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部外者が裏ギルドを探っている――という情報が入ってからも、酒場の面々は特にいつもと変わらない日常を送っていた。
露見するような失態を犯しているつもりは無かったし、実際そうなったとしてもどうにかなる、程度の認識しかない。早い話が危機感が無かった。
小娘程度が国家に喧嘩を売ろうとしている。探って幸せになれる話でなしに、探ろうとしている女に待ち受けているのは死だけだと目に見えていた。
だからと、油断ばかりしていた訳ではない。
『j'a dore』は、良くも悪くも常人だけが所属しているギルドではなかったから。
いつも湿っぽい店主が居ようと居まいと、酒場『J'A DORE』に来る客は変わらず湿っぽい。
誰も彼も金払いが良いとは言えないが、元々が先々代の店主が道楽で開いていた店だ。店の収入以外が主な収入源でもあるので、開店してようが閉店してようが酒場の面々の暮らしには何も問題が発生しない。
接客の『せ』の字も理解していないような現店主が何故今も店を開いているかと言えば――亡くなった妻が遺したものだから、という答えしか出てこない。
店を切り盛りしているのは実質オルキデとマゼンタの姉妹で、それに付き合わされているのは先々代店主の弟であるアクエリア。
その日もいつもと変わらず、徐々に秋から冬に移行するように冷えて来る空気の中で店は開いていた。
「最近、お酒強くなって来てない?」
陰鬱な店内で、もう慣れたものだという風に片隅で酒を酌み交わしているのは、ギルドメンバーのジャスミンとミュゼだった。
ジャスミンもたまには飲みたい夜だってある。けれど流石に一人で飲むのは不安らしく、そういった時に付き合うのはミュゼの役目となっている。
ミュゼはこの酒場に身を寄せた時よりも強い酒を飲めるようになり、それがジャスミンの奢りでとなれば普段飲まないような高い酒を喜んで注文した。
「まぁ、ほぼ毎日飲んでればねぇ」
「飲み過ぎじゃない? アクエリアさんと飲んでればそうなるのかしら」
「底なしだからなアイツ。んでも絶対一緒に飲んでる訳じゃないよ」
「……一緒に飲んでないなら一体何してるのかしら……?」
「……………」
ジャスミンが酒器を傾ける。濡れる口許は少しだけ不満そうに曲がっていた。
「羨ましいなぁ。アクエリアさんって元から女性に優しい気はしてたけど、ミュゼにはとっても甘いのよね。こんな調子でずっと一緒に居たら、この酒場から既婚者が出て来るのも遠い未来の話じゃないかも?」
「……んー」
「そうなっても二人はこの酒場に居るの? 新婚が酒場の部屋って、色々と不便じゃない?」
「……」
ジャスミンが浮き立つように言葉を連ねる度、反対にミュゼの表情が曇り行く。
それに気付いたのは新婚の家の間取りの話にまで話が発展した時だった。
「……ミュゼ、どうしたの? 私、何か不味い事言った?」
「ん、いや。ジャスミンが悪い訳じゃなくて、その……、多分、私達、結婚しないから」
ミュゼが躊躇いがちに言った言葉に、ジャスミンが目を丸くする。
懇ろな関係になった二人が、特に障害があるようにも見えないのに結婚しないなどと言い出すなんて思わなかったからだ。
自由を謳うアルセンでは国家的保障が無い代わりに夫婦別姓は疎か同性婚すら認められている程、結婚という関係に障害は無い。勿論事実婚なんて関係を選ぶことも自由の範疇。
けれど、ミュゼは『しない』と言った。
「どうして?」
「……んー……。説明、難しいなぁ。でも……多分、子供、もし出来ても……結婚しない。そもそも、ね。私ら、恋人でもないんだ」
「はい!?」
ジャスミンを襲ったのは頭痛だった。まさかアクエリアとミュゼがそんな爛れた関係だったなんて思わなかった。
確かな関係も無く、体だけ繋ぎ、それでいいと思っている。貞操観念ばかりしっかりしすぎたジャスミンにとって刺激の強い話で。
「……ミュゼ、それでいいの?」
「良いって言うか、その……なんて言うんだろ。いや、私はちゃんとアクエリアの事好きだよ。でも、……結婚って、一番……縛るじゃん」
言いにくそうに、けれど隠さずに伝えながらミュゼはカウンターの方を見た。其処には店主のディルが居る。
ジャスミンもそれで気付いた。彼は、亡き妻に今でも心を縛られているから。
「私は……多分、アクエリアを……置いていくから、これが最適解な気もしてる。ずっと一緒にいたいけど、多分無理だし、ちゃんとした約束をしたら、アクエリアにとって私が重荷になるから」
「置いていくって……寿命の話? 確かにアクエリアさんはエルフだけど、ミュゼもエルフの血を引いてるんでしょ? その場合寿命ってどうなるの?」
「……」
ミュゼの友人は、友人という立場を獲得してもミュゼの全てを知ることを許されない。全てを伝えられない歯がゆさに、伝えられない本人が一番苦しんでいる。
質問に浮かべた微笑は、眉を下げて答える。
「私はこれで大半がエルフなんだよ。死んだことないから寿命の話は分からないけど……でも、周辺で長生きした奴の話は聞いた事ないな」
「そうなの?」
「私ね、親の顔もあんまり覚えてないから。……育ての親に引き取られたのも小さい時だったしね」
「あ……、ご、ごめんなさい。私、深く考えずに聞いちゃった」
「んーん。孤児なんて珍しい話でも無いし、もう悲観することもなくなった。慣れたってのが一番近いんだけど……だからかな、アクエリアと幸せになる未来ってのが見えないんだ」
自分の酒を空にしたミュゼは、店員であるマゼンタを呼びつけて更に一本頼む。
次に運ばれてきた酒は一番安価なもので、悪酔いしやすいが簡単に酔える酒だ。質が良い訳でないそれを、ミュゼは手酌で傾ける。
「んでも、今のところアイツには不満無いかな。私生活でも仕事でも支えてくれるし、いい男だよ」
「惚気ってやつねそれ」
「うん惚気。……そういうジャスミンこそどうなのさ」
「私? ……私は」
水を向けられたジャスミンは浮かべるのも苦笑だった。
想う男の事だというのに、話す二人の表情は晴れない。暗い影が覆っているのは二人の恋路もだ。周囲に疎らにいる常連客などは、酒場に合わないような恋愛話をしている二人の声を盗み聞いては微笑を浮かべている。こんな話でも、暗い空気の慰めにはなるらしい。
酒場の入口の鐘が鳴ったのはその時だった。
「いらっしゃ――、あ、おかえりなさい」
マゼンタが来客を招く言葉を訂正したのを聞いて、ミュゼもジャスミンも入口を見た。入って来たのはアルカネットで、相変わらず不愛想な顔を隠さない。
どかどかと大股でカウンターまで寄った彼は、胸元から何かを出してマスター・ディルに提出する。
「腹が減った。いつもの」
「……ふん」
不愛想な顔のまま、アルカネットがカウンター席に着いた。
アルカネットがディルに向かって食事を注文する所を、ミュゼは初めて見る。嫌ってる筈なのに珍しい、それもあんな近くに座って、と思っているとディルが提出された何かを指で掬って手に取った。
金、ではなかった。金属である硬貨にも、薄い紙である紙幣にも見えない。紙片のように見えるそれは、端を手に取ったら重力に任せて形が曲がるものでも無い。相応の厚みがあるようだ。
「閉店まで、暫し時間が有る。……待て」
「言われなくとも」
店の中に時計は無い。ジャスミンが仕事で使っている懐中時計を出すと、時間は既に閉店がすぐそこまで迫っていた。
注文を横から聞いていたマゼンタは直ぐに厨房に入り、アルカネットの要望を厨房担当のオルキデに伝えたようだった。
ミュゼとジャスミンの会話が途切れた酒場は、再び沈黙に包まれる。変わる事の無かった、マスター・ディルの酒場の姿だ。
「それで」
ひとり、またひとりと客が退店していった酒場は無事に閉店時間を迎えた。
アルカネットはその時には既にハムステーキとパンにありついており、上品とは言えない食べ方で皿の上のものを平らげて行っている最中。
何事か気になったミュゼとジャスミンはまだ席に残っている。
「早速、という訳か」
ディルは指の間に紙片を挟んでいた。先程アルカネットから渡されたものだ。
何が書いてあるか、ミュゼとジャスミンが居る位置からは読めない。
「アールヴァリンは暫く不在にすると聞いている。あれが居ないと面倒だな」
紙片を弄ぶディルの近くに、閉店作業中だったマゼンタが近寄った。しげしげとそれを覗き込むと、彼女の表情は一転する。
名刺だった。ご丁寧に勤務先の所在地まで書いてある。
「……へえ」
いつもは快活で、それでいて礼儀を弁えた女の姿だ。
それが今は、唇が不気味な孤を描いている。
「例の人ですね?」
「……恐らく」
例の、と言われてミュゼとジャスミンが顔を合わせる。『早速』『例の人』と言えば、最近物騒な話を聞かされた気がする。
裏ギルドの事を調べている人物がいる、と。
「新聞社勤務、女性の名前……へえ、例の人ってオリビエって名前なんですねぇ。へえ。へー。新聞社って所在地ここなんだ、へええ」
興味深い玩具でも見つけたかのように、マゼンタの瞳が輝く。その輝きはキラキラ、ではなくギラギラ、といった獣のようなものだった。
ミュゼとジャスミンにとっても無関係な話でないのでカウンターに近寄ると、ディルはまだ名刺を眺めているマゼンタを無視して二人に差し出して来る。受け取ったのはミュゼ。
白い名刺に書いてあった名前を見ると、下部には銅板で勤務地が記されているが中央に手書きらしい女性の名前が書いてある。
オリビエ・ディンレ。
一個人を識別する名前を見た瞬間、先日ヴァリンの口から聞いた最悪の未来の惨状が脳裏に過った。
この女が処刑される未来が、これで確立したかのような感覚が襲う。
「……どうすんだ、これ……」
思わずミュゼが声を出す。
接触は既に成された。これをディルは、そしてヴァリンはどう報告する?
そしてヴァリンが報告を持って行く先であろう王妃殿下は、どのような指示を下す?
不安が声に混ざってしまった。アルカネットはその不安を宥めるように報告を始める。
「一応経緯を説明させて貰う。今日、俺が自警団の仕事で三番街に出た時の話だ。……相手は周辺で争い事や恐喝に手を出していてな、裏でコソコソやらずに大っぴらにやるような馬鹿だったから俺達が出られた。面倒な捕り物になったんだが、その時に周囲を嗅ぎまわってる奴がいた。ログ――自警団長が恫喝して事情を聞いたら、犯罪系統の情報を扱っているっていう部署にいるその女だった。ご丁寧にこうして名刺まで渡してきて……外見は聞いていた通りだったから、多分ヴァリンの言ってた奴だろうって思う」
「汝を此の場の関係者だと勘付かれた訳では無い、と?」
「そうだろうな、その場にいた自警団全員に名刺渡してたよ。ただな、ひとつ問題が発生して」
アルカネットの表情は暗い。しかし半笑いだ。
「その捕り物が終わったのが夕方の話だ。俺達の仲間の一人が唐突に腹減ったって言ってな。そしたらその女も夕飯食ってないって言った。……馬鹿が、俺の住んでる貸し宿の一階が酒場だって教えやがってな。何処に在るかも懇切丁寧に説明しやがった」
「わあ」
「嘘だろ」
「そしたらその女、『是非今度行ってみたいです!』……だとさ」
女性陣の表情から血の気が引いた。標的以下の要注意人物が自分から魔物の塒に来るという。それが社交辞令であって欲しいとミュゼが願った。ジャスミンは何事も無く何も知らず帰って欲しいと思った。マゼンタは――面倒臭い、ただそれだけが顔に滲み出ている。
「……来るのならば、其れが客であれば招かない訳にはいかぬであろう」
面倒臭そうな顔なのはマスター・ディルも同じだ。
「いつ来るのかも分からんがな」
「改装閉店でもするかえ。丁度彼方此方で老朽化が著しい、数か月店を閉めていれば何れ忘れよう」
「そんな大規模改装するのなら、私達一時退去しなきゃいけないんじゃないですか? ここ以外の何処に住めばいいんです」
「………」
「イルが置いていった薬草達、部外者に見つかったら私もリエラさんみたいに追放処分ですよ? それで済めばいいですけど、あの量じゃ最悪処刑です。それに運良く貸し部屋が見つかったとして、荷物は私だけじゃ全部は運べません。改装が終わったらまた運び直して貰わないといけませんし、そもそも改装したとして本当に例の人はこの酒場を忘れてくれるんでしょうか? 改装終わったから今度こそ行こう! って事になったりしませんか?」
「…………」
ディルは適当に言ったつもりだったが、ジャスミンから半ば本気の抗議をされて押し黙ってしまう。
今は全員が同じ場所で寝泊まりしているから統率の形だけは取れているのだ。それが叶わなくなるのは幾ら数か月の間だけとはいえ厳しい。たった一人の来訪者、それも本格的に排除命令が出ている訳でもない相手にそこまでするのかと酒場唯一の医師の瞳が語っている。見つかってはいけない荷物が一番多いのもジャスミンなのだ。
「………此の件はアールヴァリンへ報告するまで思考を保留とする。ミョゾティス、経緯を後からアクエリアへ話しておけるか」
「マスター、まだ話は終わってません」
「ん、しとくよ」
「我は下がる。各々、油断はせぬように」
「マスター!」
「ジャスミンはちょっと落ち着いてくれな」
宣言通り、ディルはそれきり酒場の片付けもしないまま部屋に戻って行ってしまう。いつも通りにマゼンタが代わりに店内の清掃に回った。
アルカネットも食事を再開する。ミュゼとジャスミンは、再び顔を合わせて黙り込んだ。