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対新聞記者の案のひとつとして出された酒場改装の話は立ち消えた。代わりに、店内の警戒を強めることになる。
具体的には、時間を問わず店内に一切の武器類を持ち込まないこと。血に塗れた姿で帰って来ないこと。記者の注文以外の相手はアルカネットがすること。以上三点を基本的な動作とし、全員に通達がなされた。
酒場には出入り口は二つあって、一つは店内に繋がる扉。もうひとつは厨房にある裏口にたったひとつ長棒を置くことで、店内に武器を持ち込むことは無くなる。仕事が言い遣わされた時には、それだけを持ちだして任務達成に尽力することになる。もし長棒を見られても、強盗対策と言いくるめられる。
血に塗れた姿で、という案を出された時は、まずアルカネットとミュゼが全員の視線の的となった。ミュゼはともかく、アルカネットは着ている服が暗色ばかりということで返り血もそのままに戻ってくることがある。今後の事も考えて釘を刺したような通達だった。
記者の相手をディルが出来るとは誰も思っていないし、表向きは自警団であるアルカネットが穏便に相手をして何も知らずにお帰り頂こうという魂胆だ。
その通達がメンバー全員に渡り、来るなら来い! ……と、誰もが覚悟をしたその翌日、件の女性は本当に来た。
「…………」
時刻は日が沈んで暫く経ち、月明りで外が僅かな明るさを持った午後八時。それまで静かだった店内に、扉の鐘の音が響いた。
知る人ぞ知る店である酒場『J'A DORE』は、相も変わらず空気感が葬式だ。
この店に初めて訪れる若い客が、その空気を直接肌で感じてどう思ったか――顔を見れば分かる。
「………えっと」
鐘を鳴らした女――オリビエ――は、最初の一歩を踏み入れて固まってしまった。店内は他の飲食店と比べて灯りの数は変わらない。中にいる年齢層は若干高いが、誰も来客に興味を示さない。女性客が一人となれば、大抵の店では奇異な目で見られるものだが。
店主と思しき男すら、オリビエの方をちらりとも見ない。中に入って良いのかを躊躇っている彼女に、接客担当であるマゼンタが近寄る。「いらっしゃいませ」と静かな声で言うのはいつものこと。
不安そうな顔に、掌で席を示す。連れもいないというのにテーブル席を案内されて、怪訝な顔をしながら彼女が着席した。
逡巡の後に品書きを手にして、書いてある料理の名前に目を通す。品の隣に料金まで書いてあるので躊躇いは少なかったらしい。次に彼女は手を挙げるとマゼンタを呼んだ。幾つか食事を注文をして、それで二人の関わりは一旦終了。
そわそわと落ち着かない様子を見せる彼女に、やっと笑顔が戻ったのは、アルカネットが二階から下りて来た時の事だ。
「アルカネットさん」
「……本当に来るとはな」
呼んだのは、たまたま酒を取りに下りてきていたアクエリアだ。彼は自分の酒と共に二階へ上がり、アルカネットを呼んだ後は部屋に戻ってしまった。
アルカネットはオリビエと同じ卓に座り、前菜になるような野菜料理を持ってきたマゼンタに軽い酒を注文して下がらせる。その時にマゼンタが少々不服そうな顔を見せたのは、滅多に来ない新規の客に興味が湧いていたからか。
「看板出てないって聞いていましたから覚悟はしていたんですが、少し迷っちゃいました。……にしても、凄く静かな所ですね。酒場って聞いたからもう少し賑やかな所かと思ったんですが」
「静か……か。ものは言いようだな。この辛気臭さを有難がる客は確かにいるし、揉め事も起こらないから慣れたら楽だ」
「確かに。静かな空気って良いですよね。城下だとこの辺りは特にいつもどこでも賑やかで……だから余計に、不思議な感じがします」
オリビエが店内をこっそりと視線で見渡す。首が緩やかに動くと、肩まである赤毛が毛先の形を変える。若干の癖を持つ髪は、普段は快活そうな彼女の性格を表したようだった。
店内はアルカネットの日常になってしまった空間だが、オリビエにとっては初体験の非日常。彼女は頑張って好意的に見ようとしているのだろう。
「少しお話に聞いただけですが、結構年季の入っている建物ですね? 建ってから何年くらいになるんでしょうか」
「……。さあ。俺も詳しい話は聞いて無いな」
少なくとも二十年ほどは同じ立地に建っている筈だ。そう聞いている。
そんな所さえ言わずに暈すのは、オリビエにこの酒場の事を深く知られたくないからだ。
「アルカネットさん、こちらにお住まいなんですよね?」
「そうだな。だからってココの全部を把握している訳じゃない。仕事終わりに帰れる部屋があるから住んでるだけだ」
「そうですか……いえ、でもくたくたで帰っても、自分で用意せずとも食事にありつけるのって良いですよね……」
他愛ない話に違いは無いが、感慨深そうに呟くオリビエ。そうこうしている間にオリビエの前には燻製肉と野菜の蒸し焼きが、アルカネットの前には酒が運ばれてくる。
一口だけ酒を含んだアルカネットが、主軸をずらすようにオリビエに話を振ってみた。
「飯、普段自分で用意してるのか?」
「そうですよぉ。私、一人暮らしなもので。仕事は楽しいけれど忙しいですし、やりがいもありますが私生活が疎かになりがちなんですよ」
「新聞社だったな。そんなに忙しいものなのか」
「そうですねー……。ほら、物騒な事件とか多いでしょう。私が関わっているのって、あれ系の事件が多いんで。ほら、ちょっと前で言うと……三番街F地区の、首無しの遺体」
その言葉に、店内に居る酒場所属のギルド関係者全員が耳を澄ませた。
アルカネットは、真正面からその事件の事を聞いて体が硬直する。表情を崩さないようにするので精一杯だ。少しでも変化が無いように、自然を装う。
あの件はアルカネットが深く関わった、なんていう生温いものではない。直接手を下したのだから。
「……そんな事件も、あったな」
「ですよね……。もうそんな認識になりますよね。実際、あれは何の手掛かりも無く犯人も見つからずじまい。私の調査の手も及ばず、続報を届けられず打ち切るしか無かったんです。でもあの事件だけじゃない、幾つも、幾つも、凄惨な事件はありました。その度に、私は調べて、調査して、聞き込みして。それでも犯人は見つからどころか手がかりもないし、新聞の読者の方々……いえ、きっと読んでくれていない人も、誰が何故、どんな動悸であんな事件を起こしたのか不安がっています。理由が分からないことには、いつ自分が無作為に酷い目に遭うか分からないんですから」
手がかりも無い、の言葉にアルカネットが安堵する。
これでもし、手がかりでも見つけた上でこの酒場に近付いたとしたら、この女の命は無かったろう。神経質なディルやヴァリンに文句を付けられたくなくて、注意を払って仕事をしていた自分の行動に間違いは無かったのだと悟る。
女は蒸し焼きにフォークを差し込むと、葉物野菜と燻製肉を同時に口に運ぶ。出汁を振りかけた蒸し焼きは、アルカネットの鼻にも食欲をそそる香りを届かせた。
「危険だとは思わないのか。情報を伝える事も大事かもしれんが、余計な事に首を突っ込むことにならないか? 自警団員としては、危険な調査は即刻止めて欲しい所だが」
「アルカネットさんは、今の仕事が危険だと分かっていて続けているんでしょう?」
「自警団と新聞記者の仕事は違う」
「違いますが、それが私の仕事なので。私一人が危ないからって諦めたとしましょう。百人いる新聞の読者のうち、記事の続報が気になって十人……いえ、五人が危ない橋を渡って事件の痕跡を辿った場合。その中の二人が死ぬかも知れない。一人かも知れない。もしかしたら二十人が気になって、五人が死ぬ事になるかも知れない。もしかしたら続報が無かったせいで、次に犠牲になる人の特徴を掴んでいたのに注意喚起も出来なくて死んでしまう人がいるかも知れない。そもそも、このアルセンの識字率は高いのですからそれを有効活用するべきだと思いませんか?」
オリビエの意志は固いもののようで、自警団員としての説得に聞く耳を持っていない。
自分の行為が正しいと信じ切っている者に、考えを改めさせる気の利いた言葉はアルカネットは思いつかなかった。
こういった手合いの相手はアクエリア辺りが適任なのだが、これはアルカネットに一任された件。考えを変えられないのなら何も知らないまま帰って貰うのが一番だ。
「……有効活用するのは結構だが、それで命を落とされてもこっちの目覚めが悪いんだ。くれぐれも無茶な事はするんじゃないぞ」
「分かってますよ。……でも、今追ってる一件は命の危険と引き換えにしても、是非調査したいものですね!」
「一件? 自分の命を軽く見る奴って、自警団から救助されなくても知らんぞ」
「そう言わないで下さいよ。御存知かも知れませんが、城下の一部で囁かれてる噂でもあるんですけどね」
そう言ってオリビエは勿体つけるように、食事を口に運んで飲み下してから唇を開く。
その間に流れた時間は僅かな筈だったのに、何故かアルカネットにとっては酷く時が経ったように思えた。
「……私が追っていた事件の大半は、手がかりを残さない殺人が多かったんです」
「ああ」
「おかしいって思いません? アルカネットさんは自警団員なら考えませんでしたか。あまりに、手際が良すぎませんか。絶対、突発的な殺人じゃないんですよ」
「……まあ、そうだな」
アルカネットは、オリビエの考えへの明確な答えを知っているから曖昧な相槌だけを返した。
実際それは自警団の中でも語られている内容だ。アルカネットは役職も無いただの自警団員だから、上役に意見を求められることも少ない。だから会議に首を突っ込むことも無かったのだが。
「それで、これまで証拠も少なく殺された人たちは……私の調べでは、確かに恨みも買っている人達が圧倒的に多かったんですよ。時々そうじゃない人もいましたが、どうも不自然なんですよねぇ」
「不自然って、何がだ? ……殺しが行われた時点でどう考えても自然じゃないだろう」
「それはそれですよ。……殺された人を辿っていくと、犯罪者の組織に入っている人もいた。組織の人達って、組織って言うからには集団じゃないですか」
「そりゃな」
「それが、ですよ」
オリビエが、再びフォークをスープの具材に刺した。
「ある日を境に、その組織が綺麗さっぱり無くなってるんです。……おかしくないですか」
まるでアルカネットを探るような視線が向く。
その視線に返答するアルカネットの声は、自分で不自然でなかったか分からなくなった。