夢を見た
俺がその女性と出逢ったのは、酒場開店中だったある夜のことだった気がする。
俺の実兄が引き取った孤児だという話を聞かされた時は驚いた。同時に、その兄が死んだという話も聞いた。
孤児という幼い時期を越え、女性として成熟した彼女は結婚していた。
別に、その話に不満なんて無い。彼女に向ける情は、恋愛から掛け離れていたし――何より、一緒に居る間あんな話ばかりされたら堪ったものではなかった。
「それでさ。あの人ねぇ、荷物持ちにもついて来てくれるんだ。細く見えても沢山荷物持ってくれるくらいに力あって。それはそれで嬉しいんだけど、何よりあの人が一緒に居ると、皆が仲睦まじい夫婦だねって言ってくれるのが本当に本当に本っ当に嬉しくてねぇ。あー、アタシ達本当に結婚したんだなぁってしみじみ思っちゃうよね。あんまり嬉しくなりすぎてアタシ自分の荷物置いて帰っちゃった時があったんだけど、それも回収して帰ってくれるから優しいんだあの人。もっと周囲見ろって言われるけどそれさえも嬉しいんだよねぇ。でも冷静でいられる訳なくない? ディルってば顔色変わらないけどアタシいっつもあの人と居られて幸せな訳で、……なぁ、アクエリア聞いてる?」
「聞いてます聞いてます。この話確か四回目です。昨日も聞きました」
「まだ四回目? 誤差の範囲大丈夫大丈夫。それからねぇ、ディルってあんまり買い食いしないんだけど、アタシが買ったの差し出すと食べてくれるんだよ。だから多めに買っちゃうんだけど、そのまま夕食も全部食べてくれてさ。美味しい? って聞いてもあんまり感想言ってくれないけど、絶対残さないの。これって美味しいってことで良いんだよね。兄さんみたいに料理上手じゃないけど近いうちに練習したいな、そんでいつかディルから何が食べたいか聞き出すの。今まで何食べてもだいたい同じ反応でさ、色々食べて貰ってるけどコレっていった好物が分かんなくてね」
「その話毎日聞いてますけど!?」
「じゃあ明日も話すよ」
「止めてください!!」
俺がとある事情から酒場に身を寄せてから暫くして、戦場から一時帰還したという彼女は帰って来た。
まだ出立の日は来ていないから、日の出る頃に酒場を出て城に向かい、夜はずっと酒場に帰って来る。
愛しの旦那様が戦場に残って寂しいのか、毎夜俺は客席で彼女から耳にタコが出来るかのように同じ惚気ばかりを聞かされる羽目になったのもすぐだ。
半強制のそれは酒の酌までさせられて、毎日仕事とは別の理由で疲れている。いい加減解放してくれ、とも思うが彼女は聞く耳持たず。
「本当に格好いいんだー……。背も高いから街中で別行動しててもすぐ見つけられるし。目を引く長い銀髪がとっても綺麗で、アタシの瞳よりはっきりした灰色の瞳でね。鼻筋も通って唇も薄くて、街を歩けば誰もが振り返るような美青年。んで滅茶苦茶強い」
「はいはいつよいつよい」
「アクエリアも絶対驚くぞ。こんな美形が騎士やってんだって感心するぞ。そんでその美形はアタシの旦那様なんだ、凄いだろ!!」
「はいはいすごいすごい」
「これまでずっと見て来た顔なのに、今でも近くに来ると心臓ドキドキするんだー。優しいし格好いいし自慢の旦那様だし、アタシ幸せ」
「はいはいしあわせしあわせ」
「真面目に聞く気ないだろ!」
「真面目に聞けるような話してくださいよ何度目ですか」
知り合ってからの期間も短いというのに、俺達の会話は小気味良い漫才のようだった。酒場の片付けに奔走する黒髪姉妹が盗み聞いては肩を揺らして去っていく。
「ったく、こっちだってこの短期間で聞き飽きてるんですよ。まさかその年でもうボケたんじゃないでしょうね。……いえ、もうボケてますね。色ボケって奴ですか」
「失礼な! でもアタシ、ボケるような年になっても延々ディルの事話しそうだよね。ディルが良い男だから仕方ない。諦めてくれアクエリア」
「何を諦めろと」
酔いも手伝って、彼女の話はまだ終わりそうに無かった。
諦めて聞き流そうとして、更に続く惚気の終わりに不意に彼女が沈黙を招き入れる。
「……アクエリア」
それまでの声と違って、どこか真剣な音。何ですか、とばかりに視線を向けたら彼女は僅かに笑みを浮かべている。
「アクエリア、またどっか行ったりするの?」
話の流れの中で整合性が無い言葉。怪訝な顔をしたはずなのに、無意識に言葉が零れ落ちる。
「もう暫く居ますよ。少し、居心地が良すぎるのは考え物ですね」
自分で口にしていて不思議だった。驚いた筈なのに、それが表情に出ることはない。
「そっか」
花の蕾が綻ぶような笑顔。マスター・ディルは妻の笑顔をそう評した。相違ないそれを見たのはいつ振りだろう。
同時に気付いた。これは夢なのだと。年月が過ぎ去った筈の顔を鮮明に思い出す夢は、会話まで再現するつもりはないらしい。一度も交わした事のない言葉が、互いの間で行き交う。
これは夢だ。
「なぁ、アクエリア」
だから。
「もしアタシが居なくなっても、『あの子達』のこと、頼んでいいかな」
意味の分からない言葉を掛けられても、夢だと思えば納得がいく。
彼女が言う『あの子』に心当たりがない。茶を濁すように曖昧な苦笑を浮かべて頷くと、それすらも見透かしたように笑う『花』。
綺麗だと、思っていても言ってやらなかった。その言葉は、彼女が愛して止まない夫が言うべきものだったから。
「どうか守ってやって。お願いだよ。アタシの大事な――」
夢は醒める。
唐突に切れた音声とともに、見える景色が歪んで曲がる。水に垂らした油のように、歪な曲線を書いて黒く染まり行く。
彼女に向けて伸ばした筈の手は、寝床を抜け出そうとした同衾相手の手首を掴んで変な声を上げさせた。
ああ、掴めたのは彼女じゃない。
夢の中で言われたのは心当たりのない言葉達だ。
だから、起きれば夢だと忘れる事も出来るだろうと思っていた。
なのにその記憶は、夢から醒めても覚えていた。
彼女の声そのものな、柔らかい音と共に。