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【第二部】アルセンの方舟 ―国家公認裏ギルド夜想曲―  作者: 不二丸茅乃
Op.5 花鳥風月 下 散華し唯一世界
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 ――時間は、誰に対しても平等に過ぎる。


 酒場を拠点とするギルドメンバーはそれから、三人ほど増えた。いずれも女性で、最近一人減った。

 皆、それぞれが独自の地獄を備えて立っている。命があるから良かった、なんて冗談でも言えない者達だ。

 ディルの鬱々とした精神が伝播したように、誰も彼も辛気臭い顔をしていたがそれで良かった。


 五年経っても、ディルの願いは変わっていなかったから。

 ただ一人だけに向けた想い。それ以外はどうなっても構わない願い。




「……んー……? ……んー」


 そして酒場二階の一室で、寝台に潜り込んでいた一人が深夜に目を覚ます。

 結んでいない長い金髪を掻き上げて時間を確認するも、日付が変わって暫く経っただけの宵闇の時間。

 その女は起き上がり、一糸纏わぬ体のまま足裏を床に下ろした。


「………」


 同衾している男はまだ寝ている。寝顔を確認する為に振り返り、安らかな間抜け面を見て立ち上がろうとしたその瞬間、寝台に付いていた手首を掴まれて言葉にならない声を上げた。


「っひぎぇ」

「……ミュゼ、どこ行くんです」


 青紫の睫毛が動かない。瞼を開かないまま、アクエリアが咎めるような声を出した。


「……下に飲み物取りに行くんだよ。まだ夜も長いし、明日も休みだしもう一杯やっても良いだろ」

「またですか。最近飲み過ぎですよ。体に障りますからね」

「休みの日くらい好きに飲ませてくれ。……アクエリアは何が良い?」

「高くない赤ワインなら何でも」

「はいはい」


 時折同じ寝台で寝る関係になって暫く経った二人は、その会話さえも日常生活の一部になりつつあった。

 露出の少ない簡単な黒い部屋着を纏ったミュゼは、足音静かに部屋を出て行く。階段を下りた先の酒場客室はまだ蝋燭を消していないようで明るかった。


「……ぁあ? なんだ、ミュゼか」


 客室は、既に閉店して時間が経っているであろうに飲んだくれている男の姿がある。

 顔に前髪を垂らしているが、見える範囲の顔の肌は真っ赤だ。度数の軽い酒でよくここまで酔えるな、とミュゼが鼻で笑う。

 本名をアールヴァリンという王子騎士にして裏ギルド副マスターであるヴァリンは、たった一人で乾き物を肴に酒を飲んでいる様子だ。

 騎士としての仕事を後回しにしながらも、こんな場所で酔っ払う程度には暇なんだなと軽く流してカウンター内部まで歩いていく。勝手知ったるなんとやら、自分が飲む分とアクエリアに頼まれた分を手にすると適当なカップを二つ選び取る。


「今日もまた愛しの人と宜しくやってたって訳かな、ミュゼ? 別にお前らがどうなろうが知った事じゃないが、仕事に支障をきたすような無茶はするんじゃないぞ」

「はいはいご心配どーもです。その仕事が最近割り振られないから暇なんじゃないか」


 取った酒とカップを盆に置いて、カウンターの端にある紙に何を取ったか書きつける。後から家賃と一緒に払い込めばそれで終わり。

 すぐに部屋に戻ってもいいのだが、この際とばかりに気になる事を聞いてみる。


「……ここ最近、マスターの姿見ないけど何かあったのか」

「ああ? この時期はいつもこうだ。……そうか、お前は初めてだったな」

「こう、って……どう? 何がどうなってんの」

「嫁が死んだ季節が近づくと調子を崩す。死んだ月になったらもっと酷い。たまに俺が様子見に行ってやってるから死んではないがな」

「酷いって、どうなるの」

「食わない飲まない寝てばっか、まるで死人だな。腐ってないだけまだマシだ」


 ミュゼも、当の本人から聞いて少しだけなら知っている。

 死んだとされる妻を、今でも忘れられないこと。忘れたくないと思っていること。だから、それにどれほどの痛みが伴うとしても、彼女の話を人から聞くことで、今でも愛を繋いでいる。

 人形とまで呼ばれた男が感情を知り、そして感情を教えた相手を失い、今は死人のようだ、と。妻が生きていた時期のディルを知らないミュゼは、当の死人紛いがいるであろう部屋の方角に視線を向けた。元から幽鬼のような男だったが、今は重症らしい。


「ずっとなの」

「この時期はな。お陰で俺が感傷に浸る間もありゃしない」

「ヴァリンは感傷に浸りたいの?」

「まさか。感傷に浸ってあいつみたいに腑抜けになってたら、いよいよ俺も副隊長の座を奪われる。今は療養って名目で頻繁にこっちに来ることが出来るけどな、本来なら顔を出すのも難しいくらい忙しいんだよ」

「全然そうは見えないけど。ヴァリンっていつも見る度に暇そうで誰かにちょっかい掛けてるからなぁ。今日は管巻いてる姿が追加されたから余計時間余ってそうに見える」


 酔っ払いの相手をするのなら、自分が一番親しい人が良い。

 アクエリアの所に戻る為、ミュゼが盆を持った。これ以上戻るのが遅くなってしまったら、有らぬ事を疑われるかも知れない――という程に重い男だということも最近知った。

 機嫌よく支度を済ませ、階段に向かうミュゼをヴァリンが横目で見る。別に女として品定めしている訳ではないが、その視線はどこか暗い。


「なぁ、ミュゼ」

「はいよ」

「お前は絶対置いてく側になるんじゃないぞ。……特に、あいつは二回目だろ」

「………」


 その言葉に、ミュゼだって思う所が無い訳じゃない。ヴァリンだって、アクエリアの恋人だった女の話は聞いているのだろう。

 ヴァリンの言葉は切実だ。愛する者を失ったという共通点が、ディルとヴァリンとアクエリアを繋いでいる。その痛みは離別か死別かで違いはあれど、身を引き裂く痛みには違いない。

 ミュゼは肩越しに振り返る。顔をしっかりと向けないまま、唇だけで笑って見せる。


「好いた男が、壊れる程に愛してくれるってのは至上の贅沢だよね」

「ミュゼ」

「わーってる。私は死んだりしないよ。私がどうにかなりそうな時は、アクエリアが守ってくれるって言った。私はそれを信じてるし、アクエリアは約束を破るような男じゃない。もし子供が生まれたら、候補の名前くらいはヴァリンに考えさせてあげるよ」


 ミュゼはそれきり振り返らない。

 ヴァリンの言葉をしっかり受け取ったのかは、酔った頭では考えきれなかった。

 ただ、去り際の言葉はいただけない。だって、自分達だって望んで死なせた訳ではないのだ。


「……馬鹿女」


 ヴァリンは残りの酒を一気に喉奥に流し込み、勢いをつけて目の前に空き容器を叩きつけた。割れていないのは酔いが回る頭でも加減できたから。

 一人で飲む酒は全く美味くない。元から酒を好まないからではあるのだが、飲んでも楽しくなるなんてことが一切無かった。 

 いつか、隊長格が集まって酒盛りをしたことがあった。その時はまだヴァリンも成人してなくて酒を止められていたが、場の空気感だけで楽しくなって酔ってしまったことがある。

 隣には、好いた女もいて。

 その頃の記憶が一番、ヴァリンの中で鮮やかな色彩を持って残っている。


「………ソル」


 呼んだ名を持つ女は二度と戻ってこないことは分かっている。

 死んでいないかも知れない、と言われた嫌いな女は確かに死体が発見されていないが、ソルビットは目の前で、腕の中で、死んだのを確認してしまったのだ。

 未だに囚われている自分を、愛した女は無様だと笑うだろう。

 死にたいと思った事もある。実行できなかったのは、自分が臆病だからと思っている。

 死んでも彼女に逢えなかったら、死に損に他ならないから。

 損得勘定で死を躊躇う自分を薄情とも思った。結局死ぬ事も出来ずに、ヴァリンはまだ生きている。


「………」


 でもあの男は違った。

 ディルは死にたくなかったのではない。死ねなかっただけだ。それが、愛する妻の願いだったのだから。

 何も遺さずあの女が死んでいたら、ディルは躊躇わず後を追っただろう。そしてヴァリンさえ自害に手を貸したかも知れない。

 彼にとって、あの女の存在はそれほど大きいものだった。世界そのものと言って良い。ディルは今でも彼女の構成した範囲で生きていて、世界はそれで完結している。

 『花』隊長の犯した罪は大きい。一人の男を文字通り狂わせておいて、自分から離れていったのだから。そして道連れとばかりにソルビットを死なせた。ヴァリンが憎む理由はそれで充分だ。


 けれどヴァリンは、彼女が生きているかもと知っても殺意は湧いてこなかった。

 もし本当に生きていて、またあの馬鹿面を目の前にして何を思うのか。自分で想像してみても分からないヴァリン。

 本当にまた、あの女の顔を見ることが出来るのなら。


 愛した女の思い出話を一緒にする為に、酒の一杯でも注いでやってもいいかも知れない。




「そうか、もうそんな時期になるのか」


 その頃、王城では王妃の私室で言葉を交わす二人の人物がいた。

 一人は王妃ミリアルテア。夜着を纏っているものの、風除けを肩から掛けて来客の話に耳を傾けている。

 一人は階石 暁。今は父の後を継ぎ宮廷人形師の座に就いている。いつも通り、黒を基調に赤の縁取りがされた上下揃いの衣服は隙は無いほどにきっちり着込まれている。

 下品な話題が好きな人物がその二人の密会を見れば、あらぬ噂が立つかもしれない。しかし幸か不幸か、二人の姿を見る者はいない。


「困りますよねぇ、この時期になると取り次ぎ役様も使い物にならなくて。だから監査役であるウチが出るしか無いんですけれどぉ、あの方のいないギルドになんて寄り付きたくないですよぉ」

「監査役に立候補したのは誰であったかな? 自ら言い出した事は最後まで責任を取るが良かろう」


 二人は道ならぬ恋に落ちている訳ではない。遅い時間になっても途絶える事のない会話の内容は、酒場を隠れ蓑にしているギルドについてだ。

 マスターと副マスターが同時に体調を崩してしまう季節には、暁が頻繁に駆り出される。運よく、今はギルドに命じる仕事は少ないから、ギルドメンバーも暁も、感じる負担は少量だが。


「………」


 王妃は暁を見た。

 前から胡散臭い男だと思っている。先代宮廷人形師である暁の父親が短い期間でその座を退くと同時、後任として指名された男。

 少し前、王妃はヴァリンから質問をされた。暁の顔を見ながらそれを思い出す。


 ――『花』隊長が生きているかも知れない。義母上はそう考えた事はありますか。


 王妃はその場で否と答えた。プロフェス・ヒュムネに襲われた者の末路は決まっていたからだ。


 ――生きていると仮定して質問します。もしそうなら、今何処にいると思いますか。


 その時のヴァリンの瞳は、ここ数年で見るようになった無気力なものではなかった。かつて王子騎士として、王位継承者として、背筋を伸ばして皆の模範となるべく努力していた時の瞳だった。

 義理の母として、ヴァリンにしてやれた事は少なかった。もとより、最初は辛く当たっていた時もあるのは事実。自分の血の繋がった子以外に向ける母性は持ち合わせていなかったから。

 義息子は、王妃の手に因らず大人になった。そうして向けられる視線に敵意があるのも知っていた。

 彼がソルビットと添い遂げたいという願いも叶えてやれなかった不甲斐ない義母だ。だから、彼の問いに耳を傾けたのは彼に対する後ろめたさもあったのだが――彼の言葉に、引っかかりを感じた。


「……暁よ」


 名を呼んだ先の暁は笑顔だ。いつもと同じく、開いているのか閉じているのか分からない瞼も一緒。


「『花』隊長が死んだと最初に言い出したのは其方だと聞いているが……其方もあの者に懸想していただろう。あの者の死を認める時に抵抗は無かったのか――」


 王妃がそう問いかけた時。

 暁の瞳が、笑顔のまま開いた。

 濁った緑色が、王妃を真っ直ぐに見ている。その視線には普段の道化を繕った表情は無い。


「………」


 まるで蛇が蛙を睨む時の、捕食者の瞳だった。王妃はそれを見て言葉を失う。

 王妃という立場には、聞いてはいけないことなど無い筈だった。暁など、王妃の手に掛かれば難無く殺せる程度の力しか持っていない。なのに、その一瞬だけは悪寒が肩から下を這いずって、喉元に圧迫感を齎す。


「………ふふっ。ウチだって、傍に居ない人にいつまでも懸想する執念はありませんよぉ。ウチを選ばないなら尚更。マスターもヴァリン様もしつこいですもんねぇ、もう諦めればいいのに」

「其方はしつこくないと?」

「ウチですか? ウチはですねぇ、どうでしょうね? 自分をそういう風に見た事ないから分かんないですねぇ」


 とぼけた暁は瞼を閉じた。白色の睫毛に縁取られた瞳が見えなくなって漸く、王妃が一息つける心地になる。気付けば、背中に僅かながら汗が滲んでいるようだ。


「――ご質問の答えですけどぉ。死を認めるのは勿論抵抗ありましたよぉ? ……少しだけ、ですが」


 王妃の心中を知ってか知らずか、暁が笑みを深めた。


「けど、死んだってウチはあの方の事大好きですから。どうせあの方から愛して貰えないのなら、もう今は生死なんて関係ないですねぇ」

「実は生きている、……などということは考えなかったのか」

「ええ? 生きてたら? そうですねぇ、そうだったら素敵ですねぇ。あの方の可愛らしい声がまた聴けるってんなら、そんな妄想を繰り広げたって楽しいでしょうけど」


 暁の声は弾んでいる。

 生きている、なんて、そんな可能性を妄想と言い切って動揺も見せないのは、死を確信しているからか、それとも。


「本当に生きてるってんなら……何があっても、絶対、離しませんかね。好きな人がウチだけ見ないってんなら、ウチを見るようになるまで離れませんし、離しません。ウチを愛さないってんなら、ウチがその分二倍でも三倍でも愛します。そんで、ウチ無しで生きていけないってなったなら……愛されてるかどうか関係なくなりますからねぇ?」


 ――生きていると、知っているからか。

 暁の言葉は普段と変わらない軽薄な声で放たれる。しかしその声には狂気があった。

 王妃はその瞬間、暁を側仕えにしている事に若干の後悔をする。暁の狂気は、王妃が望んだ狂気と少し違う。箍が外れた者を何人も知っているのに、暁のそれは王妃さえも呑み込んでしまいそうな汚濁。


「……それはそうと、暁」


 だから、その汚濁の原因を探る。


「暁の工房には、私も何年も入っていないな? 久し振りに邪魔をしたいと思うが、いいか」

「えー」


 軽い調子を変えずに暁は不満そうな声を出した。


「そうですねぇ、……近いうちに。今日は駄目ですよ」


 やんわりと否応両方の返事を出した声は、先程と変わらない。


「今お招きすると、殿下がびっくりして心臓止まっちゃうかも知れませんからぁ」

「……私がか? 心臓が止まる程の驚きとは、相当のものなのだろうな?」

「そりゃもう。ウチが殿下を殺したってなったら、ウチだって無事じゃすみませんし!!」

「……その驚きの原因を、知りたいと思うが如何か?」

「駄目ですよ」


 暁の汚濁は、もう取り返しのつかない所まで来ていた。


「ウチ……俺だって、まだ殿下に死んでほしくない」


 わざわざ一人称を言い直して宣言するほどには、暁にとって――否、王妃にとっても、重要な事柄なのは感じ取れる。

 王妃は無理矢理にでも、工房に足を運ぶべきなのかも知れなかった。


「……そうか」


 けれど言外に通達された殺害の意志に、大人しく引き下がるしか手段は残されていない。

 此処で強引な手段に出て、どういう不利益が起きるか分からないのだ。


「それじゃ、今日はウチも失礼します。おやすみなさーい」


 退室する暁が飄々とした態度を崩したのは一瞬だけ。これ以上長居する気が無いという意思が見えて、王妃も引き留めはしなかった。


「………」


 王妃は、誰も居なくなった部屋で頭を抱える。

 思い悩むのはもう止めた筈だ。今更立ち止まっても、全てが遅い。

 もっと前に、何か切っ掛けがあれば立ち止まれたかも知れない。引き返せたかも知れない。でも今振り返っても、高く積まれた死体の山が帰り道を邪魔するだけ。

 これまではその死体の中から、『花』隊長が王妃を呼ぶ怨嗟の声が聞こえていた気がした。


 生の道程の途中に地獄が用意されているのは、王妃とて例外ではない。

 後戻りできない分岐点で、王妃は今まで誰にも嘆きを漏らした事は無かったのに。


「っ……」


 本人にさえ聞き取れないような小声で、そっと昔に縁を繋いだ男の名を呼んだ。

 掠れかけた記憶に今もまだ残る、優しい笑顔を思い出しながら。


 自分から手を離して捨て去った、恋人だった男の名前を。



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