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隊長職解任と、騎士勲章剥奪。
王城から事実上追放となったディルだったが、その顔を見る者は誰もが悲し気な視線を寄越している。
それを同情と取るか侮蔑と取るかは受け取る側であるディル次第だったが、ディルは意に介さず、不平も申し立てずに城を去った。
残ったのは、無理矢理押し付けられた裏ギルドのマスターとしての地位だった。
『j'a dore』マスターの特権は、およそ追放された者に与えるには不似合いな程優遇されていた。高額な報酬、各種納税の免除、騎士捜査の不可侵、それから王城との取り次ぎ役の設置。
本来は妻が引き継ぐはずだった地位だ。ディルに残ったのは、望んでもいない新たな役職と妻の遺した酒場。
酒場に帰ってももう妻はいないのに、それでもディルは失意のまま戻る。
二人が暮らした、幸せの欠片が残る家へ。
「あ、っ……」
秋の夕暮れに街並みが染まる頃、ディルが無言のまま酒場の扉を開いた。
客席の周囲を開店の準備で歩き回っていたのはマゼンタだった。いつもの給仕服で仕事をしていたが、ディルの姿を見ると表情を引き攣らせてしまう。
ディルは今まで城や隊舎の私室に置いていた細々とした荷物を肩に下げ、腰には武器である長剣を下げていた。
いつも以上に覇気のない彼の姿に、厨房から出てきたオルキデさえも言葉を失う。『花』隊長とともに並んでこの酒場で暮らした彼の顔は、こんなものじゃなかった。
「……おかえり、なさい」
オルキデが、城に仕えている者達と同じ顔をしてディルを迎えた。その瞳に籠っている感情を理解しようともせず、彼は酒場の中に視線をやる。
客席もカウンターも、酒瓶の並びさえ出て行った時と殆ど同じだ。なのに、彼女がいない。
それを思うと同時に、今まで見た事が無い異物を見つけてしまう。
「――……」
カウンターの内部、いつも妻が居た場所。
其処に知らない男の姿があった。同時に、この店に似つかわしくない熟れ過ぎた果実のような腐臭を僅かに感じ取る。
男の姿はアルカネットのものでもない。葬られたエイスでもない。
竜胆を思わせる青紫色の短髪、気怠そうな濃い藍色の瞳、髪を掻き分けるように伸びている長い耳。男は酒場で使う食器類を磨いているようだった。布巾を手に、物憂げな表情で仕事をしている姿はディルの心を嵐のように騒めかせる。
その瞳と、視線が合った。
「あ、」
男がディルを視界に捉えて何かを口にする前に、ディルがその場に荷を放り捨てて剣を抜く。
その時のディルには拒絶しかなかった。
もう彼女は、愛した女はいない。けれど男がいる場所は、この一年は彼女が居る、彼女の為の場所だった。
これ以上、妻の領域を侵されたくない。
「ディル様!?」
「ディルさん!!」
姉妹の制止する声が同時に聞こえる。それよりも早く、ディルは駆け出していた。
剣の柄を握る手に余分な力が入る。行き場のない怒りはそこからも放出されていた。
「ディル様っ!!」
姉妹は二人とも、武器になるようなものを手にしていなかった。だからと、プロフェス・ヒュムネとしての能力を発動させるには手順が必要になる。即座に対応する瞬発性は、武器に頼らぬ性質の二人には無い。
瞬き一回の間に、二人の距離は詰められる。銀の一閃が男の首を狙う、その瞬間。
「……『手に落ちろ』」
男が何かを呟いた。
たったそれだけで、室内に白光が迸る。
まるでディルの手を狙ったかのような光が掠めると、突然の痛みにディルが足を止め、手は反射的に剣を取り落とした。
痛みは耐えきれないものではない。しかし斬撃や打撃と違う、痺れるような感覚が手から腕、それから胴までを貫くようだった。
「っ……!?」
ディルは何が起きたか理解しきれていなかったが、剣を落としたのだけは分かっていた。その場に片膝を付くも、手は床の上の剣を探している。
「『白銀の髪』『灰色の瞳』『銀の閃き』『アタシよりも綺麗な顔』――。なるほど、彼女の旦那様ですか」
尚も剣を握ろうとしたディルに、男の声が届いて手が止まった。
男の口から聞こえた一人称に、胸を突かれたような郷愁を感じてしまったから。
「色々と話は聞いてますよ。貴方、ディルさんですね。御挨拶が遅れてすみません」
男は、剣を向けられていたにも関わらず冷静に努めた声でディルに話しかけた。
「俺はアクエリア。少し前から、こちらで名目上は酒担当で働かせてもらっています。……彼女から、俺の話は聞いていませんか」
「アクエ……リア……?」
「お顔を合わせるのは初めてでしたかね。俺は彼女から貴方について頭が痛くなる程話を聞かされているので、これが初めてな気がしませんね。外見が耳から伝わる程に、それはもう深く」
ディルが視界に捉えた男の姿は初めて見るもので、声を聞くのもこれが最初だ。
「……本当に、聞いていた通りの人だ。ねえ、ディルさん。少しお話しませんか」
なのに名前を聞いたのは、初めてではないかも知れない。
『ねえディル。聞いて聞いて。あのね、酒場に新しく人が入ってくれたんだ』
そんなに昔の話でもないからか、自然と彼女の嬉しそうな声を思い出す。
『ディルにも早く会わせたい。変わった男だから、仲良く……は無理かも知れないけど、少しは気にして欲しいな。名前はね、』
「アクエリア」
「はい」
「我が妻から、何を聞いた」
ディルの手は剣に触れたままだ。しかし今それを握る事はあっても、振り上げようとする気は失せてしまった。
姉妹二人は空気を感じ取って、厨房奥へ引っ込んでいく。残された男二人は、言葉を交わすと共に見つめ合うだけ。
「……色々。本当に、色々聞きました。貴方への惚気が大量に、あとはこの酒場に纏わる面倒臭い話もですか」
「………そうか」
含みを持たせたその言葉で、酒場の裏の顔までもを聞いているのだろうな、と容易に理解出来た。
彼女の事を知る、新しい店員。彼女がディルに笑顔で存在を伝えたその男を、今害する訳には行かない。
「座ってください。貴方がこの酒場を継ぐとも聞きました、新しい店主の為に一杯差し上げたいのですが」
「……我は酒は飲めぬ」
「は?」
カウンターの中で酒瓶を選別しはじめたアクエリアの背で、ディルが剣を鞘に戻す。
ディルがいつも座る席に腰掛けると、殆ど変化が無い筈の店内に男の存在はやはり異物として見えてしまう。
アクエリアは酒場に住む男が酒も飲めないのかとばかりに、即席で酒気の無い飲み物を作り始めた。絞った柑橘類の果汁に、少量の蜂蜜と砂糖を混ぜて水で割る。味見にひと匙ぶんアクエリアが口に含んで、その後カップに入れて出してきた。
ディルは一連の動作を見ていたが、毒が入っている訳ではないらしい。カップに仕込まれていたら話は違うが、ディルはあまり躊躇うことなく口にする。
……案の定、以前のように舌は味をあまり感じなくなっている。僅かに香る蜂蜜が、彼女が淹れてくれた紅茶のことを思い出させるだけで。
一口だけ喉奥に流し込んだ後は、カウンターに置いてもう見向きもしない。
「……ディルさん」
「何だ」
「俺はね、彼女に雇われたんです。ですが貴方の意向次第で、俺はココを出て行く準備もある。相性というものもあるでしょうしね、無理に残りたいなんて言いませんよ」
「……好きにしろ」
「好きに、って……。ココ、貴方の所有になるんでしょう? 他人の意思に任せていいんですか」
「………」
ディルの耳に、アクエリアの言葉は確かに聞こえている。しかし、聞いてからこの男の今後を考える気分ではなかった。
アクエリアも、ディルの無気力は聞いていた。だから溜息を溢すだけで焦れたりはしない。
「……酒場、彼女がいなくても開店できるくらいにはなってるんですよ。俺の働きぶりも考慮に入れてみてください。俺には時間がありますからね、急かしたりはしませんよ」
「そうか」
「あと、閉店後にまだ話したい事があるので起きていていただけると嬉しいです」
「……我は、まだ寝るつもりは無い」
「そうですか」
ディルとアクエリアの初対面は、そうして終わる。穏便にとはいかなかったが、アクエリアは事情を知っているからこそ暴挙を耐えた。
酒場の開店時間が来る。
ディルはその後、アクエリアがダークエルフであり、先々代店主のエイスと兄弟であることを知る。
特に否応を伝えた事はないが、アクエリアはそれからも酒場を自主的に出て行くことは無かった。
二人はお互いに、深く何かを聞いた事はない。
他人を装って、深く関わらない事で保っていられた仲だった。
ディルが酒場に戻ってきて一か月程したある日、昼に来客があった。
男は濃紺の髪を無造作に撫でつけて、それまでの生真面目な態度を豹変させていた。
最後に見た時よりもだいぶ痩せていた。それはディルだって同じだったが。
「ディル、元気だったか」
元気かどうかを聞くその口に覇気がない。
王位継承権を放棄して、今は心身療養中の身だと聞いていたアールヴァリンだ。
その時にはディルの他にカウンター内部で作業をしているアクエリアも、たまたま自警団の仕事から帰って来て食事をしていたアルカネットもいた。
アルカネットは相変わらずディルに他人行儀だったが、その点についても気にしなかった。何処までも他人でいてくれたなら、義理とはいえ妻の弟分であるアルカネットをギルドの仕事に巻き込むことは無いと思っていたから。
「――ふん」
「マスターの仕事の引継ぎも落ち着いて来ただろうし、色々と報告と確認したい事がある」
「………」
ディルの眉が寄る。まさか今、アルカネットが居る状態でその話をされるとは思っていなかったから。
アールヴァリンは手持ちの荷物をどっかりと床に下ろし、手近な椅子に手を掛けた。腰を下ろすと同時に足を組む。
「ギルドと王城の取り次ぎ役が決まった」
「アールヴァリン」
「それに伴い、取り次ぎ役に酒場の一室を貸し与えろって話だ」
「アールヴァリン、その話は後にせぬか」
「何でだ?」
アールヴァリンは、そう問い返すのがさも当然という顔でディルを見返す。
「ギルドメンバー全員揃ってんのに、今言わないでいつ言うんだ」
「全員――?」
ディルの視線がアルカネットを見た。彼は彼で、気まずそうにディルから視線を逸らしている。
衝撃を受けたのはディルの方だ。彼も、既に『手遅れ』だった。
「……アルカネット。汝は、ギルドについて」
「……ああ、知ってるよ」
「何故」
「俺が頼んだんだ、アイツに。……仕事回してくれ、って。でないと、俺には金が必要だったから」
「金の為に手を汚す事を選んだと? ――馬鹿な」
「馬鹿って何だよ」
二人の間には、最初から信頼関係は無かった。だからこの件が切っ掛けで、急速に仲が拗れていく。
彼女のいない世界の歪な未来が、手遅れな程に捻れていく。
アルカネットは憤慨するが、ディルにそれ以上反論することなくアールヴァリンの言葉の続きを待った。
「……、話を続けるが。それで、取り次ぎ役に『鳥風月』及び『風』副隊長、アールヴァリン・R・アルセンが就任することになる」
「――今、何と?」
「だから俺がこれから先取り次ぎ役になるって話だ。まぁ、俺も療養中の身だからな。派手な事はしないし仕事も主立ってやる事は無い。同時に俺を副マスターに就任させるって話もあるよ。お前が精力的に仕事しそうにないしな」
「その話ではない。……アルセンの騎士団は『花鳥風月』であろう?」
「………。今回の損害と、『花』隊長副隊長両名の死亡。国王陛下と王妃殿下は『花』隊自体を解体して再編する方が早いってお考えだ」
ディルの耳は、僅かな違いさえも敏感に聞き取ってしまった。
またひとつ、彼女がいた証が減った。亡き妻が冠していた符号が何の意味も持たなくなる。
アールヴァリンから話を聞いても、実感が無い。
心の時間は、彼女を失った日に止まったままなのだから。
「……馬鹿みたいな話だよな。俺も、お前も。一番大事なものを亡くして、それで死ねたら一番楽だったのにこうして永らえてる。意味が分からんぞ、何で、俺、生きてんだろう」
アールヴァリンだってディルと同じだ。
好いた相手の死と同時に命など絶えればいいと何度も考えたのに、その好いた相手が生きるように言ったのだ。
想いを伝えることさえ出来なかった相手が最期に願ったそれを、無碍にできるような男ではなかった。
特にアールヴァリンは、ディル以上に弱かった。
「……」
ディルは、今にも泣き出してしまいそうなアールヴァリンに鍵を投げる。貸し部屋のひとつだが、部屋番号は見ずに投げた。どんな部屋であろうと、彼はきっと使わないだろうから。
受け取ったアールヴァリンは、失意の雫を瞳に浮かべたままその場を後にする。階段を上る音が聞こえ、部屋を確認しに行った背中をディルは最後まで見送った。
アルカネットは空気の居心地の悪さに、食事もそこそこに酒場を出て行ってしまった。
アクエリアは話を聞きながら、もう居ない女性二人の顔を思い浮かべる。話に出ていた二人ともに面識があったのだ。
秋が終わった。
冬が訪れた。
春の芽吹きが来て。
夏になっても、左腕を失くした妻は帰って来なかった。
一年という時間は、結婚した後と失った後と、同じ間隔で流れた筈だった。
なのに彼女を喪ってから訪れた一年は身を焼くような痛みを伴い、気が触れそうな程に長く感じた。
それが二年目、三年目、と積み重なっても、ディルは生き続けた。
何をも齎さない生を、最愛を失った暗く冷たい孤独の中で。
彼女が自分に願った、ディルの世界で一番残酷な願いを叶えるために。




