを指摘してやる事も出来ない。知られてしまったら、その時点で終わりだから。
「俺なんかより、自警団には他に適任がいるだろう。お前にこの店を教えたあいつなんか、報酬が無くても協力するかも知れん。勿論、話せる範囲でだろうが」
「えー……。あの人、下心が鼻の下に滲んでましたもん……。ログ……なんでしたっけ。団長さんもあいつは止めとけって言ってましたもん……」
「……それでも、俺は駄目だ。こう見えて忙しいからな、そんな副業に手を出す時間なんてない」
「ちぇー……。分かりました。アルカネットさんへのお誘いは止めておきます」
顔には出さなかったが、ひたすら安堵した。駄々をこねるほど、オリビエも子供ではないらしい。
目の前の食事を完食したオリビエは、そのまま粘る事もせずに会計しようと財布を出した。そこから出る代金は端数までぴったりだ。
「はい、ちょうどですね。領収書は宜しいですか?」
「私的な食事なんで。このままでいいですよ」
会計に来たのはマゼンタだ。笑顔のまま、代金を受け取る。貼り付けたようなプロフェス・ヒュムネの笑顔で、薄目を開けてオリビエを見ている。
「夜も更けましたし、お気をつけてお帰りくださいね」
「はい、また来ます!」
「……。ええ、お待ちしています」
気遣う振りをして、出入り口まで見送るマゼンタ。扉向こうに姿が消えるまでを確認して、再び接客の仕事に戻っていった。
それを皮切りに、他の客もひとり、またひとりと帰っていく。およそ十分程度の間に、常連客は全員帰宅の途に就いた。客がいなくなれば、店を閉めるのに丁度いい時間になって、閂が掛かってその日の営業は終わり。
アルカネットはそこまで終わって漸く一仕事終わった気分になった。酒場では滅多に吸わない自前の煙草を腰下げの荷物入れから出し、やや乱暴な手つきで火を点ける。
今まで微動だにしない、と言えるほど動かなかったマスター・ディルは、漂う紫煙の香りに少しだけ眉を顰めた。
「喫煙は体に悪影響だと記憶しているが、まだ禁煙していなかったのかえ」
「……ほっとけよ。うるさいな」
「自警団の仕事を完遂出来ねば、表の顔を取り繕えぬであろ」
「………勝手に言ってろ」
マスターの小言は滅多に聞くことが出来ない代わりに耳が痛くなる。直接仕事に関わらない内容であれば無視しておけば、無気力な彼はいつも途中で諦める。
マゼンタは客席の食器を全て厨房へと引っ込めて、台拭きを手に出て来ると同時聞こえよがしな大きい溜息を吐いていた。
「あー疲れたぁ。聞きました、アルカネットさん? あの人、また来るんですって」
酒場に合わせた上品で辛気臭い接客から一転、好き勝手言うマゼンタに様変わりした。彼女がこんな姿を見せるようになったのも、ディルがマスターに就任してからだ。同時にこれが彼女の素だと知る。
「別にお越しくださるのは経営的に有難いんですけどぉ、お酒をお召しにならないのでは売り上げとしても少々難があります。こちらも慈善事業ではないので、アルカネットさんも次いらっしゃった時にはお酒を勧めてくださいよ」
「って、ちょっと待て! 次も俺が相手しないといけないのか!?」
「当然でしょ、注文だけは私が取ってあげますから、適当に話合わせてもう来ないようにしてくださいね。……あ」
そこまで言って、マゼンタが何かを思いついたような不穏な笑みを作った。
「アルカネットさん、彼女に粉掛けて好きにならせて、こっぴどく振ったらどうです」
「はぁ!?」
「そしたら気まずくなってもう来なくなりますよ。そういうのもアクエリアさんの方が得意でしょうけど、あの人今ミュゼさんいますから」
「だからって俺か!?」
それもぽっと出の適当な案だったが、次に声を発した人物のせいでその場の空気が凍る。
「――不純な色恋沙汰は我が目の届かぬ所でやれ」
アクエリアのミュゼに対する所業を黙認しているマスター・ディルが、アルカネットの事に限って口を出した。
アルカネットは不快を表情で露わにするが、マゼンタは目を見開いて肩を竦めた。二人の仲の悪さは以前からだが、やれやれ、またか、と。アルカネットも子供ではないのだから反抗しなければいいのに、と。
マゼンタも、そして厨房の中のオルキデもそう思っていても仲裁なんてしなかった。そんな面倒な役、二人に大して思い入れの無いプロフェス・ヒュムネにとっては御免被りたい件で。
「……お前には関係の無い話だろ。俺が誰とどうなってどんな事になろうと、お前だって興味は無い筈だ」
「………」
「俺は俺のやりたいようにやるだけだ。……誰にも看取られず死んだ奴の二の舞になりたくないんでな」
棘のある言葉で、誰の事を言っているのかは全員の理解の及ぶ所になってしまう。
けれどこれまでは、妻に関する嘲りを聞けば多少なりとも激昂していたディルの様子がいつもと違う。どこか平然と、他愛ない話であるかのようにアルカネットの言葉を聞いていた。
アルカネットはその不気味さに言葉を呑んで、足早に二階へ続く階段へ向かってしまった。
「……ディルさん?」
不気味さを感じ取ったのはマゼンタも同じだ。名を呼んでみるが、苛立ちに歪む瞳をしていない。それがこれまで見せていた表情とは違っていて、不思議と不穏が同時にマゼンタの胸中を襲う。
「ふん」
ディルはそれだけしか反応を見せず、今日も掃除の全てを姉妹に押し付けて部屋へと戻っていく。
ディルの胸中は誰にも分からない。
『死んだ奴』が、もしかしたら生きている――かも知れない、なんて事をその場にいた者ではディル以外知らないのだから。